13.うごめく残党――動揺、そして開き直る


"革命烈士の碑を "……

 「階級闘争の儀牲となったかれら革命烈士の悲哀を刻印として秘めるのみならず、われわれの胸のうちを共同墓碑として具体化したいと考えます」――「あさま山荘」事件から一力月あまりたった三月三十一日、「連合赤軍」を名のる毛沢東盲従集団の "公然部隊 "、「日本赤色救援会」なるものが東京で集会をひらき、こうさけぴました。火つけ、強盗、殺人……ありとあらゆる反社会的犯罪をくりかえし、あげくのはてに "仲間 "どうしのせい惨な殺しあいをした連中のために "胸のうち "ばかりか、実際に「碑」を建立するといい、そのために、土地を提供してくれ、カンパもしてくれともいいます。いったいだれに向かっていうのか。これまで一味をはげましつづけ身内のように扱い、つい先ごろもかれらを含む「新左翼は立派だ」ともち上げた周恩来からその「正しい指導」を強調された戸村一作、岡田春夫など種々雑多な盲従集団にでもたのみこもうというのか。

 二年前の「よど」号ハイジャック事件二周年と銘うったこの集会には「赤軍派」や「京浜安保共闘」、「ブンドさらぎ派」などの徒党、百五十人あまりが集まりました。盲従集団にたいする世論のきびしい糾弾のなかで、さすがに集まった連中におののきの色はかくせません。壇上からのアジ演説にもおしころしたような拍手だけ。

泣き出さんばかりの調子で

 「あさま山荘」で "銃撃戦 "が開始された当初には東京、京都で「銃撃戦支援集会」をひらき、「連合赤軍に呼応を」「軽井沢へ」などと気勢をあげていたものでした。さらに虐殺事件についても、山田孝の死体が発掘された段階までは「武闘を本格的にやろうとする集団にスパイがいれば殺すのは当然だ」とうそぶいていたものでした。

 ところが金子みちよ、山崎順、加藤能敬……とあいついで虐殺死体が掘り出され、目をおおうリンチの実態が明るみに出てくると、かれらのなかにも動揺がいっきに広がりました。「事実関係を明らかにするにとどまらず……総括へと発展させられねばならないがかなり長期にわたる苦しい作業であることが予想される」(「赤色救援会」声明、三月十一日)と。

 「赤軍派」の「政治局員」を名のる川島豪にいたっては「たまらなく悲しく、さびしいのだ」と、刑務所のなかからまさに泣き出さんばかりの調子でした。これに応じて、京大文学部新館前にたてられていた「連合赤軍は人民の宝である」と大書した看板はいつのまにか消え、東京、大阪、京都で「連合赤軍支援」を叫んでいた残党もピタリと口をつぐみ、なかには下宿先にもいたたまれなくなった連中もいます。

森・永田に責任なすりつけ

 ところが、どこからてこ入れがあったのか、一二月三十一日の集会で一味の幹部は「味方内部に広はんな動揺が起っているが、我々はこの動揺をおし隠す必要はない」とひらきなおりだしました。そして「自己批判から出発する」「教訓の血肉化作業をいそがねばならない」とくりかえしのべ「連合赤軍によって発せられた銃声は我々を大いに勇気づけ、敵を恐怖に陥いれ混乱させ」「日本革命戦争を大きく前進させた」などとさけびちらしました。さらに声をはりあげ「『鉄砲から政権が生まれる』という革命の鉄則を繰り返し確認しよう」「毛沢東思想を高くかかげ人民遊撃戦争の大道を前進しよう」と叫んだものです。

 それでも集まってきた一味の動揺を静められないとみたのでしょうか。大量虐殺事件は「軍事のみに走り、政治をわすれた結果」であり、「人民内部の矛盾」を「団結、批判、大団結」の "大原則 "で処理するという毛沢東の "おしえ "にそむいて「閉鎖的、固定的、独善的に処理した」ことによるとのベ、名ざしで森恒夫と永田洋子をやり玉にあげ、責任をなすりつけるしまつでした。

 だが森、永田らを中心とした「連合赤軍」一味の一連の犯行、集団リンチは毛沢東の一言一句を金科玉条にして "実践 "してみせた当然のいきつく先であり、直線でつながっています。現に金融機関襲撃M作戦でつかまり、森を "批判 "していた藤沼貞吉は「おれが外にいたら殺す側にまわっていたろう」ともらしていることからも明らかです。森、永田らを「あさま山荘銃撃戦」のときは「革命的」ともちあげ、大量虐殺事件が明らかになると、一ヵ月もたたないうちに「反革命」と手のひらをかえし "悪玉 "にしたてあげ、ショックからさめやらぬかれらの "兵士 "や一味の雷同者をなんとかつなぎとめようとしているのです。

爆弾闘争の画策つづく

 だがこの「獄中幹部」の珍妙な理屈も実は中国からの直輸入。「文化大革命」の際、毛沢東から「最初のマルクス・レーニン主義的大字報」を書いたとしてほめ上げられて紅衛兵運動の中心になり、北京大学教員から北京市革命委員会副主任へと「文化大革命の花形」にのしあがった聶元梓がわずか一年後に同じ毛沢東からその地位を追われました(一九六七年)。そればかりか、「一貫して毛沢東思想の偉大な赤旗を高くかかげ、もっとも確固として、守ってきた」人物として毛沢東の「後継者」にされてきた林彪までもが、いまや「劉少奇のたぐいのペテン師」とされ、生死のほども明らかでないという状態です。日本の毛沢東盲従集団のサルまねも驚くに当たりません。

 こうして一味の残党はいま、あの手、この手をろうして衝撃をはらいのけ、またぞろ動き出そうと画策しています。東京、京都、大阪など各地で一味の残党は集会をひらき「密集地でのテロ、破壊、爆弾闘争をなんらちゅうちょもなく実現せよ」「武器を手にいっそう陣営を強化せよ」と叫んでいます。

 関西の「赤軍派」は兵庫・丹波山中で新型爆弾実験をやり、「連合赤軍」事件に批判的なことをいっているトロッキスト「中核派」もそこから何キロとはなれていない大阪・能勢山中で「武装遊撃隊」の「軍事合宿」をしています。 "烈士の碑 "建立や逮捕された一味の "救援 "活動なども、陰に陽につづけられています。

 その際、見のがすことができないのは、かれらのこうしたしゅん動も、また毛沢東の片言隻句をつづり合わせることでつじつまを合わせていることです。


もくじ 10 11 12 13 14

inserted by FC2 system