11.「赤軍派」――ハイジャックを周恩来にほめられ、感激


中国人民解放軍紙をまねる

 山岳アジトに結集した二十九人の「連合赤軍」のうち十九人がトロツキスト「ML派」から毛沢東盲従集団へ変身した「京浜安保共闘」。残る十人がトロツキスト共産同赤軍派から毛沢東盲従集団へ転身した「赤軍」派の一部です。「赤軍派」出身者の中心は「連合赤軍」の指揮官、森恒夫(二七)、「坂東軍団」といわれて金融強盗に悪名をはせた強盗の頭日、坂東国夫(二五)、リンチで最後に殺された山田孝(二七)。

 「赤軍」――こんなことばが聞かれはじめたのは一九六九年五月ごろ。この年も前年にひきつづき東大闘争、それにつづく四・二八沖縄統一行動など、国民的なたたかいが大きく盛りあがりました。このなかで、ゲバ棒、投石、火炎ビンなどで機動隊と衝突し、共産党や民主勢力の統一行動破壊に狂奔していた各派のトロッキスト暴力集団。なかでも共産同系の暴力集団、五人組の軍隊組織・「共産主義突筆隊」のなかで「赤軍」という機関紙が配布されました。この「共産主義突撃隊」は、当時共産同の一分派だった「赤軍派」一味が中心になって各地区ごとにつくったもの。この各地区の突撃隊員に「10・21、4・28闘争は軍事的敗北。早急に軍隊を組織し武装蜂起しなくてはならない」というかれらの「前段階武装蜂起」論が初めて提起されました。かれら自身が『世界革命戦争への飛翅』という本のなかで、「中国人民解放軍の軍機関紙をまねて機関紙 "赤軍 "をつくった」といっているように、このときからすでに毛沢東盲従のきざしがみえていました。しかし、かれらは思うように「隊員」があつまらず、そのごの闘争で全国動員をしては、このなかから恒常的に東京で活動する「中央突撃隊員=赤軍親衛隊」を志願兵として徴兵しました。

"武装蜂起 "だと突撃隊結成

 また、前年の第一次、第二次羽田事件や一月の東大闘争で逮捕された暴力学生がつぎつぎと保釈で出てきたのもこのころ。保釈されたばかりの暴力学生への「赤軍派」によるオルグが強力におこなわれました。東大・安田講堂占拠事件で逮捕、起訴された社学同二十七人中、十九人が「赤軍派」に移りました。その他「中核派」や全共闘系・ノンポリの暴力学生も組織して、一時期は四百人近い勢力にふくれあがったといいます。

 これを指導したのが、当時は共産同書記長の塩見孝也(三〇)。一九六九年五月、共産同から除名された塩見ら "関西派 "は、この突撃隊を申心に、八月正式に「共産同赤軍派」を結成。塩見は、その政治局議長にすわりました。当時、塩見らは「毛沢東、ゲバラなどのレーニン死後の実践・理論をわれわれの実践のなかから統一した。さあ武装蜂起だ」と叫ぴ、約百五十人の中央突撃隊をつくりました。この突撃隊が赤軍中央軍。まず、かれらの拠点、大阪で九月に "大阪戦争 "を宣言して交番を襲撃しました。そのご、決死隊による首相官邸占拠などの目的で五十三人の幹部要員を大菩薩峠の "福ちゃん荘 "にあつめ軍事訓練をしている最中に、警察に踏みこまれ全員逮捕されました。

 これに参加しないで逮捕をまぬがれた塩見は、日本では軍事訓練ができないとして "世界同時革命―国外根拠地建設 "を主張。 "軍事訓練 "をうけるだめにキューバに国外根拠地をつくるという「フェニックス作戦=よど号乗っとり計画」を七○年一月の中央委員会で決めました。この会議で、作戦遂行のための最高指導部「フェニックス委員会」が塩見、田宮高磨(二七)、小西隆裕(二五)らによってつくられましだ。そのご、この委員会の指導で空港調査や武器調達、資金調達がおこなわれました。作家の大藪春彦氏宅を襲ってけん銃などの武器を奪うアンタッチャブル作戦、葛飾区青砥のスーパーマーケットや京都市のキャバレー "カジノ "に強盗に押しいるマフィア作戦などが実施されましたがいずれも失敗におわっています。

 また、中央委員前田、上原が塩見の指示で中大生の共産同叛旗派暴力学生足立某に「資金三十万円を準備しているのでハジキ五丁とヤッパ(日本刀)十五丁を都合してくれ」と依頼。足立は、極東組に顔のきく暴力団員に「学生運動でゴタゴタがあるのでケリをつけるために日本刀がほしい。十五本くらい都合してくれ」と頼みました。この暴力団員は東京・上野のアメ横で「演劇に使用する」といって日本刀や短刀の模造品十五本を六万三千五百円で買い「真剣だが刃どめをしてある」と足立の目の前でヤスリ、グラインダー、と石などで刃をたて、サラダオイルでサビどめして渡したといいます。

 「よど号」のっとりにはこのニセの日本刀が使われました。日本国民を憤激させたこのハイジャックにたいして、かねてからトロッキストを支持、激励していた中国は、こんどは、周恩来じきじきに「すぱらしいこと」と「赤軍派」を称賛しました。これに感激したのか、塩見は、そのご「毛沢東と中国共産党はマルクス・レーニン主義を継続発展させた、過渡期世界の革命的創業者であり、毛沢東主義はとどまるところを知らず発展しつつある」(大菩薩峠公判での所信表明)と毛沢東をほめたたえて自称の "日本のレーニン "から "日本の毛沢東 "にみごとに変身しました。

 大菩薩峠での軍事訓練や「よど号」のっとり事件で幹部の大半を逮捕された「赤軍派」は、そのご森らの指導で、強盗、かっぱらいのM作戦や爆弾闘争をくりひろげ、同じ毛沢東盲従の「京浜安保共闘」ヘ、急速に接近していったのです。


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