8.毛沢東思想学院―― "学習道場 "から暴力実践ヘ


赤軍派やML派を援助賞揚

 そのものずばり「毛沢東思想学院」――。昭和四十一年十月、西沢隆二と前後して共産党を除名された大塚有章(七五)の主宰する "学校 "で、兵庫県宝塚市にあります。四十人程度が泊まり込める施設があり、土曜日から日曜日にかけて京阪神各地から学生、労働者などが集まってきます。

 かれらと「連合赤軍」の関係は密接です。関西でうまれた「赤軍派」にたいし、集会会場として「学院」の建物を貸すなどの援助をする一方、永田洋子をはじめとする「京浜安保」の母体組織・ML派を「東大正門に、現代における世界革命の最高指導者毛主席の肖像をかかげ、 "毛思想万歳 "の赤旗と、 "帝大解体 " "造反有理 "のスローガンを高だかと上げたのがML派」(大塚有章、かれらの雑誌『毛沢東思想』四十四年五月号)と称揚、 "共闘 "を組んできました。その密接な関係は、同じ盲従仲間の福田一派からさえ「『連合赤軍』を生み育てた」(福田一派の機関紙「人民の星」三月十八日付)とたたかれているほどです。

延安の毛沢東を猿マネして

 大塚は脱走する前、日中友好協会大阪府連の理事長で、同府連が奈良県平群村に開設した「日中友好学院」の院長でした。中国で鉄砲を撃たせてもらいすっかり感激してしまった、例の木村喜代子は、同学院の卒業生です。同学院に通っているうちに大塚に傾倒し、卒業後日中友好協会脱走派の事務所につとめ、一路盲従の道をつきすすんだのです。

 平群村の「日中友好学院」は農家を改造したものでした。建物が古いのはやむをえないとして、たたみ敷きの教室にたいしカーテンでへだてた院長執務室は、薄暗い土間に木製の机、いすをならベ、 "延安の毛沢東 "図に似せてしつらえてありました。

 大塚がかつて "新中国見学の旅 "にたったとき、 "中国共産党万歳 "の腹巻きをして船に乗ったという話は、関係者のあいだでは有名です。

 大塚は共産党を除名された当時、西沢とともに「毛沢東思想研究会」を設立、しかし一年ほどでけんか別れし、その後は「毛沢東思想学習会」なるものをつくり、「理論」「実践」の両面で盲従、反共に狂奔してきています。仲間である盲従各派はこの二派を区別して西沢一派を「毛研」、大塚一派を「毛学」と呼んでいます。

毛思想の活学活用は……暴力

 青年、学生を身近に集め"塾 "をつくることが好きな大塚は「学院」を設立、京阪神各地の「正統本部」(日中友好協会脱走派)のなかから、盲従度の高い "傾向のいい者 "を院生として選抜、半年一期で毛沢東思想をたたきこんできました。かれらは「学院」についてもっぱら "毛沢東思想の学習道場 "と宣伝していますが、その一方では "活学活用 "と称し、ML派などと組んで暴力実践に血道をあげてきたのです。表面に立った実践部隊は京阪神の種々雑多な盲従暴力学生をかき集めてつくった「学生解放戦線」「人民解放戦線」「毛沢東思想青年学生共闘会議」など。

 「毛沢東思想青年学生共闘会議」の結成を伝えて、かれらの雑誌(『毛沢東思想』四十三年十一月号)は叫ぴます。「鉄砲から政権が生まれるという毛主席の教えを実践する実力闘争の時代に突入した」「毛沢東思想を指針とする戦闘部隊割設」「持久的、猛烈に暴力革命を実践する」――。

北京からの指示待ちと弁護

 骨髄からの毛沢東盲従の大塚のこうした一連の行動が北京の意にそったものであったことはあきらか。おもしろい話があります。かれら自身が語っているのです。「……大阪入りしたばかりの中国卓球団は、多忙をきわめた日程をさいて『学院』を訪問してくれた。これにたいし『学院』では、講師や院生が三里塚などの闘争に参加して得た経験を話し、各人が "自分の階級的忠誠を保証してくれたものは毛沢東思想であった "と具体的に報告、中国の同志より熱烈な激励を受けた」(『毛沢東思想』四十六年五月号およぴ八月号)

 さて、「あさま山荘」事件とその後に発覚したリンチ殺人について、かれらはなんといっているか。公式には沈黙です。 "北京待ち "。毛沢東盲従にたいする国民的な糾弾の声に押されて公然とは弁護するわけにいかず、さりとて従来の密接な関係からして、あからさまに非難するわけにもいかず――というところ。最近出た『毛沢東思想』三月号は、この問題をわずかに「編集後記」でとりあげ、「日共は『連合赤軍』の誤りに乗じて、ここぞとばかり毛沢東思想にたいする反革命キャンペーンをおこなっている」とのべています。

 「連合赤軍」を生み育てたみずからの犯罪的責任をタナに上げ、共産党攻撃にすりかえる卑劣な手口です。

 「連合赤軍」の蛮行を "誤り "とするかれらのいい方が、「意図は正しかったが若干の行き過ぎがあった」という弁護論の一種であることは明らかです。「連合赤軍」の蛮行は、もとよりたんなる "誤り "などというものではなく、毛沢東盲従の "人民戦争論 " "唯武器論 "の必然の帰結なのです。

 周恩来は一二月二十九日に北京で、三里塚訪中団などに「日本の新左翼は立派だが政策が不十分」と明らかに「連合赤軍」事件を念頭において、トロツキスト暴力集団の賛美と、これへの援助、指導の必要性をのべ、共産党を修正主義だとののしりました。

 この "指示 "に勇気百倍した大塚一派をふくむ日本の盲従分子たちが、こんごいっそう「連合赤軍」弁護と共産党攻撃に精をだすことでしょうが、その行く末がみものです。


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