5. 「文化大革命」がもたらした混乱


 中国人民の解放と社会主義建設の事業が、中国共産党の指導ときりはなすことができないことはいうまでもありません。ところがその中国共産党が、解体状態になっているのですから、指導と統制がみだれ、秩序が混乱し、無政府主義やセクト主義、個人主義などの思想が復活してくるのは当然のことです。

 しかも、「紅衛兵」の横暴な破壊的行為は、毛沢東一派の最大の支持と激励をうけたのですから、いわゆる「武闘」――暴行、乱闘事件はつぎつぎとひろがっていきました。「紅衛兵」の横暴なやり方に反対する人びとが「紅衛兵」と衝突し、また「紅衛兵」同士が、「自分たちこそ毛沢東主席に忠実な組織である」とあらそいあい、各地ではげしい「武闘」がくりかえされました。もしあらそいあう「紅衛兵」の一方が毛沢東に忠実だということになれば、他方の「紅衛兵」にとっては命取りになるわけですから、はげしさはますばかりです。とくに1967年1月になって、人民解放軍に「文化大革命」に介入せよとの指示がだされてからは、「武闘」に軍隊が加わり、その規摸も内容もますますはげしくなりました。

毛沢東一派の指導のもとに前北京市長彭真をひきまわす「紅衛兵」 

 「紅衛兵」の壁新聞や機関紙などによると、5月以降は、「武闘」事件がおきていない省は1つもないまでに全国にひろがり、死傷者が数百名から多いところでは、数千名もでているといわれています。たとえば、北京の昌平県では、4月末から5月のはじめにかけて、5000人の人びとの乱闘がおこって、243名の死傷者がでたし、徐州では、5月末から6月はじめにかけての「武闘」事件で、機関車などが21両も爆破され、千数百名の負傷者、ゆくえ不明者がでたとつたえられています。また6月はじめ重慶では、死者が400名にものぼる「武闘」事件が発生し、長沙では420名の死傷者がで、6月中旬に湖南省丹江では、死傷者2000名にのほる「武闘」がおこったとつたえられています。

 とくに四川省では、機関銃や手溜弾、戦車までがつかわれ、武漢の「武闘」事件では飛行機や軍艦までが動員され、その「武闘」のはげしさをしめしています。

 このような事態にたいして毛沢東一派は、終始武闘禁止の命令をくりかえし、5月20日付『人民日報』 も「ただちに武闘をやめよ」との主張をだし、6月6日には、中国共産党「中央」、中共軍事委員会、国務院、「中央文化革命小組」の連名で、 いかなる団体も、個人も集団的なけんかや乱闘、私的留置場の設置や逮捕、略奪、破壊、家宅捜査などをおこなうことを厳重に禁止する通告をだしました。このような禁止令が66年から10回以上もかさねてだされているのに、なかなかおさまらず、「武闘禁止」に関しては「毛沢東思想」のききめはさっぱりあらわれませんでした。

 このような「武闘」事件がつづくことによって、生産にもよくない影響をあたえています。

 5月14日、北京市「革命委員会主任」の謝富治は、「4月30日から5月14日まで、北京で50人から100人規模の乱闘流血事件が133回発生し、6万3500余人が参加した。このためこの1ヵ月間の北京の生産は7パーセント減少した」といっています。同じように当時、山西省の大同機関車工場は生産を停止し、鄭州のおおくの紡績工場がまひ状態になり、洛陽の第1トラクター工場は生産ストップ、新彊では石油の生産、輸送のストップ現象がおこりました。

 また江西省の40余県では、すべて「武闘」事件が発生し、南昌では54の工場のうち33工場が生産を停止し、撫州では鉄道、公路が封鎮されました。このことについては、8月3日の新華社通信ですら、公式に乱闘の「攪乱性と破壊性が非常に大きい」とみとめました。

 このように血で血をあらうような「文化大革命」は、社会主義社会でかならずおこなわなければならないものではけっしてありません。このような、社会主義の権威をおとし、社会主義の成果をおびやかすような「社会主義国での革命」などというものは、社会主義とはまったく無縁のものであり、毛沢東一派がマルクス・レーニン主義からはなれた結果ひきおこされたものです。

 現在、毛沢東一派は、「大連合」をとなえて、毛沢東一派の内部の対立をなんとかしずめようとやっきになっています。

 毛沢東一派は、新聞や放送などの宣伝機関をにぎり、軍隊のかなりの部分をおさえていますから、その権力をつかって、かれら一派に批判的なものをおさえつけ、たとえば「革命委員会」なるものをもつとおおくのところにつくるなどして、「武闘」などの混乱した事態が「収拾」されて「文化大革命」が成功したかのような状態が、一時的には生まれることも、ありえないことではありません。最近では、中国の「文化大革命」が「収拾段階」にはいったなどという報道も、日本の商業新聞にはでています。

 しかし、事態は今年の1月28日『北京日報』で報道された数百人の乱闘事件による重軽傷者100人発生という事実や、68年1月22日の新華社電の「上海の労働者の革命造反派の内部に分裂現象があらわれ、江蘇、浙江、安徽の各省のプロレタリア革命派にも”内戦”が発生した。ある地方、ある単位は現在にいたるまでまだやめていない」また68年2月13日付『人民日報』論文の「一部の地方、単位で2派の革命大衆組織が長期にわたって連合できず、あるいは連合後も分裂をくりかえしている」などても明らかなように、けっして単純ではありません。たとえ「文化大革命」 が成功したかのような状態が一時的に生まれたとしても、それは、宣伝機関や軍隊などの権力によって、毛沢東神格化を中国人民に強制し、毛沢東一派の専制支配をつよめるだけのことにすぎません。マルクス・レーニン主義の原則にそむき、中国共産党を解体し社会主義国家を危うくするという、「文化大革命」が生みだした根本的な矛盾は、なんら解決されるものではありません。また、毛沢東一派は、わが国の盲従分子をもつかって、わが党とわが国の民主運動に不当な干渉をつづけてきましたが、わが党をはじめ自主独立の立場をまもる民主勢力の正しい批判と反撃にあって、その策動は失敗しました。そのため、かれらはいま、策動のやり方に「手直し」をくわえていますが、それは「手直し」であって、その重大なあやまりをみとめたというのではありません。

 このような「文化大革命」をどうして、よいことだ、りっぱなことだということができるでしょうか。ところが毛沢東に盲従するわが国の一部の人びとはこれを「手本」だといい、「最高峰」だとほめたたえ、これを日本の共産党や民主運動におしつけようとしているのです。こうしたかれらが、本当に中国人民に友情をもち、日中両国人民の真の友好をねがっているものでもなければ、日本人民の利益に忠実でもないことははっきりしています。毛沢東一派のあやまりを正しく批判すると同時に、日本の民主運動と革命運動にたいして、自主性を堅持して責任をもち、けっして他国の「権威」なるものに盲従しない態度こそ、日中両国人民の真の友情をかちとる道なのです。


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