3. 「文化大革命」は毛沢東一派の専制支配をうちたてようとするもの


 1966年8月17日、北京で「紅衛兵」の百万人集会がひらかれたという報道がつたえられてからいちはやく「紅衛兵」は日本でも有名になりました。毛沢東に盲従する人たちは、これこそ 「偉大な人民の創意」であり、「革命的なできごと」だとほめたたえています。だが、実は、この 「紅衛兵」は 「人民の創意」どころか毛沢東一派によってつくられたものです。

 1966年3月28日、 毛沢東はかれのいいなりにならない党や政府機関の幹部を打倒するために、「わたしは地方にむほんをよびかけ、中央に進攻することをよびかける。各地は多くの孫悟空を輩出させ、天宮に攻めいるべきだ」と指示しました。そして、毛沢東の指示のもとに5月の末、はじめて北京の清溝華大学付属中学で「紅衛兵」がつくられ、われわれは「孫悟空」であると名のりをあげたのです。

 8月には、たくさんの 「紅衛兵」がカーキ色の「軍服姿」で「旧世界の破壊者」と名のり、街頭の商店の看板を「修正主義だ」とといってぶちこわしたり、商店にならべられていた風景画の掛軸や高級服装品、人形、トランプなどのがん具、チョコレートなどのお事子のほとんどを「毛沢東思想にそぐわないチリあくた」で「ブルジョア的」で「修正主義のボロクズ」だということでとりはずしたり、とりのぞいたりしました。

 また町の中で、先のとがった靴をはいていたり、先の細いズボンをはいて歩いている人があると、たちどころに「紅衛兵」にとりかこまれ、批判され、ツバキをはきかけられ、また、長い髪をしている娘さんは、「反革命がよろこぶ長い髪」ということでたちどころにハサミで切られました。そして無賃乗車、品物の無断押収、勝手な家宅捜査、リンチや暴行が白昼公然とおこなわれだしたのです。

 このような社会主義国の秩序をみだす破壊分子「紅衛兵」をつくった毛沢東一派のねらいは、「紅衛兵」に共産党を攻撃させ、破壊することにあったのです。事実、毛沢東一派の気にいらない共産党の多数の幹部は「実権派」として「紅衛兵」につぎつぎと攻撃されました。

 このような 「紅衛兵」の無謀な行動にたいして中国共産党中央委員会機関紙『人民日報』は、社説で「たいへんけっこうだ」とほめあげ、「労働者や農民、兵士は革命的な学生を断固支持しなければならない」と強調しました。また『人民日報』には「かれらは毛主席の革命路線をまもるために、多くのいわゆる『脱線』行動をやってのけた。『脱線』とはとりもなおさず革命である。『脱線』とはとりもなおさず造反 (むほん) である。この 『脱線』行動ははじめての革命的な壮挙である。本当に革命を求める同志はだれでも、これを『たいへんけっこうだ』と歓呼すべきであって、他人のしりにくっついて『むちゃくちゃだ』などというべきではない」とさえいって、この乱暴行為を公然とはげまし、最大の賛辞をあたえた文章もかかげられました。

毛沢東一派による中国共産党幹部38名を公然と愚弄する漫画 

 さらに「紅衛兵」は、中国公民の人身の自由や権利を保証した中華人民共和国憲法をふみにじり、ふるい幹部に3角帽をかぶせて町のなかをひきまわし、勝手に逮捕したり、集団的なテロや拷問をくわえるようになりました。

 では「紅衛兵」をつくり「くされはてた遺物」を破壊させて毛沢東の神格化をおしすすめているのはなんのためでしょうか。それは、毛沢東一派が中国の現状に不満をもち専制支配をうちたてようとしているからです。

 中国共産党や政府の指導者のおおくの人びどは、いまつぎつぎと攻撃され迫害をうけています。

 国家主席の劉少奇は、「中国のフルシチョフ」とののしられ中国共産党のケ小平書記長は、社会主義に反対する「最大の実権派」とされ、人民解放軍の創始者の1人であり、全国人民代表大会委員長である朱徳は、「匪賊」と攻撃され、北京市長の彭真も追放されました。そのほか、演劇指導者の田漢、作家では老舎や「李家荘の変遷」をかいた趙樹里、茅盾などの人びとがのきなみに攻撃され、有名な小説「紅岩」の作者羅広斌も殺されました。

 中国共産党の中央役員のうち、すでに追放された人びとは3分の1以上になり、攻撃をうけた人びとは全体の3分の2におよんでいます。中国政府の副首相、大臣、次官クラスの指導者は、半数以上も攻撃されています。たとえば副首相を例にとりますと、中国には16人の副首相がいますが、攻撃されていないのは林彪ただ1人だけで、10人もの副首相が追放、停職状態になっています。

  毛沢東一派は、これらの人びとを「資本主義の道を歩む党内の実権派」であり、18年まえに中華人民共和国が創立されて以来、一貫してブルジョア反動路線を歩んできたもの」であるとか、「反革命分子」であるとののしり、「水におちた犬を打て」と大変はげしい口調で攻撃しています。

 今日毛沢東一派は、いわゆる「実権派」とよばれている人びとに意見を発表する自由をいっさいあたえていませんので、これらの人びとがどんな主張をもっているのかを判断する材料をわたしたちは十分にもちあわせていません。

 しかし、毛沢東一派がこれまでに発表したたくさんの文章をみても、中国の革命や社会主義建設の事業で功績のあったふるい幹部がこれほどおおく、しかも一貫して社会主義に反対し、資本主義の復活をはかってきたということを立証する証拠はなにひとつ見あたりません。

 たとえば劉少奇は、「中国には資本主義が少なすぎる」といって「資本主義の復活」をおしすすめたとか、「ソ連共産党の20回大会をほめた」から「フルシチョフの共犯者」だなどといって非難されています。

 しかし、「中国には資本主義が少なすぎる」といったのは、毛沢東自身です。かれは1945年の中国共産党第7回大会でおこなつた「連合政府について」という報告のなかで 「いまの中国によけいなものは、外国の帝国主義と自国の封建主義で、自国の資本主義ではなく、反対に、われわれの資本主義はあまりにもすくなすぎる。共産党は一定の条件のもとで資本主義の発展を提唱しなければならない」といっています。

 この報告は大会で承認され、その役の中国共産党の方針となったものです。

 このような歴史的事実を無視して、劉少奇の発言だけをとりあげて攻撃するのはまったく道理に反するものです。

 またソ連共産党20回大会の称賛にしても、毛沢東自身、中国共産党第8回大会の開会の辞でソ連共産党20回大会を称賛していますし、1957年ソ連の最高ソビエト会議で10月社会主義革命40周年を記念して演説した毛沢東は、「ソ連共産党は、マルクス・レーニン主義の理諭を創造的に運用することによって実践における諸任務を解決し、そしてソビエト人民がその建設事業においてたえず勝利することを可能ならしめた。 ソ連共産党第20回大会が、ソ連における共産主義建設のために提起した戦闘的綱領はその模範的一例である」とさえのべています。

 もちろんこれらの発言のなかには、その後の歴史的経過のなかで不十分さがあきらかになったものがあります。しかしそれらは、いずれも党大会が承認したものなのですから、党大会なり中央委員会総会をひらいて正式に訂正すべきであって、けっして特定の個人に責任をかぶせてすむものではありません。もし個人の責任が問題になるとすれば、党の最高指導者である毛沢東の責任こそ、まず第1に問われるべきでしょう。

 このように、なりたたない「根拠」をもって党や国家の幹部を批判、攻撃し、「実権派」の罪状をでっちあげていること、このことこそ「文化大革命」の本質をしめすものです。

 つまり毛沢東一派のれらいは、毛沢東に無条件にしたがわない幹部をつぎつぎと排除し、「革命」だとか「大民主」だとかの革命的言辞のかげにかくれて、実際には共産党を解体し、毛沢東一派の専制支配をうちたてることです。

 毛沢東一派による党の破壊は、党の民主巣中制と集団指導のじゅうりんにもはっきりとあらわれています。毛沢東が主席の地位にある中国共産党は、規約できめられている党大会を9年もひらかずにいます。また中央委員会を4年間も招集せず、やっと1966年の8月に* 第11回中央委員会総会をひらきました。第11回中央委員会総会には、正規の中央役員がどれだけ出席したのがも明らかにされず、しかもおどろいたことには、この総会に党外の「革命的教員、学生」つまり「紅衛兵」を参加させ、毛沢東自身が中央委員会の最中に他の中央委員を攻撃する「司令部を砲撃せよ」との大字報をはりだすというまったく異常なものでした。

(*)第8回党大会できめられた規約では党大会の任期は5年とされ、毎年1回会議を招集することになっていますし、中央委員会は「毎年すくなくとも2回」招集すると規定されています。

 党の集団指導を破壊して、毛沢東一派の主張を無理やりおしつけているのですから、いま毛沢東一派がおこなっているいろいろな路線は、たとえ中国共産党中央委員会の名をつかっていても、それはけっして中央委員会の総意ではなく、毛沢東とそれにしたがう一部のもの、つまり 「毛沢東一派」の路線にしかすぎません。

 かりにわたしたちが参加している労働組合や大衆団体が、規約に違反して何年も大会をひらかず、役員会すら招集しないという非民主的な運営をおこなったら一体どうなるでしょうか。しかもやっとひらいた役員会に役員以外の人を多数参加させるようなことがおこなわれたら、それでも正常な状態だといえるでしょうか。

 事実、「文化大革命」の推進者になっているのは、毛沢東と林彪、周恩来などです。それに積極的にしたがっているのは陳伯達(長いあいだ毛沢東の秘書として1958年ころから「毛沢東思想」の旗を高くかかげることを主張してきた)、毛沢東夫人の江青、林彪夫人の葉群などまったくの毛沢東一派です。

 1967年11月28日付『解放軍報』は「毛沢東思想にもとづき、毛主席に忠実な党委員会をうちたてよう」と主張し、今年の1月1日付『人民日報』『紅旗』『解放軍報』の共同社説では、共産党の整頓を公然とよびかけ、「文化大革命」の名による毛沢東一派の共産党の私物化のたくらみをろこつにしめしました。

 第11回中央委員会総会こそ、いわゆる「プロレタリア文化大革命」についての「方針」をきめ、毛沢東一派の専制支配をうちたてるうえで正要なだんどりとなるものでした。


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