4. プロレタリア独裁を危くする「奪権闘争」


 1967年1月から毛沢東は、「資本主義の道を歩む党内実権派」から「権力をうばいとれ」と公然とよびがけ、全国的に 「奪権闘争」をおしすすめました。しかし、毛沢東一派はこのとき突如として「奪権」を考えだしたのではありません。毛一派は 「プロレタリア文化大革命がはじまったときから奪権である」と主張しているのですから、当初「文化界」でおこなわれた「文化革命」のときから「奪権」をねらっていたのです。

 この「奪権」というのは、各地方の党委員会や人民委員会 (地方の人民政府) から政治、経済、軍事などのいっさいの権限をうばい、いままでうちたてられてきた人民の権力をたおすことです。毛沢東一派が「奪権」のすぐれた典型だといっている黒龍江省の例をみてみますと、まず毛沢東一派は、軍隊の武装力を背景に「紅衛兵」をそそのかして秘密に奪権を相談し、放送局や宣伝機関をうばいとり、地方の党や政府の指導下にある大衆組を解体させ、最後に党委員会を占拠して「革命委員会」をつくりました。これはあきらかに一種の軍事クーデターとでもいうべきものです。

 もちろん、どんなに「地位」の高い人でも、たとえ過去にりっぱな功績のあった人でも、人民の利益に反する悪いことをしたならば、人民の批判をうけるのは当然ですし、ばあいによって党や政府の指導的地位から解任されることもあります。しかしその場合でも、共産党の規約や社会主義国家の法律にもとづいてさばかれるべきであって、こともあろうに軍事クーデターのように武力をもって攻撃するなどのことはゆるされるべきではありません。ましてや、党や政府機関の幹部が毛沢東の神格化に賛成しないからとか、毛沢東の意見にすこしでも疑問をもっているからといって、このような「奪権」がおこなわれるにいたっては、社会主義の秩序と規律を破壊し、プロレタリア独裁を危くするものにほかなりません。

 67年の1月からはじめられた「奪権」は、現在(1968年2月末)中国の29の全行政単位のうち、3市11省1自治区の15行政単位で、「革命委員会」がつくられたといわれています。

 67年6月には、「奪権闘争」がうまくすすまず、全国でわずかに6行政単位しか「革命委員会」ができませんでしたので、社会が混乱しているという口実で、全国的に軍により管制をしきました。また67年暮からは、「革命委員会」をつくることを任務とした「左派支援部隊」と称する軍隊を組織して、それぞれの地方の人民代表者会議で正規に選出された各級人民委員会を勝手に破壊し、毛沢東の気にいった盲従勢力をあつめて「革命委員会」をつくりあげることに熱中してきました。こうした軍事クーデター的「奪権」によって、さいきん各所で「革命委員会」がつくられたというわけです。

 さらに党や政府機関だけでなく、労働者の組織である全国総工会も中国共産主義青年団も正規の手続きを経ることなしに、毛沢東一派の指示で事実上解体させられてしまいました。このようにして毛沢東一派は、共産党と国家機構を解体し、毛沢東一派の専制支配の確立をすすめたのです。


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