1.日本共産党と日本人民にたいする毛沢東一派の公然とした攻撃


日本と中国とは、となりあった国として、2千年らいふかい文化的、経済的むすびつきをたもってきました。そのうえ、近代になって、日本人民と中国人民とは、共同の敵にたいする共同のたたかいのなかで、さらに友情をつよめてきました。日本共産党と中国共産党も、ごくさいきんまで兄弟党として、マルクス・レーニン主義とプロレタリア国際主義にもとづきかたく団結してきました。

 かつて日本帝国主義が中国にたいして侵略戦争をおこなったとき、日本で一貫して侵略戦争反対の旗を高くかかげ、不屈のたたかいをつづけてきた政党は日本共産党だけでした。日本帝国主義の侵略戦争に反対する共同の闘争のなかで、日本共産党と中国共産党のあいだのかたい団結がきずかれました。そして、戦後は、アメリカ帝国主義の侵略と戦争の政策に反対する共同のたたかいのなかで、2つの党の戦闘的な団結はますます発展してきました。

 ところが、このような関係は今日毛沢東一派によってまったく破壊されてしまいました。それは毛沢東一派が、共産党間の団結の基準に違反して、自分たちの意見を一方的に日本共産党におしつけようとし、わが党がマルクス・レーニン主義とプロレタリア国際主義にもとづく自主独立の立場をまもってかれらに盲従しないことを理由に、わが党を「修正主義」よばわりし、不当な干渉や攻撃をくわえてきたからです。

 1965年11月、中国共産党指導部は、アメリカ帝国主義のベトナム侵略戦争がはげしくなる状況のもとで、帝国主義に反対するすべての勢力を結集するというそれまでのかれらの主張を突然にかえ、ソ連共産党指導部を国際統一戦線から追放する「反米反ソの国際統一戦線」を主張しはじめました。しかもかれらは、中国共産党指導部のこの考え方に賛成しない共産党を、「落伍者」あつかいする思いあがった態度をとりはじめました。

 日本共産党は、アメリカ帝国主義がベトナム侵路を凶暴に拡大しつつある重大な時期であるだけに、アジアの共産党、労働者党の団結を重視し、1966年2月から4月にかけて、ベトナム、中国、朝鮮に代表団を派遣し、それぞれの党と会談をしました。

 ベトナム、朝鮮両国の党とは完全に意見が一致しましたが、日中両党の会談では、国際統一戦線その他の問題をめぐって重要な意見のちがいがあることがはっきりしました。しかし、こうした意見のちがいにもかかわらず、意見のことなっている点については今後の実践の中での検証にまつことにして、一致した点で両党の団結をつよめ、行動の統一をおしすすめることを約束し、共同コミュニケを正式に確認しあいました。

 ところが、毛沢東はそのあとでわが党代表団との会見の席で、両党の代表団が正式に確認し、あ.とは発表をまつだけになっていた共同コミュニケに反対し、これに両党の意見のことなっている問題や、また両党会談で全然はなしあいをしなかった問題でもちこみ、自分の意見をおしつけようとしました。日本共産党代表団は、毛沢東の主張はすでに両党代表団が共同コミュニケをつくるうえで確認しあったことがらに反しており、道理にあわないものであることを指摘しました。すると毛沢東は、自分の意見をあくまで固執し、共同コミュニケを一方的に破棄したのです。

 それ以後、毛沢東一派は日本共産党と日本人民のたたかいにたいし、乱暴な干渉と攻撃をくわえはじめました。

 67年4、5月以後、中国を訪問した日本人にたいして、だれかれをかまわずに、中国の責任ある人びとが、日本共産党にたいして露骨な敵意をしめし、国際統一戦線の問題をはじめ、両党会談で意見のちがいがあきらかになった問題をとりあげて日本共産党の路線を露骨にひぼうし、また日本の民主運動に毛沢東思想や武装闘争方針をおしつける態度をとりはじめました。このように相手をひぼう、攻撃するなどということは、かつての中国共産党では考えられなかったことです。そのうえ、毛沢東一派は1966年7月ごろから野坂議長や宮本書記長をはじめわが党の多くの幹部にたいして、さまざまなありもしないデマをでっちあげて、人身攻撃すらはじめたのです。

 さらに重大なことは、日本人民の利益をうらぎり、日本共産党から除名されたひとにぎりの反党分子を、毛沢東一派はこともあろうに「同志」「真の革命家」とよび、かれらとの「友好」をつよめ、あらゆる支持と援助をあたえて、まったく日本共産党を破壊するものに転落したことです。日本人民の先頭にたって勇敢にたたかい、米日反動勢力が一ばんおそれている日本共産党を毛沢東一派が攻撃することは、米日反動勢力をよろこばす重大な利敵行為です。

「紅衛兵」によるわが党攻撃のスローガン「宮本顕治のバカを打倒せよ!」

 かつて毛沢東は、1964年11月に日本共産党第9回大会におくってきたメッセージのなかで、「中国共産党と中国人民はけっしてかわることなくあなたがたの側にたち、あなたがたの偉大な正義のたたかいを断固支持する」と断言していました。そのかれが、今日「支持」どころか、指導下にある「紅衛兵」をつかって、「東京にまで鉄拳をのばしておまえたちの犬の頭をなぐってやる」とののしり、わが党やわが国の民主運動を攻撃しだしたのですから、毛沢東一派のかわりようはたいへんなものです。

 このようになった原因は、毛沢東一派が共産党間の団結の基準をふみにじり、しかも「毛沢東思想は現代におけるマルクス・レーニン主義の最高峰である」などといって、「反米反ソの統一戦線」論その他のあやまった理論を国際共産主義運動、民主運動におしつけ、わが党をはじめ全世界の共産党が「毛沢東思想」を指導理論としてうけいれるよう要求しはじめたからです。以前の中国では、「毛沢東思想」をこのようにいったことは一度もありませんでした。

 それがいまや、「『毛沢東思想』を支持するか、しないかは、真の革命家かにせの革命家かのわかれ目である」などといって、毛沢東に盲従しない日本共産党を公然と攻撃しはじめたのです。

 それだけでなく毛沢東一派は、最近では、日本共産党は「左藤政府の共犯者」であるとか、「日中両国人民の共同の敵だ」とか、日本人民ならだれも信用しないような、まったくでたらめなデマ攻撃をおこない、日本人民の利益を裏切って日本共産党から除名されたひとにぎりの反党分子を支持、激励して、日本共産党を「打倒」せよと、右翼暴力団まがいのことまでさけんでいます。

 とくに 1967年8月3、4日には、北京から帰国しようとした日本共産党の代表砂間一良氏と「赤旗」の特派員紺野純一氏にたいして、北京空港で数千の暴徒による計画的な集団暴行さえおこないました。これは、ロッ骨3本がおられ奥歯がおれ顔がはれあがり、からだ中内出血して青くはれあがるというような、言葉ではいいつくせないひどいものです。このような乱暴な行為は、国際共産主義運動の歴史のうえでも別をみない恥しらずなものです。

 このような常識では考えられないような攻撃は、けっして日本共産党にたいしてだけくわえられたのではありません。かれらは、わが国の民主運動に「毛沢東思想」や「文化大革命」支持をおしつけ、日本の民主団体を毛沢東支持団体にかえてしまうために、日中友好協会をはじめ日本アジア・アフリカ連帯委員会、新日本婦人の会、日本民主青年同盟、日本ジャーナリスト会議などの大衆団休に攻撃をくわえ、強引に組織を分裂させ、一部の分裂組織に公然と支持や援助をあたえています。

 1967年2月末から3月はじめ、華僑学生や日中友好協会からにげだした一部のものは、日中友好協会本部を襲撃し、協会の人びと多数に暴力をふるい傷をおわせました。これは、日中友好協会が毛沢東一派のいうなりにならないため、協会本部の事務所をうばいとり、協会の活動を破壊しようとして計画的におこなったものであり、ひきつづき今日まで、さまざまの暴行がくりかえしおこなわれています。日本の民主的な運動の発展をねがう日本人民として、このような暴行をどうしてだまってみすごすことができるでしょうか。

 日本共産党は、1966年以来毛沢東一派の不当な攻撃をうけながらも、すべての反帝民主勢力が団結してアメリカ帝国主義のベトナム侵略とたたかわなければならない重大な情勢を考え、また日中両国人民の真の友好を心からねがい、毛沢東一派を公然と名ざしで批判することをさしひかえてきました。そして毛沢東一派が日本共産党と日本の民主運動を攻撃した範囲において、節度をもって反論をおこなってきました。しかし、今日の毛沢東一派の攻撃の事態は、日本人民の利益を守り日本革命の勝利をかちとるためにも、さらにマルクス・レーニン主義の純深をまもり、国際共産主義運動の真の団結をかちとるためにも、毛沢東一派と「文化大革命」の本質をあきらかにし、毛沢東一派の攻撃と断固たたかうことが不可欠になっていることをはつきりとしめしました。こうして日本共産党は1967年10月10日、論文「今日の毛沢東路線と国際共産主義運動」を発表し、日本人民が毛沢東一派の本質を正しく理解できるようにしたのです。


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