4.偉大な変革


 一九五一年の解放以来、チベットの社会は一挙に数世紀分をとびこえてしまった。いまのチベットは、社会主義革命と社会主義建設の段階に入っている。多くのチベット族や漢族の人びとが、天地をくつがえすような奇跡的なチベットの変化を語るとき、口をそろえてふれるのは、これは毛主席の革命路線と共産党の民族政策の偉大な勝利だということである。

 中国共産党と人民政府は、どのようにチベット人民を指導して、もっとも反動的で暗黒な、残酷で野蛮きわまる封建農奴制をくつがえし、輝かしい幸福の道へと導いたのだろうか。

平和的解放

 一九四九年に新中国が誕生したとき、チベットの百万にのぼる農奴たちはまだ、帝国主義の侵略と農奴主階級の圧迫にあえいでいた。中国共産党と毛主席は、チベットの同胞に深い関心をよせた。当時、毛主席はこう指摘している。「チベット人民は祖国を愛し、外国の侵略に反対している。かれらは国民党反動政府の政策に不満をもち、統一された、富み栄える強大な、各民族が平等に協力しあう新中国の大家庭の一員になりたいと望んでいる。中央人民政府と中国人民解放軍は、そうしたチベット人民の願いをかならず満たすことができる。」毛主席のこの指示は、チベット人民を含む中国各民族人民の共通の願いと決意をあらわしていた。一九五○年一月、チベット平和解放の方法について協議するため、中央人民政府は元チベット地方政府に、代表団を北京に派遣するよう通告した。

 だが、帝国主義と国外の反動派にそそのかされた元チベット地方政府当局は、チベット人民の意志にそむき、平和解放についての中央の呼びかけを拒否した。かれらの派遣した平和交渉代表団は外国に潜在して策略をめぐらし、なかなか北京に向かおうとしないぱかりか、大軍を集結してチベット北部の要地ナッチェ(那曲――黒河ともいう)と東部の要地チャムドに配置し、人民解放軍の進駐をはばもうと企んだのである。

 一日も早く交渉をおこない平和解放の協定をとりきめようと、中央人民政府は、一九五○年七月にチベット族の愛国人士、もと西康省人民政府副主席のグダ大ラマをチベットに派遣して説得させた。しかしグダはチャムドで阻止され、同年八月、外国に内通する売国奴と帝国主義のスパイの手で毒殺されて、証拠いん滅のために遺体まで焼かれてしまった。

 チベットの同胞を解放し、祖国の大陸を統一するため、中央人民政府は人民解放軍にチベット進駐を命令した。一九五○年十月、解放軍は四川とチベットの境界にある金沙江を渡り、チャムドに向かって進軍した。行く先さきのデベット人民は解放軍を心から歓迎し、自発的にヤクの輸送隊や担架隊を組織して解放軍に協力した。十一月、解放軍はチャムドならびにその周辺の多くの地区を解放し、大量の反動的チベット地方軍を撃滅して、頑迷に抵抗しようとする反動的上層階級の夢を打ち破った。

 そこで、チベット地方政府当局もやむをえず、一九五一年四月に北京へ代表団を派遣して交渉をはじめた。そして一九五一年五月二十三日、「チベットの平和的解放に関する中央人民政府とチベット地方政府の協定」がついに結ばれたのであった。

 協定の主な内容はつぎのとおりである。

 チベット地方政府は、チベット人民と団結して帝国主義侵略勢力をチベットから駆逐し、人民解放軍のチベット進駐と国防の強化にすすんで協力すること。チベット人民は、中央人民政府の一貫した指導のもとに、民族の地方自治を実施する権利を持つものであること。チベット軍は逐次人民解放軍に再編され、中華人民共和国国防軍の一部となること。チベット地方政府は、すすんで社会改革を実行すること。中央人民政府はチベットの現行政治制度に変更を加えず、各級の官吏には従来通りの官職を保持させること。チベット人民の宗教、信仰、風俗、習慣は尊重されること。実状に即して、チベットの経済、文化を逐次発展させ、人民の生活水準も徐々に改善してゆくこと。中央人民政府は、チベット地方のすべての対外関係を統一して処理すること。こうした条文は全部で十七ヵ条あるので、十七ヵ条の協定とも呼ばれている。

 この協定にもとづいて、一九五一年十月二十六日、人民解放軍がラサに進駐。ラサの二万にのぼる各民族、各界の人民は大会を開き、熱烈に解放軍を歓迎した。一九五二年二月十日、中国人民解放軍チベット軍区がラサに成立した。

自滅の道をえらんだ反逆集団

 平和解放後、中央人民政府は協定を厳格に守り、従来のチベットの政治制度、ダライラマの地位や職権などをあらためることはせず、各級の僧侶や官吏も従来通りの職務を与えられた。かつて帝国主義者と結びついていた官吏も、帝国主義との関係をはっきり清算しさえすれば、中央人民政府はかれらの過去を追求することなく、つづけてその職務につくことを許した。

 民族の地方自治を徐々に実施するため、一九五六年四月にチベット自治区準備委員会が成立した。チベットの建設事業、たとえば自動車道路、工場、農場、病院、貿易なども大きく発展した。これらはすべて、上層人士と十分に協議した上ですすめられたのである。

 帝国主義と反動的な農奴主の利益を代表するダライー味の上層反動集団は、うわべでは協定に従い、かげでは手管をつくして協定の貫徹・実行を阻んだ。チベット軍区が成立したときも、かれらはラサで動乱をひきおこした。さらに、チベットの建設に参加した人、国家から貸しつけを受けた人、またチベットに駐在する医者の診療を受けた農牧民などに迫害を加えたり、解放軍兵士や工作人員を侮辱したりした。こうした妨害行為のために、自治区準備委員会の仕事は遅々としてすすまず、チベット地方軍の再編や改革もおこなわれなかった。

 このような情況から、中央は、チベットの社会制度改革の速度をややゆるめることにした。毛主席はつぎのように指摘している。「中央政府と西蔵地方政府との十七ヵ条の協定にもとづいて、社会制度の改革はかならず実行しなければならないが、しかし、いつ実行するかは、西蔵の大多数の人民大衆と指導的な人物が実行してもよいと考えたときにはじめて決定できるのであり、あせってはならない。現在、第二次五ヵ年計画の期間(一九五八年〜ー九六二年――編集者注)には改革をおこなわないことをすでに決定している」。(「人民内部の矛盾を正しく処理する問題について」)。しかし、しんぼう強く待っている中央をよそに、頑迷なチベットの上層反動集団は「永久に改革はしない」などとわめきたてて、チベットの平和的解放に関する協定の実行に反対したのである。

 帝国主義、外国反動派とぐるになったチベットの上層反動集団は、まず西康(現在は四川省に属する)とチベット両地区の一部の反動的な大農奴主をそそのかし、ヤルンズァンボ江以東、以北、以南などの地方で武装反乱を起こして中央に反対し、祖国を裏切らせようとした。かれらはまた、一九五八年の五、六月ころから、反乱分子を指揮してチャムド、デンチェン(丁青)、ナッチュ、ホカ(山南)などの地区で動乱を起こさせた。中央人民政府は早くから、チベットの上層反動集団のさまざまな罪悪行為を見ぬいており、何回も戒告を与えて、かれらが悔い改めるよう期待していた。だが、かれらは中央のしんぼう強い態度と寛大にあつかう方針を無視して、いっそうさかんに国を裏切る陰謀活動をやりつづけたのである。

 ラサでかなりの数の反革命武装力をかき集めた反逆集団は、ついに一九五九年三月十日、公然と十七ヵ条の協定を破棄し、いわゆる「チベット独立」なるものを宣告、三月十九日の夜、ラサ駐屯の解放軍に対して全面攻撃を開始した。これ以上は耐えきれないという情況のもとで、命令を受けた人民解放軍チベット軍区は三月二十日午前十時から、悪らつきわまる反逆集団の討伐にとりかかった。ラサ市内の反乱は二、三日の戦闘で鎮圧され、つづいてその他の地方の反乱もたちどころに平定された。

 チベットの人口百二十万のうち、反乱分子はごく少数で、反乱に加担した者も大部分はだまされたりおどされたりした者であった。チベットの広はんな人民大衆は、多くの上、中層の愛国人士をもふくめてみな祖国を愛し、中央を支持し、反乱に反対した。大衆集会に参加して反逆集団を糾弾する上、中層の愛国人士も少なくなかったし、反乱に反対して、反乱分子に殺された者もいたのである。人民解放軍の反乱平定の戦いは、チベットの広はんな人民の協力をえた。かれらは解放軍にすすんで情報を提供したり、道案内をしたり、担架をかついだり、糧秣を運んだりした。また銃を手に解放軍と肩をならべて戦い、反乱分子の捜査、討伐に参加した者もいた。

 チベットでの取材中に、わたしたちは解放軍某部隊の政治部副主任、チベット族のソラン同志に会った。意志の強そうな顔には、機知に富んだ目がキラキラと輝いていた。

 ソラン同志は回想しながら語る――当時、上層反動集団が反乱を起こしたというニュースを聞いて、かれの胸は怒りに燃えた。かれのおじいさんは奴隷だった。領主のために一生涯こき使われたあげく、七十五歳で重い病気になり、働けなくなった。そこで領主に追い出され、病と飢えとで死んでしまった。かれの父もまた奴隷だった。ある日、領主にさんざん殴られて逃げ出したが、それ以来まったく音さたがない。かれ自身も七歳から領主のために働いてきた。平和解放後、ラサ飛行場の建設に加わったかれは、解放軍や従軍工作員との接触をつうじて、自分とチベットの光明ある前途を見出すことができたのであった。これを上層反動集団に断ち切られてたまるものか。そこで、解放軍とともに反乱平定の戦闘に身を投じた。かれは戦友たちといっしょに反乱分子の捜査、逮捕にあたり、ある時など、一度に反乱分子四人を捕えたこともあった。

 かれは言葉をつづける。

 「残虐な反乱分子はいたるところで、婦女暴行や殺人放火をくりかえし、悪事のかぎりをつくしました。ある日、わたしたちが一日の行軍を終えて夜営の仕度をしていると、近くのテントから女の泣き声が聞こえてきます。わけを聞くと、昼間反乱分子がやってきて、ご主人の目をえぐり出したうえ、かの女を犯したというのです。激怒したわたしたちは、行軍の疲れなどすっかり忘れて、かの女の指さす方角へ反乱分子を追いかけて行きました……」

 解放軍某部隊がホカ地区で反乱の平定に当たっていたとき、ある日、グサンという牧畜民が報告にやってきた――深夜、一群の反乱分子がかれのテントにやってきて、バターとツァンバを強要した。やつらは人目をおそれて昼間は行動しないから、付近の山の中にかくれているにちがいない。そう考えたかれは、解放軍を案内して捜査に出かけ、反乱分子をせん滅した。戦闘中、クサンは終始解放軍とともに行動し、敵弾が服をかすめても気づかないほど勇敢に戦ったのである。

 この一群の反乱分子はふた手に分かれており、もうひとグループは別の山奥にかくれていた。

 はげしい銃声を聞いたやつらは、翌日こっそりと様子をさぐりに出てきた。仲間が全滅したことを知ってまっ青になり、その夜、クサンのテントにやってきてことの次第をたずねた。そこで、クサンは解放軍に降伏するようすすめた。やつらはまず二人を解放軍の部隊に行かせ、さぐりを入れてみた。解放軍がたしかに武器をすてた者に寛大であることを知った上で、あとの五人の反乱分子も投降してきたのであった。

 ダライ反動集団の武装反乱の失敗によって、チベットの歴史は新たな一ぺ−ジを開くことになった。上層反動集団の起こした反乱は、かれらの願望に反して、祖国の分裂、チベットの後退を実現するどころか、自身の滅亡を早め、祖国統一の強化とチベットの民主化、チベット人民の新生を促したのであった。

民主改革

 チベット上層反動集団の起こした武装反乱は、かれらの本性をあますところなく暴露し、自らを孤立させることになった。反乱が平定されると、広はんな農奴は民主改革を強く要望した。進歩的な上層の愛国人士も改革に積極的に賛成し、加えて、チベット族の幹部も大勢養成されたので、チベットに民主改革を実現させる条件はととのった。共産党は大衆の要求を断固支持して、「反乱を平定しながら改革をおしすすめる」ことを決定した。チベット自治区準備委員会は一九五九年七月に第二回総会を開いて、民主改革の決議を採択した。たちまち、すさまじい勢いで民主改革の大衆運動が全チベットにくりひろげられた。

 民主改革の中で、共産党は断固として貧しい農奴と奴隷に依拠し、中級の農奴をはじめとする団結できるすべての勢力と団結して、反乱分子、もっとも反動的な農奴主、およびその代理人に打撃を与えた。これは封建農奴制と農奴主階級(農奴主個人ではない)を、徹底的にくつがえすためである。

 民主改革は二つの段階に分けられた。まず最初は、反乱に反対し、「ウーラ」(農奴主のための無償の労役)に反対し、奴隷制度に反対し、小作料や利息を引き下げる運動をくりひろげることである。農業地区では、反乱に加担した領主(その代理人を含む)の土地に対しては「耕作したものに刈りとらせる」ことを実行し、反乱に加担しなかった領主(その代理人を含む)の小作地に対しては「二対八」(領主二割、小作人八割)の分配を実行する。同時に家事奴隷を解放して、主人との関係を一雇用関係にあらためた。まだ反乱に加担した領主の債権はいっさい帳消しとし、反乱に加担しなかった領主の債権は、一九五八年以前のものは帳消しとし、一九五九年のものは利息の引き下げ(月に元金の一パーセント)を実行する。牧畜地区では、反乱に加担した牧畜主の家畜は飼育していた牧畜民がとりあえず放牧することとし、その収益は牧畜民のものとする。反乱に加担しなかった牧畜主の家畜はそのまま牧畜主の所有とするが、それを飼育する牧畜民の収入をふやすようにしなけれぱならない。

 民主改革の第二段階は土地の分配である。反乱に加担した領主(その代理人を含む)の生産手段を没収して、貧しい農牧民に分配する。反乱に加担しなかった領主(その代理人を含む)の生産手段は国家が買い上げて、貧しい農牧民に分配する。農奴主階級の人びとにも、それぞれ一部の生産手段が分け与えられる。

 寺院の上層支配者は同時に農奴主でもあったから、貧しいラマや農牧民を搾取し、抑圧していた。そこで寺院に対しても民主改革がおこなわれた。こうして、反逆行為や反革命活動をやった者たちに打撃を与え、封建的な特権、搾取や抑圧を廃止したが、宗教および信仰の自由はひきつづき保証された。

 チベット全域の民主改革は一九六一年に終了した。広はんな農奴たちは、政治的にも経済的にも、完全に解放されたのである。「耕作したものに刈りとらせる」ごとや、「小作料と利息の引き下げ」、高利貸しの廃止などの方針をつらぬいた結果、大衆の収益は穀物に換算して一人平均七百五十キロになり、土地も一人平均○・二三ヘクタール分配された。苛酷な労働をしいられてきたチベット勤労人民の苦難の歴史は、流れゆくヤルンズァンボ江の水のように、再ぴもどってくることはないだろう。いまや、百万の農奴は立ち上がったのだ。

 ヤルンズァンボ江の南岸にあるネドン(乃東)県クソン人民公社の党支部書記ニマツレンさんが、民主改革のもたらした変化について話してくれた。

 ニマツレンさんの一家は、先祖代々、大農奴主ソカン・ワンチングレ(反乱分子の頭目)の荘園の一つであるクソン荘園の奴隷だった。兄と姉が八人もいたが、みな幼いうちに病気や飢えで死に、父親も領主に殴り殺された。かれは九歳のとき奴隷になり、遠く離れた荘園に送られた。領主の代理人はかれに五百頭もの羊を放牧させたが、とても子供の手に負えるものではなかった。ある日、何頭かの羊がヒョウに食われてしまったため、代理人にさんざん殴られた。毎日、干からびたツァンバすらろくに食べさせてもらえなかったので、おなかが空いてたまらず、羊の草を食ったこともある。夜は羊小屋で眠るありさまだった。このようにして一年間も虐げられたので、人相まですっかり変わってしまった。これ以上しぼりとるものもないと見て、代理人はかれを追い出した。家に帰ったときは、母親ですら顔を見分けられなかった。「母さん……」と声をかけると、母親は目をまるくしたまま卒倒してしまった。その後、かれはまたクソン荘園の奴隷となったのである。

 民主改革がはじまると、共産党の工作隊が荘園にやってきた。隊員たちはかれの家にも訪ねてきて、これまでの苦しみを聞いてくれた。そして、農奴のしあわせになる日がもう目の前にきているのだ、早く立ち上がって反動的な領主を倒そうと説くのだった。隊員たちはニマッレンのぱさぱさなツァンバを食ベ、ボロボロの羊皮をかぶり、持参した米やフカフカなふとんを代わりにくれた。なんと親切な人びとだろうと、かれは感激した。夜になると、かれは貧しい仲間たちをさそって工作隊のところにゆき、これまで誰にも話したことのない先祖代々の苦難にみちた歴史を、涙ながらに訴えた。もらい泣きしながら話を間いた隊員たちは、貧しい人びとは団結して反動領主の悪業を糾弾しようとすすめた。

 ある程度の準備段階をへてから全郷の農奴大会が開かれ、領主の代理人との闘争がはじまった。まっさきに壇上にあがって訴えたのはニマッレンだった。千年の仇、万年の恨みは火山の爆発にも似て、農奴たちの憤りはすさまじかった。

 農奴たちはその場で、土地の借用証や高利貸しの帳簿を焼きはらった。

 ここまで語って、旧社会で虐げられた傷あとのあるやせ細ったニマツレンの顔に、はじめて笑みが浮かんだ。

 「そのときから、農奴は解放されました。わたしの家は、六克(○・四ヘクタールほど)の土地と乳牛一頭、羊十頭、ロバー頭、その他の生産道具、家具、衣類などを分けてもらいました。そしてわたしと母は、もとの領主の屋敷に住むようになりました。みんなは、わたしを郷の貧農・下層中農協会の主席に推選してくれました。そのころは、この協会が郷政府の役割を果たしていたのです」

 「新しい生活がはじまりました。最初のうちは、なかなか実感がわいてきません。夢ではないかとも思いました。でも、こんな生活は、昔なら夢にだって見ることができなかったでしょう。その後しばらくして、わたしは国慶節式典参加チベット代表団の一員として北京へ行き、一九五九年十月一日の式典に参加しました。そのときわたしは、わたしたち農奴を解放してくれた恩人、毛主席にお会いすることができたのです。毛主席は親しく握手して下さいました」

 虐げられてきたチベットの農奴は、だれでもみんなニマッレンと同じように、自由な身に生まれ変わった体験を持っている。

 民主改革は、百万の農奴をしばりつけていた封建農奴制のカセを打ちこわし、生産力を解放して、農牧業の発展を大いに促したのであった。

 人民政権が下から上へと順次うち立てられたその基礎の上に、一九六五年九月九日、チベット自治区政府が正式に成立し、憲法の定める権限にもとづいて自治権を行使している。解放された百万の農奴は、新しいチベットの主人公になったのである。

社会主義の道をすすむ

 民主改革がみごとに成しとげられてから、チベットは社会主義革命と社会主義建設の新しい段階に入った。

 土地の分配をうけ、自由な身となった農奴たちは、毛主席の「組織せよ」という呼びかけに心から応え、全自治区に、個人経営を基礎とし、労働の相互援助を実行する社会主義の萌芽である互助組を二万以上つくりあげた。

 ニマツレンは話をつづける。一九五九年、土地の分配をうけたかれは、生まれ変わった十二世帯の農奴といっしょに互助組をつくった。クソン郷に初めてつくられた四つの互助組のうちの一つである。農奴主が支配していた当時は、食糧の収穫高はヘクタール当たり千二百六十キロを越えることはなかったのに、互助組が成立した翌年の一九六○年にはヘクタール当たり千六百八十キロという好成績をあげたのだった。一九六五年には、互助組は十一組にふえた。しかし、個人経営の基礎の上に建てられた互助組は、貧富両極への分化を避けることはできなかった。天災や人災にみまわれて生活が苦しくなり、民主改革で分けてもらった財産まで借金のかたにする農民も出てきた。一九六四年、大衆的な社会主義教育運動がくりひろげられた。毛主席の「中国を救えるのは社会主義だけである」という教えを学んだクソン郷のもと農奴たちは、近隣諸省の人民が毛主席の「人民公社はすばらしい」という指示にしたがって、政社合一の末端組織である人民公社をつくり、農村のあらゆる事業の大発展を促したことを知って、自分たちも人民公社づくりの準備をはじめた。一九六五年六月、当時の 自治区党委員会書記、張国華同志がクソン郷にやってきたさい、かれらは直接張書記に人民公社の設立を申し込んだ。張書記は座談会を開いて広く意見を聞いてから、その申し込みを承諾した。こうして一九六六年に、かれらは正式に人民公社を成立させたのである。この年、公社の収穫高はヘクタール当たり二千五百二十キロに達して、公社に加入していない農家を大幅に上回り、人民公社の優越性をいかんなく発揮した。一九六九年には、全郷の百二十数戸がことごとく人民公社に加入したのであった。

 クソン人民公社は、チベット地区ではわりに早くつくられた公社の一つである。チベット地区の人民公社づくりは、一九六五年に試行段階に入った。一九六六年、プロレタリア文化大革命がはじまると、広はんな農牧民が劉少奇、林彪の修正主義路線、およびダライ反動集団の反人民、反祖国、反社会主義の犯罪行為をきびしく批判したため、毛主席の革命路線はいっそう強く人びとの心をとらえ、社会主義への積極性も空前の高まりをみせ、全自治区で人民公社をつくろうという気運が盛り上がった。各級の党組織は、自由意志と相互利益の原則をかたく守って、人民公社づくりの活動を計画的に、段取りよくくりひろげた。現在では、全自治区の農牧業地区が人民公社化を完成している。都市部の個人経営の商店や手工業に対しても、社会主義的な改造がおこなわれた。

 中国の他の省や地区の農村では、土地改革のあと、まず互助組、それから集団所有制の合作社を経て人民公社へとすすんだのだが、チベット地区だけは合作社の段階をとび越えて、互助組からいきなり人民公社へとすすんだのである。

 クソン人民公社は、もとのクソン荘園(郷)を基礎につくられた公社である。戸数百四十、人口五百九十人あまり、耕地約百五ヘクタールで、公社と生産隊の二級制になっている。昔からあった四つの自然村がそのまま四つの生産隊に組織され、その生産隊を基本採算単位として収益が分配される。人民公社が成立した当初は、近隣諸省の初級合作社がかつて実行していた収益の分配方法にならった。つまり、収益の一部は労働に応じて分配し、いま一部は公社に加入した土地、役畜の多少に応じて分配する方法である。しかし、一九六七年以後は、土地と役畜に対する報酬を取りやめ、全部を労勘に応じて分配するよう改めた。同時に、生産隊は身寄りのない老人、病弱者、孤児、寡婦、身体障害者および事故で生活上の困難をきたした公社員に対して、全面的な生活保護、または補助を与えている。

 公社の本部があるクソン村のまわりには、平坦な耕地が山のふもとまで伸び、よく実った青ク\(ke1)があたり一面を黄金色にぬりつぶしている。ニマツレンの話によると、以前、この辺は細切れの土地が多く、耕すにもかんがいするにも不便だった。しかし公社ができてからは、土地は一枚にまとめられ、水利建設がおこなわれ、土壌も改良されて、みごとな田園に生まれ変わっている。

 わたしたちは脱穀場にやってきた。脱穀機がダダダッとうなりを上げながら、耐寒小麦を脱穀している。ニマツレンはよく実った麦を手にして、「またも豊作ですよ」と嬉しそうにいった。一九七四年、この公社の収椎高はヘクタール当たり三千四百五十キロになった。一九六五年に六舌頭あまりだった羊は、現在、千三百頭以上にふえている。

 以前、クソンー帯の耕作方法は、チベットの他の地方と同じくひじょうにたちおくれていた。畑を耕すときは、手のひらほどの鉄の刃のついた本製のスキをヤクにぴかせ、青ク\(ke1)を刈り入れると、脱穀場にひろげてヤクに踏ませたり、棍棒でたたいだりして脱穀する。秋に取り入れたものを、一冬かけて脱穀することもしばしぱであった。人民公社の迅速な経済発展と公共積立金の増加によって、農牧業の機械化、半機械化の速度は大いにはやまった。刈り終わったばかりの小麦畑を新型のスキを索引して耕すトラクターなど、たくさんの農業機械や改良された農具をクソン人民公社で見ることができた。わたしたちはまた、村はずれにある二十二馬力の公社経営の小型水力発電所も参観した。この発電所は、田畑のかんがい、公社経営の製粉所やはるさめ工場に電力を供給している。

 つづいて公社のリンゴ園に足を運んだ。みごとなリンゴが枝もたわわに実っている。クソン人民公社では、どの生産隊にもリンゴ園がある。解放前のチベットでは、一部の地勢の低い土地と領主の庭園にわずかばかりのリンゴの木があるだけだったので、たまに小さなリンゴが実っても、みな「珍品」として領主に納めなければならなかった。いまのチベットには、いたるところに果樹園がある。

 人民公社の成立は、生産を発展させるために広ぴろとした道を開いた。チベット各地の人民公社は、「一大二分」(規模が大きく、集団化の度合が高い)の優越性を発揮して、土地や人力を統一的に運用し、毛主席の「農業は大寨に学ぼう」という呼びかけに積極的に応えて、貯水池や用水路をつくり、農地や牧草地を造成している。一九七二年から一九七五年の夏までに、全自治区では、段々畑、台地畑、区画化された田畑など約五万四千ヘクタールを造成し、大小の貯水池を五千以上、用水路を五千キロあまりつくりあげた。かんがい面積は、全自治区の耕地面積の四七パーセントに当たる十二万一千ヘクタールに達している。このように生産条件が改善されたので、農牧業は毎年のように豊作をつづけている。一九七五年、全自治区の穀物総生産高は一九七四年より八パーセント増え、民主改革前の一九五八年の二倍半以上になっている。収穫高がヘクタール当たり三千キロを越えた県が十一、三千七百五十キロを越えた県も三つあり、全自治区で食糧の自給が実現した。一九七五年の全自治区の家畜頭数は、史上最高だった一九七四年を上回り、民主改革前の一九五八年のほぼ二倍になってい る。

 チベット北部の草原は全国でも有名な大牧場の一つだが、封建農奴制の時代には、自然災害があとを絶たなかった。現在では、どこの公社にも牧畜防疫グループが設けられており、生産労働も牧畜の治療もできる「はだしの獣医」が育成されている。統計によると、いま全自治区には五千名以上の「はだしの獣医」がいて、農業地区の各人民公社と、牧畜地区の各生産隊にそれぞれ一人か二人づつ配属されている。各級の牧畜防疫グループと専業の防疫係が協力して、全自治区に強力な防疫網を形成したので、家畜の一般的な病気はほとんど予防できるようになった。一九七四年の春、チベット北部の草原は風速三十五メートルという大風災にみまわれ、多くの地区で牧草が根こそぎ吹きとぱされた。老人の話では、四十七年前にも同じような大風災にみまわれたが、その時は家畜の半数近くが死に、たくさんの人が一家離散のうき目にあったという。しかし今日では、人民公社の集団の力にたよって、牧畜民たちは災害に打ち勝ち、豊作をたたかいとることができるのである。

公社員の家をたずねて

 生産の発展につれて、農牧民の文化面や物質面の生活は大いに改善され、人口も急速な増加をみせた。一九七四年には、チベット農村地区の貯金総額は一九六五年の十一倍を越え、チベット族の人口は、民主改革後の十五年間に三十万以上も増加したのである。

 わたしたちは、ヤルンズアンボ江の北岸にあるニンチ(林芝)県ミースイ人民公社で、ラバトンチョさんの家を訪れた。解放前、領主の抑圧を受けて生きるすべを失い、あちこちを流浪していたこの農民が、いまでは屋根裏まである新しい石づくりの家に住んでいる。ラバトンチョは、これは文化大革命中に新しく建てたものであると説明しながら、すぐ隣りの建物のドアを開けて、わたしたちを案内した。こっちの建物は新築のそれよりも低くて小さいし、造りもしっかりしていないようだ。室内には、大小とりどりの民族衣裳がかけられ、そのほかチベット風のふとん、毛布、羊の皮、ヒョウの皮などもおいてあった。この建物は民主改革のあとに建てられたもので、いまは住居ではなく物置として使っていると、かれは説明した。そこを出て少しすすむと、かたむきかけた土とアンペラの掘っ立て小屋があった。かれの説明によると、ここは民主改革前にかれの一家が住んでいたところで、いまは生産隊の牛小屋になっているとのこと。三つの建物は、三つの時代を物語っているのである。ラパトンチョの家族は十一人、かれと妻と九人の子供である。子供たちのうち、一人は解放軍、三人は学校に行っ ているが、ほかはみな生産隊で働いている。一九七三年、かれの一家は三千三百キロの穀物と千二百元の収入があった。かれは一度に腕時計を二つ買い、一つは自分で使い、もう一つは部隊にいる息子にやった。それからラジオを買い、衣服とふとんを新調して、残った金は銀行に預金した。

 「花は太陽の光があってこそ美しく咲くし、鷹は翼があってこそ空高く飛べるのです。人民公社こそ、しあわせの道に通じる黄金の橋ですよ」

 ラパトンチョは、顔をくしゃくしゃにして笑った。


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