8.「金色のリボン」


 チベット訪問中、わたしたちの交通手段は主として自動車であった。わたしたちの車は、毎日毎日、整備のゆきとどいた自動車道路を走った。高いところからはるか見渡すと、道路はまるで果てしない帯のように、連なる山々の間を遠く伸びている。チベットの人びとが、この道路を「金色のリボン」と呼んでいるのも、なるほどとうなずけた。

道路交通網

 チベットには、現在のところ幹線と支線あわせて九十一本、全長およそ一万五千八百キロの自動車道路がある。これらの道路は、南部のシガズェ、ツォモ(亜東)、ズェタン(沢当)、北部のナッチュ、東部のチャムド、ニンチ、西部のガルヤルサなどの主要都市や町をむすびつけているだけでなく、九七パーセントの県と七五パーセントの県轄区、さらに多くの工場、鉱山、農場、休場、牧場、人民公社をもつないでいる。解放前、自動車道路などまったくなかったこの地区に、いまは完全なものとはいえないまでも、ラサを中心とする自動車道路綱が形成されたのである。

 解放前のチベットには、近代的な橋梁など一つもなかった。人びとは牛の皮でつくったいかだで川を渡るしかなかった。いまでは、とうとうと流れる金沙江、瀾滄江、怒江、ヤルンズァンボ江およびその支流のラサ河、タンメ(通麦)河、ニャンチュ(尼羊曲)河、ニャンチュ(年楚)河などに、一つまた一つと近代的な道路橋がかけられている。解放後、とくにプロレタリア文化大革命がはじまってから、全自治区で恒久的な道路橋が二百以上も架設または改修された。その長さはのべ十キロにも達している。

 チベット地区は山が多く、地勢が高く、川の流れが激しいので、交通は実に不便だった。チベット族の勤労人民は、大昔から驚くほどの意志力でさまざまな困難をのりこえ、多くの山の中に道を切りぴらいた。しかし、当時のチベット地方政府が交通運輸事業にまるで無関心だったので、それらの道もいつの間にか荒れ果て、通行しにくくなってしまった。解放前、国民党反動政府は、四川からチベットまでの道路をつくるという計画を提出した。だが、それは中国西南部各族人民の有史以来の悲願を利用して私腹を肥やす手段にすぎず、道路の建設はいつになっても始められなかったのである。

 交通の不便さは、チベットの勤労人民にこの上ない苦難をもたらした。領主の昔物をかつぐ農奴と奴隷たちは、道中でしばしば侮辱され、ムチでなぐられるのだった。どれだけの人が、けわしい山道を歩きながら凍え死んだり餓死したり、また深い谷底に転落して死んだりしたかわからない。

 一九五○年、中国人民解放軍がチベットに進軍したとき、毛主席は「進軍しながら道路をつくるように」と指示した。四川とチベットの間の道路工事が開始されたさい、毛主席はまた「各兄弟民族を助けるため、困難をおそれすに道路建設に励もう」という題詞を書いて、工事に当たっている軍民に呼びかけた。一九五五年三月九日に開かれた第七回国務院全体会議は、「チベットの交通運輸問題に関する決議案」を審議し、承認した。この決議案には、チベットの交通運輸をよりよく進めるための全面的な計画と具体的な規定が定められている。

 中央の各関係部門は、チベットの交通運輸事業を発展させるため、人力、物力、財力などの各面から大いに支援した。全国の各省、市も、技師や技術者を派遣したり、物資を調達したりして、チベット人民の建設事業を助けた。隣接している青海、四川、新疆、雲南などの省や自治区の各民族人民の多くも、チベット地区内の道路や橋梁の建設工事に積極的に参加した。

 チベットの道路交通綱を建設し発展させてゆくに当たって、人民解放軍のチベット駐屯部隊は主力軍の役割を果たした。かれらはチベット族、漢族の道路工夫といっしょに、氷雪や厳寒とたたかい、「高山に頭をさげさせ、河川に道をゆずらせる」という革命的な英雄主義の気概をもって、野生の羊でさえ登れないような断崖絶壁によじ登り、山を切りくずして道をつくった。

 チベットの道路交通事業の発展は、全自治区の各民族人民が毛主席の「自力更生、刻苦奮闘」という方針をしんけんに貫徹、実行し、自治区覚委員会の統一的な指導のもとに、大いに大衆運動をくりひろげてなしとげたものである。一九五九年の民主改革以来、とりわけプロレタリア文化大革命がはじまってからは、広はんなチベット族の人びとは自らの力とあり合わせの材料を使って、支線道路をたくさんつくった。チベット北部高原のナッチュ地区では、のべ二千二百八十数キロある自動車道路のうち、半分以上は県や区、公社などが大衆を動員し、集団の力でつくったものである。現在、この地区の九つの県と七○パーセント以上の人民公社には、自動車道路が通じている。

英雄的な運転手と道路工夫

 「世界の屋根」と呼ばれるチベット高原につくられた道路は、そのほとんどが断崖絶壁や切りたった谷間、深い潤をめぐっている。青海・チベット自動車道路は、その半ば以上が標高四千五百ノートルを越える人跡まれな荒野を走っている。そして、地震帯を横切るときは、洪水、大雪、氷河、流砂、山くずれ、土砂くずれなどの自然現象とたたかわなけれぱならない。四川・チベット自動車道路のボウォ(波密)(チベット東部)の区間には、数十本の土砂の流動帯があり、外国の一部のブルジョア専門家は、かつてこう断言したものだ。「気候は酷寒、空気は希薄、地質は複雑、地形は険阻な『世界の屋根』に道路がつくれるものか。つくったとしても、とても長くは使えまい」と。険しいという点は確かにかれらのいった通りだが、解放された人民がどのような奇跡をつくりだせるものか、かれらにはとても予測できなかったのだろう。

 わたしたちは沿道で、英雄的な逆転手についての物語をいったいいくつ耳にしたことか。

 ある初夏のこと、高原の氷や雪が溶けはじめ、おまけに地震の影響もあって、四川・チベット自動車道路のグーシャン(古郷)氷河はちょくちょく決壊した。そのたびに土砂、岩石、氷塊などからなる激流が河口にあふれたして、路上のすべてを飲みこんでしまうのである。ある日、ちょうど土砂の流れが動きだしたとき、トラック輸送隊が通りかかった。グーシャンの河口一帯は、すでに一面の石と泥の海になっていた。橋はこわれ、道路は土砂で埋まっている。どうしたらよいだろう。もしこの季節が過ぎるのを待つということにすれば、少なくとも一カ月はさきのことになる。チベットヘの物資を早くとどけるために、輸送部隊の兵士たちは大自然の猛威とたたかう決心をした。氷河は一度暴発すると、短くて十数時間、長いと数日間の間隔をおいてまた暴れる。兵士たちはこの間隙をぬい、木を伐ってきて橋をかけたり、山になった土砂を整理したり、一昼夜働きぬいてとうとう車が通れるようにした。このとき、氷河の監視所から予報が出された。遠方の白い屏風のように切り立った高山の氷河から黒い流れが二本現われ、ドドドッという轟音もかすかに聞こえてくる、と。氷河はまた暴れだしたの だ。しかしあの高山からだったら、ここまで流れてくるにはある程度の時間がかかる。運転手たちは、石や泥におおわれた道路を沈着冷静に走行した。土砂の流れと競走だ。雷鳴がとどろき、どす黒い土砂の流れが巨大な竜のようなすさまじさで追ってきたのと、最後のトラックが危険区域を脱出したのとはほぼ同時だった。ふりかえると、いま渡ったばかりの橋はもう土砂に埋没してあとかたもなかった。

 チベットの道路を走る車はただでさえ大変なのだから、地質の変化、天候の急変といった異常な情況のもとで連日走行を可能にしようとなると、道路の整備には万全を期さなければならない。そこで、道路の保全に当たる工兵部隊と道路工夫たちは、言語に絶する苦労を重ねているのである。

 チャムドの東に、カージーラ(・d(ka3)集拉)山という四千八百メートルの高山がある。カージーラとはチベット語で星の宿る山の意で、天までとどくほどの高さと風雪のものすごさをいっているのである。気温の低いところだから、南から湿った空気がやってくるとたちまち大雪となり、二、三時間も降れば、道路には一、ニメートルの雪が積もる。場所によっては雪かきのトラクターが埋まるほど積もるので、除雪してゆくと道の両側に高い壁ができる。ときにはその雪の壁がくずれ、トラクターを半分くらい埋めてしまうこともある。しかも、大雪のあとには大風がつきものなので、のけた雪がまた舞いもどってくる。車を溝りなく通行させるために、道路工夫たちは連日のように強風や大雪とたたかわなければならない。かれらは必要とあれば、自動車のバンパーに腰掛けて道を走り、雪や氷にぷさがれたところにぶつかると、すぐにおりて整理する。このようにして、すべての車が無事に山を越えるまで見守るのである。かれらは、夜寝るときもベッドの横にシャベルを置き、いつでも除雪に出かけられるよう用意している。

 この道路保全グループの受持ち区間にはトンネルが十ヵ所もあり、しばしば雪にふさがれる。また天井から流れ落ちる水が路面にたまり、それが凍って通行の安全をおびやかす。道路工夫たちは雫下二十度もの寒さをこらえながら、トンネルに入って氷雪を取り除かなければならない。作業時間が長ぴくと作業服の上にも氷がはり、水晶のよろいを着たようになることもたびたびである。

 老牧畜民の話によると、道路が通じる前は、この峠には鳥さえ飛ばなかった。一度だけ、四人の奴隷が領主に強要され、しかたなく山に登って働いたことがある。だが、吹雪におそわれて行方不明になり、翌年の夏、峠のあたりで死体が見つかったという。むかしは恐ろしいところと思われていたカージーラ山も、いまや道路工夫たちに征服されたのである。

旅行者の宿

 自動車道路の沿線には、旅行者を接待するターミナルがたくさんある。

 その日、わたしたちは車で高原を一日中走り回ったあと、あるターミナルで泊まることにした。服務員はまずお湯を持ってきてわたしたちに手足を洗わせ、つづいて湯気の立った食事を目の前に並べてくれた。このゆきとどいた接待でわたしたちの心は暖かくなり、一日の疲れもたちまち消し飛んでしまうのだった。

 広間の壁に「故郷はまだ遠いのにもう家に着いたようだ。階級的な情愛は肉親のようにやさしく暖かい」という対聯(二枚の紙に書いた対句)が貼ってある。全く同感だったので、誰が書いたのかとターミナルの責任者に聞いてみた。もと解放軍の軍人で、四川・チベット白動車道路の建設に参加したこともあるこの責任者は、年をとるにつれて体がおとろえてきたので、ここに転勤してきたのだという。以下はかれの話。この対聯は、ここに泊ったある女工さんが贈ってくれたものだ。かの女はチベットの建設を支援しにきた隣の省の労働者で、出産のため故郷へ帰ることになった。ところがここを通るとき、旅の疲れから早産してしまった。ターミナルの女性服務員たちは、自分の家から産婦と赤ん坊の必需品を持ってきたり、栄養の高い食事をつくったりして、家族の者が迎えにくるまでのまる一ヵ月間、かの女の世話をしたのである。

 チベット東部の自動車道路沿いには、「カージーラ山は一番寒いが、カージーラ山の人びとは一番暖かい」ということばがある。ある年の春、まれにみる猛吹雪のために四百人もの旅客を乗せた数台のバスが、カージーラ山の峠で立ち往生してしまった。寒さと高山病のため、旅客たちはきわめて危険な状態にあった。これを聞いた近くに駐屯する運輸兵と道路保全グループは、一メートルもある積雪をふんでかけつけ、旅客を一人一人背負って駐屯地に運ぴ、宿と食事の世話をした。高山病にかかった一部の婦人たちは子供の面倒もみられなくなり、兵士たちがかわりに世話を引き受けた。休息と治療のかいあって、翌朝、母親たちの健康は回復した。一睡もせずに子供の面倒をみた兵士たちのふところから、スヤスヤと眠っているわが子を受けとりながら、母親たちはハラハラと感激の涙を流すのだった。

 高原の自動車道路で働く人びとは、ひじょうにきびしい環境にありながら、楽観主義の精神に満ち満ち、高度の責任感と仕事に対する情熱をもっている。どうしてそういう風でいられるのだろうかとターミナルの責任者に聞いたら、答えはこうだった。「わたしたちの仕事が新しいチベット建設のために役立っていると思えば、どんなに苦しいことでもむしろ楽しみなのですよ」

 今日のチベットの社会主義革命と社会主義建設のすばらしい発展ぶりは、道路の建設と切りはなすことはできない。解放以来、国家がチベット建設のために提供した大量の機械、物資、器材などは、いずれもこの自動車道路によって運ばれたのである。道路交通網の形成は自治区の人びとの往来、物資の輸送に大きな便利をもたらし、いまではどの人民公社、どの生産大隊の売店でも、ラサと同じ価格であらゆる品物が買える。道路に沿って、新じい町もつぎつぎに生まれている……。」

 わたしたちは旅行中、あちこちで新しい道路が着々と建設されているのを見た。美しい「金色のリボン」は、もっと遠くへ、もっと多くのところへ伸びてゆくことだろう。


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