9.チベット人民の健康のために


  わたしたちはチベットの各地で都市や町の病院を見学し、同時にまた、農村や牧畜区の衛生室をも訪ねた。そして、かつては極度に医者や薬の足りなかったチベットに、初歩的ではあるが医療衛生網がはりめぐらされているのを見た。なかでも広大な農村や牧畜区で居躍しているはだしの医者は、わたしたちに深い印象を与えたのである。

はだしの医者ツーレンオウズ

 ホカ地区ネドン県のダラー人民公社で、わたしたちはツーレンオウズについての評判を聞かされた。公社員たちはかれのことを「おれたちの医者」といっている。

 ツーレンオウズは三十歳で、中肉中背、色の黒い男だ。解放前、奴隷だったかれの父は領主にこき使われて病気になった。治療する金もないので、一年あまり苦しんだすえに死んでしまった。解放後の一九六五年、ツーレンオウズはチベット自治区とネドン県が協同でひらいた医務関係者養成の講習会で勉強し、故郷に帰って生産労働からはなれないはだしの医者になった。故郷の人びとには医者も薬も足りないことをよく知っていたので、かれは一日も早くそれを解決しようと決心した。上級の医療機開の指導と医者たちの協力を受けながら、かれは積極的に大衆に衛生知識を宣伝し、よく見られる病気の予防活動をくりひろげ、心をこめて献身的に人びとの治療に当たった。ある解放された農奴の主婦が腎臓性浮腫にかかったが、その夫も目が不自由なので世話することができない。そこで、ツーレンオウズは治療をするだけでなく、生活面でもこの夫婦の世話をし、毎日の食事の面倒までみてやった。それは都合ニヵ月以上、かの女の健康が回復するまでつづいだのである。昼も夜も、雨でも雪でも、病人があれば、かれはどこまでも出かけて行く。ここ数年間に、かれの治療を受けた病人はのべ一万人 を越え、命を救ってもらった重病人も数百人いる。

 ツーレンオウズは母親と二人暮らしで、家もせまかった。はだしの医者になってからは患者の出入りが多く、家の中はいつもごたごたしている。そこで、かれは身銭を切って材料をととのえ、自力で新しい部屋をひと間増築することにした。それを知った公社員たちは、すすんで手伝った。新しい部屋が診察室にあてられたので、患者も気安く治療を受けにこれるようになった。

 ある日、かれの母親が病気になり、四十度もの高熱を出した。ちょうどそのとき、ある公社員の子供もハシカと肺炎を併発してきわめて危険な状態にあった。しかしツーレンオウズの手もとには、ペニシリンは三本しかなかった。どちらに注射したものか。「子供は解放された農奴の後継者だ。病状は悪化しやすく危険も大きいから、大急ぎで手当てしなければならない。でも、母さんの病気だって、いつ悪化するかわからないのだ。どうしたらいいだろう」しばらく考えた末に、まず子供を優先し、それから母親をなんとかして救おうと決心したかれは、三本のペニシリンをすべて子供に注射した。同時に針灸療法で自分の母親を治療した。かれの心のこもった治療と看護で、二人とも救われたのである。

 ツーレンオウズのように誠心誠意人民に奉仕するはだしの医者が、いまチベットでは日増しにふえてきている。

医療衛生事業の発展

 チベット自治区の衛生局で、わたしたちはもう一人のズオガという女性に会った。チベットに来て最初に知り合ったのが女優のズオガだったが、いままた、医療衛生の仕事をしているもう一人のズオガを知ったわけだ(チベットには同じ名前の人がとても多い)。農奴の家に生まれたかの女は、解放後、沿海地区へ派遣されて医学を勉強し、いまは自治区衛生局の副局長である。かの女はチベットの衛生事業の生き字引のような人で、その現状をくわしく紹介してくれた。

 反動的な封建農奴制が支配していた旧チベットでは、百万の農奴には人間としての最低の権利さえなかったのだから、薬を飲み、病気を治すことなどとうていできるはずがなかった。そのころのチベットには医者はきわめて少なく、しかも少数の封建農奴主に独占されていた。反動的なラマや巫女たちは、人びとの封建的な迷信思想を利用して、泥、線香の灰、はてはダライの大小便で丸薬をつくり、勤労人民から金銭や品物をだましとっていたのである。

 チベットでは、史上何度となく天然痘やその他の伝染病が流行した。伝染を恐れる農奴主は、そのたびに病人を火で焼き、ナベで煮、生き埋めにし、あるいは山奥に追い払った。リュンズブ(林周)県タング人民公社の公社員チャンバイは、解放前、そういう目にあった経験者のひとりである。それは三十年前のことだ。チャンバイの村で天然痘が大流行し、多くの人びとが発病したが、かれの弟もついに感染してしまった。旧地方政府は軍隊をくり出して病人を山奥に追い払い、病人が家に帰ることや、他の者と接触することを禁じた。弟の世話をするために、チャンバイは病人といっしょに追われて山奥に行った。やがて病人は一人また一人と死んでゆき、弟もまたこの世を去った。病人と接触したからといって、領主は村に帰らせてくれない。やむをえずあちこちを流浪したかれは、解放後、ようやく自分の故郷に帰ることができたのである。

 毛主席と党中央は、生まれ変わった百万の農奴の健康にとても気を配ってくれている。一九五一年、人民解放軍がチベットに進駐したときには医療隊もいっしょだった。翌年は、さらに中央から民族衛生大隊が派遣されてきた。チベットに駐屯した解放軍は、ギャンズェ、チャムド、デンチェン、ボウォ、シガズェ、アリ(阿里)などの地区にそれぞれ医療隊を派遣して、農民や牧畜民のために病気の予防と治療をさせた。またチベット族の医者の養成や、病院の開設も支援した。ごうして、チベット人民はついに自分の病院と医者を持つようになったのである。その後、中央はまた医療衛生の幹部や医薬学校の卒業生をチベットにまわしたので、チベットの医薬衛生関係の人員はたえず拡大された。プロレタリア文化大革命がはじまると、修正主義の医療衛生路線を批判し、「医療・衛生の重点を獲村におこう」という毛主席の指示を貫徹するため、北京、上海、江蘇など九つの省と市は、一九七三年と七五年に医療隊を派遣して、チベットの医療衛生事業をいっそう発展させた。解放以来、チベット人民の医療費は一貫して国家が負担している。いまでは全自治区の医療衛生機権は六百六十ヵ所あ まりに達し、そのほかに六百以上の農村人民公社も衛生室をつくっている。ラサ市をはじめ、シガズェ、チャムド、ナッチュなどにかなり大きな総合病院が建てられたほか、各県にもそれぞれ病院がある。県轄区も4大部分が病院を持っており、ほとんどの人民公社には衛生局があり、一部の生産隊には生産労働をはなれないはだしの医者と衛生員がいる。生産労働に参加しない専門の医者は全部で三千四百余人いるが、そのうちの千人以上がチベット族である。また生産労働をはなれないはだしの医者は、六千余名にのばっている。全自治区には中等衛生学校が四校あり、各地区(市)には衛生防疫所が設けられた。また自治区の製薬工場もすでに建設され、目下のところは医療機械修理工場、薬品点検所などの建設にとりかかっている。

チベットの医学と薬学

 漢方医学と西洋医学とを結合させるという方針にしたがって、チベットの伝統的な医学も受けつがれ、発展をみせている。

 わたしたちはラサのチベット医学病院を見学した。病院側の説明によると、この病院は、解放前のラサの主な医療機関だったメンカオカン(チベット語で、医療と暦法の機関のこと)のあとに建てられたものである。メンカオカンはもっぱら封建農奴主の病気を治療するところで、四十数年という歴史を持っている。しかし解放前はたった一つの診察室しかなく、チベット医学の医者三人、薬剤師一人というありさまで、毎日わずか十数人の患者しか診療できなかった。いま、わたしたちの見学している病院はまるでちがう。ここにはたくさんの影祭室があり、内科、外科、針灸科などが設けられ、百二十数人の医者がいて、毎日七百人前後の患者を診療している。また、大衆の便宜を考えて二十四時間いつでも診察を受け付けるし、入院患者用の病室もある。

 チベットの医学と薬学は、チベット人民の長期にわたる病気との戦いの申で発展してきた民族の医学であり、中国の伝統的な医学の一部分である。しかし、封建農奴主の反動支配のもとでは、チベットの医学と薬学もまた、勤労人民を搾取し圧迫するための道具となり、封建的な迷信めいたものもたくさんまじっていた。解放後、「中国の医学と薬学は偉大な宝庫であり、その発掘と向上につとめるべきである」という毛主席の教えにもとづいて、医療衛生関係者はチベットの医学と薬学を調査研究し、科学的根拠のあるものは取り、迷信的なものは捨てて、新たに発展させたのである。

 文化大革命中、この病院の医者たちは、伝統的な処方を基礎に新しい方法を取り入れながら、慢性気管支炎、喘息などに効く新薬をつくり出した。その効果はかなり顕著なものである。また胃潰瘍、関節炎、中風などに対しても、チベット医学の療法はわりあい効果をあげている。

 チベット医学病院には付属の製薬工場があり、人びとから買い上げる薬草や自分たちで栽培した薬草を原料としている。いまでは製薬の品種は、一九五九年の民主改革のときの二倍になった。以前の製薬は手作業にたよっていたが、いまは機械を使っているので、その効率は大いに高まっている。

チベットの医学と薬学を発掘し整理するため、病院では数人の老チベット医からなる研究グループをつくり、チベットの医学と薬学に問する古い書物の研究、整理をしている。

 研究グループのチベット医は目を輝かせて語った。人民政府が重視してくれるので、いまではラサだけでなくチベット中の各地で、チベット医学と薬学が広く使用されているし、新しい世代の若いチベット医もりっぱに成長している。現在チベット医学病院の副院長をつとめている二十六歳のザンドイなどは、まさにその一人である、と。

「中央からきたメンパに感謝する」

 全国の各省や市からやってきた医療関係者は、医者も薬も足りないチベットの状態を改善し、医療衛生事業を発展させるのに大きな役割を果たした。かれらはチベット各地に出かけて、チベット人民の健康を守るために一生懸命働いている。

 産婦人科の顧知方さんは、そうした医者の一人である。

 顧知方さんは、もとは東北の工業都市落陽の病院につとめていた。一九七一二年、病院からチベット支援の医者を派遣すると聞いたとき、かの女は落ち着いていられなかった。というのは、チベット高原の環境がきびしいからといって、病院側では四十歳末満の健康な医者の申し込みしか受け付けないと発表したからである。かの女はすでに五十一歳だった。しかし、かの女は「われわれは困難を解決するために仕事をしにいくのであり、闘争をしにいくのである。困難なところであるほどすすんでいく、これこそ立派な同志である」という毛主席の教えを思い起こした。貧農の娘だったわたしを共産党と毛主席が解放してくれ、医者にまでしてくれたのだ。チベットにはわたしと同じように、かつて大きな苦しみをなめつくした階級的姉妹がいるのだ。こう考えたかの女は、チベットヘ行こうと心を決めた。再三にわたる申し入れの甲斐あって、かの女のチベット行きはついに承認された。

 五千キロにのばる長旅の末、顧知方さんは海抜四千メートルの高原に着いた。地勢が高くなるにつれて高山病の症状がひどくなったので、かの女はチベット北部ナッチュ地区のある県で仕事をすることになった。だが、高原には酸素が少ないので呼吸困難になり、血圧も高くなった。地元のチベット族の人びとは心からかの女のことを気づかって、酥油茶を持ってきたり、牛乳をとどけたりしてくれた。かの女はまるで自分の家にいるような、暖かい思いにつつまれるのだった。

 そのうちに高山の環境にもなれて、山登りや乗馬の練習をはじめたかの女は、山間地区への巡回医療にも行けるようになった。

 顧知方さんはまた、チベット族の医者や、生産労働からはなれないはだしの医者を熱心に養成した。ズオジャもその一人である。貧しい牧畜民の家に生まれ、解放後学校に入って読み書きを学んだズオジャは、医療隊がチベットにきてから、顧知方さんについて婦人科の勉強をするようになった。顧知方さんは往診のときも必ずかの女をつれてゆき、実践の中で理論を教え、技術を磨き、その成長を助けた。ズオジャの進歩はいちじるしく、胎位の矯正、正常分娩の処理、よく見かける婦人病の治療、それに簡単な手術などは一人でできるようになった。

 ある人民公社で婦人病を診察しているとき、顧知方さんは一人の女性牧畜民に難産の前兆があり、いまにも危険な状態になるおそれのあることを発見した。ただちにその産婦を県の病院につれてゆき、立ち会い診察をした結果、帝王切開をすることになった。簡単な設備しかない手術室で、顧知方さんは外科の医者とともに手術台に立ち、息づまるような手術をすること一時間二十分、産婦も新生児もめでたく救われたのだった。新生兄の父親は、静かにほおえむ母親のふところで寝息をたてるわが子を見て、感激のあまりに何度もつぶやいた。「中央からきたメンパ(チベット語で医者のこと)に感謝します」

 ラサ滞在中、わたしたちは自治区主催のチベット支援医療開係者座談会に参加する機会にめぐまれた。ある日、会議の最中に一人のチベット族の婦人が訪ねてきた。チベットを支援している医凍関係者に感謝しにきたかの女は、ひん死の状態にあった自分がどのようにして救われたかを話すのだった。

 かの女はトーシンバイツェンといい、国営澎波農場の農民である。ある日、かの女は急に激しい腹痛をおこし、何回となく吐き、やがて気を失ってしまった。農場の衛生所に運びこまれ、医者たちの立ち会い診察を受けた。結果は腸閉塞で、すぐに手術をしなければならなかった。この衛生所には医者が少なく、ほとんどは湖北省からやってきた医療隊の人びとである。かれらはまだ着いたぱかりだし、手術室もできあがってはおらず、医療機械や薬品も十分そろってはいない。だが、チベット族の階級的姉妹の生命はぜったいに救わなければならないという思いにかられ、かれらはあらゆる困難を克服して、すぐに手術をはじめようと決心した。

 医療隊は全員総出で部屋を掃除したり、器具を消毒したりして、一時間のうちに手術の準備をすませた。

 病人が手術室に運ばれた。薬で少し高く上げていた血圧が、突然ゼロにまで下がった。病情の急変を見て、手術室にいるものはみな緊張した。こんな状態で手術をしたら、いっそう大きな危険をまねくのではないか。医者たちが相談した結果、やはり手術は決行することになった。血圧を上昇させる薬がもう一度注射された。血圧がだんだん高くなり、手術は開始された。手術がすすめられてゆくうちに、心臓が衰弱したり、脈博が速くなったり、いろいろと危険な兆候があらわれた。しかし医者たちは、落ち着いて適切な応急措置をとった。

 手術後、医者たちは毎日何回か立ち会い診察をし、病状に応じた治療をやった。そして、その後あらわれる可能性のある病状に対しても、十分な予防措置を講じた。こうして、何回も危険な状態におちいったにもかかわらず、先手をうった甲斐あって、患者はついに危篤状態を脱したのである。

 医療隊の中に看護婦が一人しかいなかったので、医者たちはみなすすんで病人の看護を手伝った。かれらはまた、それぞれ一人づつチベット族のインターンをつれて、毎晩交替で当直をした。病情の変化を記録したり、注射をしたり、薬をのませたりする一方、病人の食事の用意まで引きうけ、本当に心のこもった世話をした。

 トーシンバイツェンは手術後わずか五日間でベッドをはなれ、やがて完全に健康をとりもどした。「旧社会では、わたしのような奴隷が死のうが生きようが、誰も気にもとめませんでした。もしこんな病気になったとしたら、それこそ死ぬよりほかなかったでしょう。ところが今日、毛主席にみちびかれたお医者さまは、わたしの命を救ってくれました」と、かの女は涙ながらに語るのだった。


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