5.新しいチベットの主人公


 チベット滞在中に、わたしたちは多くのチベット族およびその他の少数民族の幹部と知りあった。かれらは革命に情熱をもやし、意気はつらつとしていた。かれらは党の路線、方針、政策をよく理解し、自民族の言語、文字、風俗、習慣を知りぬいているうえに、大衆と密接なつながりをもっている。そして中国共産党の指導のもとに、各級の自治体でそれぞれの職権を行使し、自民族の行政を管理し、誠心誠意人民に奉仕して、社会主義の新しいチベットを建設するために大きな役割を果たしているのである。

 これらの少数民族の幹部は、いうまでもなく新しいチベットの主人公である。

 だが、もとはどのような人だったのだろうか。また、どのようにして成長してきたのであろうか。

党の思いやりと教育

 さんさんと陽光のふりそそぐある日、わたしたちはラサ市郊外の緑したたる田園を通りぬけて、しだれやなぎに囲まれた庭に入って行った。ここは、チベット自治区党委員会の主催する労農幹部講習会の会場である。

 この講習会に参加しているのは、ほとんどが、チベット各地の各分野から集まってきたチベット族およびその他の少数民族出身の幹部である。期間は三ヵ月、人数は毎期約百人。参加者はここで、実践と結びつけてマルクス、エンゲルス、レーニン、スターリンの著作と毛主席の著作を学習し、共産党の基本路線、方針、政策などを学習する一方、修正主義にも批判をくわえるのである。

 わたしたちは、この講習会を主管するチベット自治区の責任者、ハサンさんに会うことができた。かの女は語った。「労農幹部講習会は、自治区党委員会が少数民族の幹部を教育し、高める場所の一つです。チベット解放以来、共産党の思いやりのもとで、いろいろな措置を講じてきましたから、少数民族の幹部は急速な成長をみせています」

 毛主席は「少数民族出身の共産主義的幹部がいなければ、民族問題を徹底的に解決し、民族の反動派を完全に孤立させることはできない」と指摘している。チベット自治区の各級党組織は、毛主席の指示にもとづいて、チベット族とその他の少数民族から幹部を選抜して教育することに大いに力を入れている。解放以来、各級の党組織は多くの少数民族の幹部を選び、北京中央民族学院、陝西省チベット民族学院、または近隣諸省の大学、専門学校に送って勉強させている。そのほか、チベットにもいろいろな専門学校がつくられているし、自治区とその下の各地区や都市には党学校が設けられ、また常設の短期講習会もあって、少数民族幹部のマルクス・レーニン主義の理論と共産党の政策についての水準、指導能力を高めるようにしている。ここ数年、こうした講習会に参加する人数は、毎年のべ一万人を越えている。

 現在、チベット自治区の幹部は少数民族の人が六割以上を占め、チベット(蔵)族、メンパ(門巴)族、コパ(珞巴)族、ドンレン((イ登)人)族などおよそ二万七千人にのぼっている。少数民族の婦人幹部もいちじるしい成長をみせ、全自治区の一万人以上の婦人幹部は、新しいチベットを建設する上で欠かせない策要な力となっている。これらの幹部の多くが、各級の主要な指導的地位についているのである。県の九割以上の直轄区と人民公社の最高責任者はすべて少数民族の人であり、県クラスの労委員会常務委員以上の主要な幹部も四割以上は少数民族の人、そして自治区の党委員会書記の中にも少数民族の幹部が半数近くいる。

 これら新しく成長してきたチベット族およびその他の少数民族の幹部の圧倒的多数は、もとの奴隷か農奴、あるいはその子女である。反動的な農奴主の残轄な搾取と抑圧をうけてきたかれらは、共産党の指導のもとで自由の身となり、階級闘争と路線闘争の自覚も高めた。だからかれらは、古い制度を徹底的に憎み嫌って、共産党をこの上なく愛し、断固として社会主義の道を歩んているのである。

被圧迫階級の解放のために

 ハサンさんが自分の経歴を話してくれた。かの女の家は先祖代々奴隷だった。母と弟が病気と飢えで死んだあと、代わりにかの女が奴隷にさせられた。わずか九歳だった。領主の奥方とお嬢さんの召使として一日中家事に追いまくられ、食べるものや着るものもろくにもらえない。奥方は毎晩、寝る前にお経を読む。そのたびに幼いハサンは、ひざまずいて奥方の背中をこぶしで叩かなければならない。ちょっとでも居眠りをしたら、頭を太い針でグサリと刺されるのだ。このような非人間的な生活に、どうして耐えられるだろうか。かの女は話をつづける。

 「旧社会では、わたしたち奴隷は口があっても話す自由はありませんでした。目があっても見る自由はありませんでした。苦しみが胸いっぱいにたまっても、それを吐き出す自由がなかったのです。わたしは長い間奴隷として働いてきましたが、残ったものといえぱ、体中の傷あとだけでした」

 一九五六年、こらえ切れずに逃げ出したかの女は、人民解放軍をさがしあてた。

 「当時、わたしが考えていたのはわたし個人の解放だけで、すべての奴隷階級の解放ということではなかったのです。ですから憎しみも、自分を迫害していた何人かの領主だけに集中していました。貴族、反動的な寺院、それにもとのチベット地方政府といった三大領主の抑圧は、すべての奴隷階級への抑圧だということが分からなかったのです」

 一九五七年、党組織はかの女を学校に送って勉強させた。マルクス・レーニン主義や毛沢東思想の階級と階級闘争に関する理論に励まされて、ハサンさんは自分の階級的兄弟姉妹の解放のために戦うようになった。一九五九年、かの女は中国共産党に入党した。そして、チベット上層反動集団の起こした武装反乱を平定する戦いに積極的に身を没じ、同時に民主改革にも参加したのである。

 「共産党は、わたしたち少数民族の幹部をとても信頼しています。そしてわたしたちに重要な仕事をあたえ、仕事の申で鍛えられ、高められるよう動まし、協力してくれます」

 一九六二年、ハサンさんはナン(朗)県婦人連合会の主任に抜てきされた。人を指導した経験などないので、とても無理だと思ったかの女は、もう何年か学校に入り、指導者としての力を身につけてから引き受けると、県委員会に申し出た。すると、「革命をやる能力というものは実際の闘争の中で鍛えられるものです。やることが学ぶことですよ」と励まされた。

 ハサンさんはしだいに婦人活動に熟達し、経験を積みかさねていった。一九六五年、かの女はナン県の普通選挙で副県長に選ばれ、県党委員会のメンバーのひとりになった。責任がいっそう重くなったので、りっぱにやれなかったら覚と人民の期待にそむくことになると思うと、大きな心理的「圧力」がかかってきた。かの女は毛主席の著作を学習し、「われわれは、以前知らなかったものを身につけることができる。われわれはふるい世界を破壊することができるだけでなく、さらに、新しい世界を建設することもできる」ということばに啓発された。革命をやる者は困難を恐れず、勇敢に重荷を背負わなければならない。かの女は心理的「圧力」を、前進する力に変えたのだった。

 ハサンさんは、いつでも末端紺繊に足をはこぴ、自由の身となった農奴たちをぴきいてマルクス・レーニン主義と毛主席の著作を学習し、階級の敵とたたかい、大自然とたたかい、用水路を掘り、自動車道路をつくり、地元のたちおくれた姿を変えることに努めた。その後、かの女は新しい任務につくためにナン県を離れたが、ナン県の人びとはいまだにハサンさんの話になると、誰ひとりほめたたえないものはいないという。

 ハサンさんはいま、チベット自治区党委員会書記、革命委員会副主任であり、また中国共産党中央委員会委員、第四回全国人民代表大会の代表である。

二人の書記

 ラサ市八角街の南側、もと領主の庭園だったところに、現在のラサ市党委員会と革命委員会がある。わたしたちは、そこで市革命委員会書記の一人であるチベット族のソガ同志に会った。

 かれは今年三十五歳。シガズェ(日喀則)地区のラズェ(拉孜)県出身で、先祖代々農奴だった。かれも十歳にならないうちから、領主に薪運びをやらされた。あまり多く背負うとうまく歩けないのでちょっと量を滅らす、すると監督している領主にムチを喰らわされる。できるだけた
くさん背負うようにつとめたが、それでも容赦なくムチがとんでくるのだった。あるとき、領主は山の上に建物をつくることになり、こんどはぷもとから頂上まで石灰を運ばせられた。一回連ぶたびに、顔に判を捺される。夜になると、領主が顔に捺された判の数を調ベ、決められた数に
足りないと、これまたムチの雨が降るのだった。「農奴制のもとでは、わたしたちはただでこき使われたばかりか、とても返しきれないほどの借金まで負わされ、年中欧られどおしでした。ですから、家の中も、ポケットも、茶わんも、腹の中も、いつも空っぽでした」とソガ同志は語った。

 チベット解放後、国家から農業貸付金を受けたり、領主の無償労役が前よりはいくらか減ったりしたので、ソガー家の生活はある程度改善された。一九五四年、かれは新しくできた地元の小学校に通い、一九五六年、十七歳のときに北京中央民族学院に入った。そこで多くの革命理論を
学ぴ、階級闘争と路線闘争の自覚を高めて、入党も果たした。

 一九五九年、ダライ反動集団の武装反乱のニュースを聞いたかれは、激しい憤りにもえ、チベットに帰って反乱平定の戦いに参加した。ある日の戦闘で、解放軍の小隊とともに反乱分子七人を捕えたこともある。かれは、封建農奴制をくつがえす民主改革運動にも参加した。以後、区
長、県長、県委員会書記などを歴任し、一九七三年から現職についたのである。

 ソガ同志と話をしている間に、仕事上の指示を求める幹部が何人か入ってきた。その中には、チベット族の幹部も漢族の幹部もいたが、批林批孔運動の問題についても、近隣諸省の大学に送る学生の人選の問題についても、かれはテキパキと明解な指示を与えていた。

 自分の地位の変化について、ソガ同志は深く感じていることがあるらしく、つぎのような話をしてくれた。かれと同じように、自由の身となった農奴から指導者に抜てきされた人はたくさんいる。市革命委員会書記の中にもチベット族の者が三人いるし、市革命委員会副主任の中にもチ
ベット族の者が二人いる。現在、全市の少数民族出身の幹部(チベット族、回族、ルオバ族などを含む)は、文化大革命前の二・二五倍になっており、県クラス(ラサ市の下には十二の直轄県がある)の指導幹部では少数民族出身の者が七一パーセント、区以下の幹部になるとほとんどが
少数民族の出身である。

 チベット東南部のザユィ(察隅)県で、中国共産党ザユィ県委員会副書記の冉衛東同志に会った。かれはトンレン族の青年である。

 トンレン族は、この県に住むたった数百人しかいない民族である。かつてはチベットの三大領主に「野人」とみなされ、山奥に追われて、焼き畑農業をしながら原始的な生活を送っていた。夏は掘っ立て小屋に住み、冬は洞穴ですごす。一年の半分以上はワナで野獣を捕ったり、野性の果物、じねんじょ、野ネズミなどをさがしたりして生活の糧とした。野獣ですら自由に行き来できる肥沃な美しい谷間を、トンレン族の人びとは耕作できないばかりか、通行することさえ許されなかった。かれらは馬の鈴の昔を間くと、さっと森の中にかくれる。さもないと殴られるのだ。このような非人間的な生活は、トンレン族の人口を年々減少させていった。

 チベットの封建農奴制がくつがえされたので、絶望の淵にあったトンレン族は救われた。中国共産党ザユィ県委員会は、数回にわたって工作隊を派遣し、山の奥深くに住んでいるトンレン族を訪ねさせた。三大領主の反動支配がつくった民族間のあつれきのために、かれらは初めのうちはなかなか漢族の者に近づこうとしなかった。しかし、二年にわたるねぱり強い説得によって、山奥に分散していた百戸あまりのトンレン族は、しだいに用のほとりに移ってきた。政府は役畜、農機具、種子などを提供し、さらに人を派遣して荒地を耕し、用水路を掘り、木を伐って家の建築を手伝わせた。生産が発展するにつれて、トンレン族は新しい土居をはじめるようになったのである。

 農奴主に「山ざる」とののしられた少年冉衛東も、トンレン族の人ぴとといっしょに生まれ変わった・。共産党はかれを小学校に入れ、衛生員に育てあげ、幹部に抜てきした。漢族やチベット族の幹部は、かれを指導して毛主席の著作を学習させ、大胆に活動するようはげました。その後、さらにラサの労農幹部講習会に入って鍛えた。革命闘争の中でみるみる成長したかれは、一九七四年、現在の職務に抜てきされたのである。

 仕事熱心な冉衛東同志は、トンレン族の人びとに山奥から出てくるよう積極的にはたらきかけ、人民公社をつくりあげた。そして、わずか数年のうちに食糧の収穫高は何倍にもふえたのである。トンレン族の変化とかれ自身の成長にふれたとき、かれは感慨深げにこう語るのだった。

 「共産党の民族政策の輝かしい光に照らされてこそ、はじめてこのような移り変わりが起きたのですよ」

「草原の鷹」

 チベット北部の草原には、チベット族出身の幹部であるブトの業績をたたえる話が広く伝わっている。

 旧社会で、ブトは八歳のときから領主のために羊飼いをした。飢えと寒さに悩まされ通しだったので、顔色も悪くやせていた。二十歳になるまでに、牢屋に入れられたことが三回もあった。チベット解放後、かれは新しくできたバチェン(巴青)県紅旗林場の労働者になった。

 一九五九年、ダライ反動集団が反乱を起こしたとき、この休場は反乱分子にとりかこまれた。かれは、休場の仲間たちとともに防戦につとめた。夜、ブトは休場の責任者にたのまれた急をつげる手紙をふところに、解放軍の救援を求めに行った。しかし、残念にも途中で捕えられてしまった。

 反乱分子は、ブトをしぱりあげて一室にとじこめた。機密がもれては大変と、かれはふところの手紙を口で引っぱりだし、ムジャムジャと食べはじめた。だが、まだ飲みこまないうぢに、反乱分子に発見されてしまった。そして、休場にはどのくらい人がいるか、銃はどのくらいあるかなど、さんざんに拷問されたが、ブトは「おれの心は永久に共産党にあずけたんだ。おれの口を割らせようとしても無駄だぞ」と答えた。反乱分子どもは、かれを吊るしあげてムチでやたらに殴ったあと、馬に全速力でひきずりまわらせた。そして最後には本の台にしばりつけ、カギ状の金具で眼球をえぐり出し、煮えくりかえった油を眼窩にそそぎ込んだ(これは農奴主がよく用いた残虐な刑罰の一つである)。さすがのかれも、とうとう失神してしまった……。

 ブトが意識をとりもどしたとき、人民解放軍はすでに反乱分子を追いはらっていた。かれは生死の境から救われたのである。

 ブトは休場から故郷のバチェン県ラシ郷に帰った。「目は敵にえぐり取られたが、まだ耳があるから共産党のいうことを聞くことはできる。手があるから革命をやることもできる」といってのけたかれは、ラシ郷牧畜民協会の主任に選ばれ、その後郷長に推された。

 生活と仕事を人なみにやれるようにするため、ブトは積極的に自分を椴えた。はじめのうちは人にささえてもらいながら、歩数をかぞえて各家のテントに通じる道を覚えた。風の音や泉の水音も、みな方角を知るための「導き手」となった。しばらくすると、かれは完全に一人で歩きまわれるようになった。かれは自由の身となった牧畜民たちと親密な間柄にあり、全郷百八十三世帯のすべての家に、かれの足あとが残されている。

 プロレタリア文化大革命は、チベットの農村と牧畜地区に社会主義的改造の高まりをもたらし、人民公社づくりの運動を全チベット高原におしすすめた。ラシ郷の自由の身となった牧畜民たちも、熱烈な討論にふけった。「人民公社ができたら、もっとりっぱに郷土を改造して、牧畜地区を社会主義思想でしっかりと占領することができるんだ」と、牧畜民たちはつぎつぎにブトの家にやってきて、みんなといっしょに人民公社をつくるよう要望した。階級兄弟一人ひとりの願いには、共産党に対する信頼と、社会主義に対する情熱がこめられていることが、かれにはよく理解できた。ブトは答えた。「毛主席は以前から、社会主義だけが中国を救えるのだと教えてくれています。断固として人民公社をつくりましょう」と。それからというもの、ブトはテントからテントヘと歩きまわって、貧しい牧畜民たちと人民公社をつくることについての相談をした。

 このとき、ひとりの反動的な牧畜主は、人民公社など「長続きしない」とデマをとばした。それを牧畜民たちにすっぱぬかれると、やつは泥棒ネコのようにぴくびくして、家からこっそりと「復活帳」(やつの生産手段を、牧畜民のだれだれがどう分けたかを記した帳簿で、反攻・報復を意図したもの)を持ちだして山にかくしたが、これまた牧畜民たちに見破られてしまった。憤ったブトは牧畜民たちに付きそわれ、風雪を冒して山に行き、その「復活帳」を掘り出してきた。そして大衆集会を開いて、反動的な牧畜主の復活陰謀活動をあばき、大いに批判したのだった。

 一九七○年、ラシ人民公社が成立した。ブトはまた、夜を日についで生産隊の幹部や公社員たちと会議を開き、どのようにして人民公社を強化するかという問題について討議し、研究をかさねた。

 ブトはまた、草刈り、青ク\(ke1)の取り入れ、羊毛刈り、牧畜小屋づくり、家屋の新築など、すべての労働にカの及ぶ限り参加した。かれはいう――労働すればみんなから浮きあがることはないし、人民公社の集団経済の発展のためにも、いくらかはお役に立ちますからね、と。無理しないで下さい、と人びとにいわれると、かれはいつもこう答える。「いやあ、わしは目は見えないが、腕っぷしはがん丈なんだよ」

 ブトは片時もマルクス・レーニン主義や毛主席の著作を手離さず、大衆といっしょに学習するほか、折りをみては人に読んでもらうことにしている。

 現在、ブトはラシ人民公社の党支部書記である。牧畜民たちを指導して大いに努力した結果、昔の貧しい立ちおくれたラシ郷は急テンポでその姿を変えた。ブトはまた、中国共産党バチェン県委員会常務委員、ナッチュ(那曲)地区革命委員会委員でもある。広ぴろとした草原で、おのれを捨てて仕事に打ちこんでいるブトは、人びとから「草原の鷹」とほめたたえられている。

 チベット北部の草原では、空高くとびまわる鷹がよく目につく。そしてチベットの人びとは、好んで英雄的な人物を鷹にたとえる。それは、カゼをはめられた解放前の農奴たちが、自由自在に空をとぶ鷹をうらやみ、そのような自由を求めたところからきているのであろうか。それとも、どんな寒さをも恐れず、勇敢に突き進む鷹を賞賛しているのであろうか。

 十年ほど前、自由を得た百万の農奴がチベットの主人公になったのを見て、あきらめ切れない反動的農奴主は、政治の舞台に立ったばかりの少数民族の幹部をあしざまにののしった。「見ていろ。ツァンバ(前出。チベット族の主食)さえ満足に食えなかった貧乏人どもが、チベットを管理できるものか」と。だが現実は、チベット少数民族の幹部と人民大衆が自ら創造した業績、すなわち政治、経済、文化などの各分野で勝ちとった一つ一つの成果が証明している。かれらはチベットをりっぱに管理できたばかりでなく、さらに美しい未来へと導いてゆけるのである。


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