10.チベット族と漢族は家族も同様だ


 チベットの各地で、わたしたちは生まれ変わった農奴、漢族の労働者、幹部たちを大勢たずねた。そしてこの目で見、この耳で聞いているうちに、各民族の人びとが互いに信頼しあい、尊重しあい、互いに学ひあい、助けあうという新しい型の民族関係がすでに結ばれていることを、深い感動とともに知ったのである。

ある再会のものがたり

 ニンチ県で、わたしたちはチベット族のある婦人幹部に会った。かの女はチベット族の人なのに、康英という漢族の名前で呼ばれている。不思議に思って聞いてみると、それにはつぎのようなエピソードがあった。

 康英はもとの名をサンムーといい、四川省のチベット族居住地区の生まれである。父母はともに農奴だったが、農奴主の残轄な抑圧と搾取でとても生活してゆけなくなった。言い伝えによると、チベット東南のメドッ(墨脱)一帯は、いたるところに「牛乳の川」や「ツァンバの木」があって、きわめて豊かなところだという。そこで両親は家族みんなをひきつれて、こじきをしながらメドッに向かったのである。

 うわさのような「牛乳の川」や「ツァンバの木」こそなかったが、メドッの自然条件はたしかにすばらしく、一年中が春のようだった。にもかかわらず、ここもまた農奴主だけがぜいたく三昧な生活をして、農奴たちは飢餓の線上をさまよっているのだった。両親は夢を無残にやぶられ、やむをえず奴隷となって牛馬のようにこき使われた。小さなサンムーは、むりやり両親のもとから引きはなされてしまった。

 さて、漢族の貧農出身で、中国人民解放軍チベット駐屯部隊の隊員である康同玉は、一九五六年に工作隊をひきいてメドッにやってきて、大衆運動をおしすすめた。そしてサンムーとめぐり会うことになる。そのとき、かの女はまだ十二歳、小柄でやせこけた少女だった。ちょうど、北京の中央民族学院が新入生を募集していたので、康同玉はかの女に、もしその気があれば行かせてやるよ、といった。サンムーにとっては、まるで夢のようなことだった。かの女が勉強したがったことはいうまでもない。

 季節はもう冬だった。メドッはまだそれほど寒くはなかったが、北側の大きな山はもう大雪で、道もふさがれていた。康同玉はもう一人の兵士といっしょに、サンムーたち三人の子供を出向こうまで送ることにした。絶壁と深い谷にはさまれたせまい山道は、ものすごく歩きにくかった。すすめばすすむほど地勢は高くなり、寒さはつのり、降り積もる雪も深くなる。康同玉は自分の綿入れをぬいでサンムーに着せ、ときにはかの女を背負って歩き、まる一日かかってようやくその山を越えたのだった……。

 サンムーは中央民族学院に入った。生活のすべてを国が面倒みてくれるので、かの女はなんの心配もなく勉強に専念できた。数年後、卒業してニンチ県で働くことになった。かの女は新しい人生を歩ませてくれた共産党に深く感謝するとともに、自分を助けてくれた解放軍の同志をとてもなつかしく思った。かれのチベット名――ドンズーマーミイを覚えていたので、多くの人に聞いてみたり、あちこちに手紙で間い合わせてみたりしたが、どうしても探しだすことができなかった。

 康同玉はメドッでしばらく仕事をした後、チベットの別の土地に転勤した。一九五九年、かれはチベット族の戦友とともにダライ反動集団の反乱を平定する戦闘に参加し、重傷を負った。チベット族の人びとは真心をこめてかれを看護した。傷の癒えたかれは、中国人民解放軍ラサ軍医の司令部に転属した。

 一九六六年、ラサ軍医は中国共産党ニンチ県委員会と合同で青年幹部の講習会をひらき、康同玉がその仕事を担当した。ニンチ県委員会はチベット語の教師として、一人の婦人幹部を講習会に派遣してきた。それがサンムーだった。サンムーは康同玉に会って、なんとなく自分がずっと探している人に似ているような気がした。両びんがずい分白くなったが、これも苦しい戦闘に明け暮れる生活をかさねてきたためだろう。それにしても名前がちがう(かの女は、康同玉という本名を知らなかった)。かの女は康同玉の手をにぎり、たしかめるように聞いた。「あなたはメドッにいたことがありますか。ドンズーマーミィという……」この瞬間、康同玉も十年前のやせこけた小柄なあの少女の面影を思い出し、目の前の健康そうな若い婦人幹部とかさね合わせながら、感激的な叫び声をあげた。「あっ、サンムー、サンムーじやないか!」

 青年幹部講習会の仲間たちも、二人の再会を心から喜んでくれた。サンムーは、この漢族同志の助けで新しい人生がひらけたことを深く心に刻みつけておくために、現在の康英という名前に変えたのである。この講習会で働いているあいだに、かの女は中国共産党に人党した。その後、あるチベット族の幹部と結婚したが、かれらは康同玉とずっと親密な交際をつづけている。康同玉はまたかの女のために、長年はなればなれになっていた両親と兄を探しあててくれた。サンムーは現在、中国共産党ニンチ県革命委員会常務委員、県婦女連合会主任である。

あるチベット族幹部の感想

 チベット族、漢族およびその他の諸民族は、偉大な祖国を創造し発展させる長い歴史の中で、きわめて親密な関係をたもってきた。しかし解放前の数百年にわたって、清朝政府や国民党反動政府が民族を抑圧分離する政策をとったため、帝国主義は必死になって、チベットを中国から分割しようと挑発した。チベット族と漢族の不和も、こうしてつくられたのである。

 解放後、毛主席のかがやかしい民族政策にみちぴかれて、チベット族と漢族の関係は新しい一ぺ−ジをひらいた。中国の憲法にはつぎのように規定されている。「中華人民共和国は統一された多民族国家である」。「各民族は一律に平等である。……大民族主義と地方民族主義に反対する」

 何人かのチベット族の同志が、チベット族と漢族との関係の変化についての深い体得をわたしたちに話してくれた。

 中国共産党ホカ地区委員会の書記ミィマーワンドイは語る。解放当初、かれがまだ農奴主の奴隷だったとき、今度やってきた人民解放軍と工作員は「旧漢人」(国民党反動派)とちがい、チベット族人民に好意を丹ち、農奴のことをとても心配してくれている、という話が奴隷たちのあいだに伝わった。そのときは、多くの人がまだ解放軍や工作員に一度も会ったことがないのに、かれらのことを話しあうときは、みな大喜びで「新漢人」と呼ぷのだった。

 一九五六年に革命の仕事についてから、ミイマーワンドイはいつもチベット駐在の漢族幹部たちといっしょに、マルクス・レーニン主義と毛主席の著作を学習した。そして「旧漢人」と「新漢人」とはなぜちがうのか、民族闘争と階級闘争とはどういう関係にあるか、などの問題がだんだんわかるようになった。

 かれは語る。マルクス、エンゲルスがいったように、「一個人が他の個人を搾取することがなくなれば、それに応じて一民族が他の民族を搾取することもなくなる。一民族の内部の階級対立がなくなれば、民族と民族とのあいだの敵対関係もまたなくなる」(『共産党宣言』)のだし、毛主席も「民族闘争は、つきつめていえば、階級闘争の問題である」と指摘している。民族抑圧や民族差別は、生産手段私有制を土台とする搾取階級と搾取制度の産物なのである。個中国の支配者国民党反動派は、地主、資本家、官僚買弁ら搾取階級の利益を代表して漢民族の勤労人民を抑圧する一方、少数民族の中の搾取階級と結託して少数民族の勤労人民を抑圧した。新中国が搾取制度をとりのぞいた。中央人民政府は、中国のプロレタリア階級と各民族の広はんな勤労人民の利益を代表しているので、民族間の平等と団結の政策を実施できるのである。

 ミイマーワンドイは話をつづける。階級社会では、人間はそれぞれちがう階級に属している。チベット族と漢族とは民族こそちがうが、両民族人民の階級的地位は同じである。かれらはみな搾取され、抑圧された共通の過去を持ち、いまは社会主義を建設し、やがては共産主義を実現させるという革命的な共通の要求と目標を持っている。だからこそ、今日のチベット族と漢族の人民は、いまだかつてない大団結を実現できたのである。

 ミイマーワンドイは一人の漢族幹部との友情を回想して語る。一九五九年、かれは封建農奴制をくつがえすためにつくられだ農奴支援の工作組に参加した。仕事をはじめる前に、まず工作組の内部で階級教育を受けることになり、ミイマーワンドイが搾取階級の罪悪を訴えた。かれの家は先祖代々農奴主にこきつかわれたかじ屋で、旧チベットでも一番地位が低く、人には軽蔑され、農奴主からは「黒い骨」と呼ぱれていたのである。一人の漢族幹部も八解放前に地主の雇い男だった悲惨な過去を紹介した。ミイマーワンドイとこの漢族幹部とは初対面だったが、二人の心は通いあって貴い友だちになった。当時のミイマーワンドイは、反動農奴主に対する恨みで胸はいっぱいなのだが、いかに仕事をすすめたらよいかはわからなかった。かれはその漢族幹部に、大衆路線のあゆみ方や、貧農や雇農を動員して地主とたたかった故郷での経験を教えてもらった。二人はチベットの民主改革の任務や要点にもとづいて計画をねり、反動農奴主との闘争をくりひろげた。民主改革の全過程でも、かれらはずっといっしょに仕事をしたのだった。民主改革が終わってからしぱらくの間、ミイマーワンドイはその地区の 区長をつとめ、その漢族幹部は区委員会の書記になった。

 ミィマーワンドィは、「チベット人民が革命と建設をすすめるにあたって、中央人民政府と沿海地区の諸省、市および各兄弟民族から、ずいぶん多くの援助をうけました」と語った。

 一九六○年以降、チベット自治区に対する中央からの財政補助は全自治区財政収入の大部分を占め、中央がチベット地区に調達した食糧は、全地区の食糧総供給量の三○パーセントを占めている。

 中央人民政府は、チベット地区での徴税を滅らし、生産があがっても増税しない政策をとっている。一九五九年の民主改革以来、チベットの農業生産は大幅に増えたが、農業税の徴収は一九六一年の六・七パーセントから、現在の四・五パーセント前後に下げられている。牧畜税も、羊一頭当たり年にたった百五十グラムの羊毛を納めれぱよいのである。

 こうして徴収したわずかな税金も、すべて人民のために便われる。一九六○年以来、国が直接チベット地区の水利建設、文化、教育、衛生、家畜の防疫などに投資した金額、および種々の救済などに支出した金額は、全地区の人民が納めた税金の四倍を上回っている。チベット地区に人民公社をつくるために国が出資した基金だけでも、全地区の農民、牧畜民が十四年間(一九六○〜ー九七三年)にわたって納めた税金総額の半分以上に相当する。

 近隣の諸省や市から、たくさんの労働者、技師、教員、医療関係者がやってきて、一刻もはやく旧社会の残りかすを一掃しようと、チベット族人民を援助している。チベット族と漢族の人民は、新しいチベットを建設する中で、兄弟のように固く結ばれたのである。

兄弟のような二人

 ラサ北部ダムション(当雄)県で、わたしたちは二人のザーシー、県委員会青記のザーシーピンツォと副書記のゴン・ザーシーに会った。かれらは仲良く団結して、助けあい、励ましあいながら全県の仕事を指導している。ザーシーピンツォは県の仕事を全面的に把握している。ゴン・ザーシーは一つのところに長くとどまって、その土地の情況を調ぺたり、実地に経験をつんだりする。そしてザーシーピンツォと相談し、それを全県に効果的に広める。おかげで、全県の農業、牧畜業の生産は年ごとに高まってきた。かれら二人の革命的友情を、人びとは「まるで兄弟のようだ」とたたえている。

 だが実のところ、一人はチベット族、もう一人は漢族なのである。

 ゴン・ザーシーは本名をナヌ(gong1)達希といい、上海の人である。一九五九年、獣医の仕事を志願してチベットヘやってきた。文化大革命中にダンション県の人びとから県革命委員会の副主任に惟され、二年前から現職に替わったのである。わたしたちはかれの案内で草原に行ってみた。牧畜民たちはかれの顔をよく知っていて、みんな親しげに声をかけてくる。かれは流暢なチベット語で、思いのままに牧畜民と語りあうのだった。かれは県委員会の副書記でありながら、いついかなるところでも薬箱を手ばなさないので、牛や羊にとってはまさに救いの神。このあたりの人びとはみな、かれのことを「ゴン・ザーシー」と親しげに呼ぶ。ザーシーは、チベット語で縁起のよいこと、すぱらしいことの意味である。チベット族のザーシーピンツォは貧しい家に生まれ、幼いときから領主の召使いになった。一九五二年、中国人民解放軍に入隊したかれは、その後、覚の指名で北京の中央民族学院に学んだ。卒業後はチベットにもどり、反乱平定、民主改革、文化大革命に参加した。こうして革命闘争の嵐の中で鍛えられ、かれは次第に党の指導幹部に成長したのである。

 この二人のザーシーのような、チベット族人民と漢族人民の親密な間柄を反映するエピソードは枚挙にいとまがない。わたしたち自身にも、実は次のような忘れがたい経験がある。

 ラサを出発したわたしたちは一路南へ向かい、ヤルンズアンボ江を渡って、曲がりくねるヤムゾユムツォ(羊卓ケl(yong1)錯)潮の岸沿いにすすんだ。先へ行くにつれて山は高くなり、奇岩が林立して、道はひじょうに険しくなった。それでも、わたしたちはチベット族の青年幹部ツーレンの案内で、ヒマラヤ山脈中のロザッ(洛札)県を訪れることができた。道案内と通訳を兼ねるかれは、道中ずっとわたしたちの面倒をみてくれた。一つのところに着くと、たちどころに宿と食事の問題を解決してくれるのだった。また、ロザッ県のことならなんでも知っているので、山や用、村や畑を指さしながら、地元の美しい伝説や、新しい田園をつくった人びとの物語も話してくれた。それはわたしたちの旅行におもむきをそえ、チベット族の人びとに対するわたしたちの理解を深めさせたのだった。

 チュイシュー郷で、わたしたちはあるチベット族の小母さんの家に泊まった。小ぢんまりとしたよい家だった。かの女は、おいしい酥油茶とあたたかい御飯やおかずでわたしたちをもてなし、とても寝心地のよいチベット風の敷物の上に体ませてくれた。その晩はまるでわが家に帰ったような気分でぐっすり眠ったので、一日の旅のつかれなどどこかへ吹っ飛んでしまった。あくる朝、目をさますと、なんと小母さんは廊下に寝ていて、白い髪に粉雪がぱらついているではないか。わたしたちは恥ずかしいやら済まないやらで、胸がいっぱいになった。わたしたちの気持ちを察して、ツーレンくんが説明してくれた。「小母さんはいつも、往来する解放軍や漢族の幹部たちを自分の家に沼まらせ、自分は廊下で寝るんです。かの女にとって解放軍と幹部は、毛主席が派遣してくれた親戚のようなものですからね」


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