1.北京からラサヘ


 わたしたちは中国民航の定期便で、北京からチベット(西蔵)自治区の首府ラサ(拉薩)ヘと向かった。

 一九五一年、毛主席のプロレタリア革命路線の指導のもとに、チベットは平和的に解放をむかえた。一九五九年、祖国にそむくダライー味の武装反乱が平定されるや、すぐさま封建農奴制を一掃する民主改革が実施され、一九六五年にはチベット自治区が成立した。一九六六年からは、全国の他の地区と同様に、チベットでもプロレタリア文化大革命がくりひろげられた。民主改革から今日までの十数年間に、チベットはきわめて大きな変化をとげ、封建農奴制の社会から一足飛びに、活気にあふれた繁栄する社会主義社会に入ったのである。

「世界の屋根」を飛ぶ

 途中で着陸した四川省の成都空港を飛び立つと、機は西へ西へと飛びつづける。一時間ほどたつと、窓にへばりつくようにして見おろすわたしたちの目に、美しい峰々の間をくねくねと伸びる茶褐色の帯のような流れが見えた。「金沙江です」とスチュワーデスが教えてくれる。金沙江を越えれば、いよいよチベットだ。機は徐々に高度をあげ、高度計の針は八千五百メートルを指している。ふたたび下界をながめると景色はまさに一変していた。山という山は氷雪におおわれ、雲海が波うっている。谷間にある森林や潮水が、雲の切れ間からときおり顔をのぞかせる。このあたりの由なみは標高大、七千メートルもあるのだが、「世界の屋根」とは確かにうまく名づけたものだと、いまさらながら感心させられた。

 面積百二十万平方キロ(全国総面積の八分の一)のチベットは、ヒマラヤ(喜馬拉雅)山脈、クンルン(崑帯)山脈、ダングラ(唐古拉)山脈にかこまれ、平均標高四千メートル以上である。

 チベットの地形は、およそ四つに分けられる。

 北部の広びろとした高原。平均四千五百メートルを越える高地で、自治区総面積の三分の二を占める。土地は平坦で、ゆるやかな丘陵の間には多くの盆地があり、ゆたかに生い茂った牧草に恵まれて、すばらしい天然の牧場になっている。

 南部にあるヤルンズァンボ(雅魯蔵布)江流域の谷間。ここは平均四千メートル以下で、見渡すかぎり肥沃な渓谷や平原がつづき、チベットの主要な農業地帯となっている。

 谷間の南に延々と連なるヒマラヤ山脈。平均六千メートル以上で、その主峰が標高八千八百四十八メートル、世界最高のチョモランマ(珠穆朗瑪)峰である。一九七五年五月二十七日、中国の登山隊員(女子隊員一名をふくむ)は、一九六○年につづいて北壁からの再登頂に成功した。

 チベット東部の高山、峡谷。ここには、けわしい山々と激流が南北に走り、山頂と谷底の標高差は二千五百メートルにも達する。頂上には万年雪が輝き、中腹には原始林が生い茂り、ふもとには四季の別なくみどりの田園が広がって、東部峡谷独特の風景をかたちづくっている。

「北京に通じる黄金の橋」

 けわしい山々に阻まれて、チベットの交通は長い間閉ざされていた。解放前、チベットと近隣諸省との連絡はすべて騾馬とヤクにたより、曲がりくねった山道を往来したものである。これらの道には、四季を通じて雪や氷におおわれた高山や河川がよこたわっているので、チベットのラサから、東隣にある四川省の成都までひと往復するのに一年もかかったという。解放後の一九五四年になって、成都からラサまでの四川・チベット自動車道路と、西寧からラサまでの青海・チベット自動車道路が同時に建設された。いずれも片道十日間くらいの行程である。一九五七年、カルギリク(葉城)からガルヤルサ(鳴爾雅沙)までの新疆・チベット自動車道路が開通したが、この片道はせいぜい五、六日である。一九七四年には、雲南からチペソトまでの自動車道路も開通した。

 以前、天候の変化がはげしいために、チベット高原は「飛行禁止区域」とされていた。しかし一九六五年、新中国の航空関係者はなにものをも恐れない精神を発揮して、たび重なる困難をのりこえ、ついに北京から成都を経由してラサに至る航空路をきりひらいた。十年後の一九七五年には、甘粛省の蘭州からラサまでの航路も開設された。

 これらの航路の開設によって、近隣諸省との連絡がひじょうに便利になったばかりでなく、祖国の首都――北京とチベットとはしっかり結ばれたのである。

 近隣諸省までの道が遠くけわしいため、広はんなチベット人民は長い間交通難に悩まされてきた。かれらは「激流をまたぎ、雪山を乗り越える虹のような黄金の橋を空にかけて、まっすぐに北京まで行けたらなあ」と、奇跡の出現を夢みていた。その美しい夢が、いままさに実現されたのである。

 近くの座席に、チベット族の乗客が数人いた。しばらく話し合っているうちに、わたしたちはいろいろなことを知ることができた。かれらのうちの何人かはチベット族の労働者出身の大学生で、三年の在学期間中も、所属工場からもとと同じ給料をもらいながら、北京や重慶の大学で勉強している。いまは休暇で故郷に帰るところだが、その旅費も政府が支払ってくれるのだという。ほかに、四川省の音楽学院を卒業したばかりの女性が二人いた。かの女たちはチベット劇団の団員で、一人はヤンチン、もう一人はズオガといい、家族はみなラサにいる。やすみなくしゃべり、ときにはドッと笑ったりするのを見ていると、若い人たちが身軽な旅をどれだけ楽しんでいるかがうかがえて、ほおえましかった。

 ふと気がつくと、機はブルブルッと機体をゆすってスピードを落とし、翼が両側の山にぶつかりはしないかと思われるほどの峡谷に入って行った。下には、西から東へすさまじい勢いで流れる大河が見える。有名なヤルンズァンボ江である。

 北京からラサまでの三千キロを三時間あまりで飛び、機は無事ラサ空港に着陸したのであった。


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