3.旧社会の復活は許せない


 わたしたちは八角街での批林批孔大衆集会に参加した。発言者の一人、ツレンヤンツォンおばあさんは悲しみと憤りをこめて、つぎのような話をした。

 一九四八年秋のある日、十二歳になる息子のプブが出かけたっきり帰ってこない。まんじりともせずに一夜を明かしたかの女と夫は、明くる日、まだ夜の明けきらないうちからあちこち探したが、どこにも見あたらなかった。人のうわさによると、昨日、町にやって来たチベット反動政府の気ちがいじみた兵隊が、何人かの子供をつかまえて殴ったりけったりしたあげく、郎子轄(ラサの地方政府)に引っぱって行ったという。そこで二人はすぐに郎子轄にかけつけて、プブに会わせてくれと頼んだ。ところが、会わせてもらえないぱかりか、人殺しの鬼どもにさんざん殴られたあげく、追い出されてしまった。聞くところによると、それから八日後、子供たちは供物の代わりに殺されたという。ダライは読経のたびに大勢の生きた人間を殺し、その頭、血、心臓、肉を生けにえとしてそなえるのだ。その年はちょうど全国解放の直前だったので、ダライはラサの広場でお経をあげ、中国革命と中国共産党を呪った。こうした荒唐無稽な反革命的行為で、人民解放軍の進軍を阻むことができないことはいうまでもないが、そのために多くの農奴たちが無残な仕打ちをうけたのである。このとき、郎子轄に連れて いかれたなんの罪もない青少年は三十六人、そのうち二十一人が殺されたが、プブもその中の一人だった。

 「あのときはもう、家中のものが狂わんぱかりでした。プブが殺されてまもなく、夫は悲しみのあまり病死しました。ダライは、わたしたち一家から二人の命を奪ったのです」

 ツレンヤンツォンばあさんはこう訴え、さらに言葉をつづけるのだった。

 「林彪は『己れに克ちて礼に復る』という孔子の言葉をいいふらして、全中国に資本主義を復活させようとしました。これをチベットの実情におきかえれぱ、ダライの暗黒な支配を復活させ、わたしたちをふたたび奴隷にさせようということです。そんなこと、わたしたちは絶対に許せません」

 人びとは怒りにもえ、こぶしを突き上げて叫んだ。

 「封建農奴制の復活を許すな!」

 その後、わたしたちはラサの「チベット革命展覧館」を参観した。そこに展示されている大量の実物、写真、数字は、チベットの人びとがどうしてこんなにも封建農奴制を恨んでいるのかを、わたしたちによく理解させてくれたのである。

骨の髄までしぼりとる搾取

 チベットは領主荘園制の農奴社会であった。チベット人の五パーセントくらいの農奴主(その代理人を含む)が、すべての土地と山林、それにほとんどの牧畜を占有し、九五パーセント以上の広はんな農奴と奴隷たちには、猫のひたいほどの土地さえなかったのである。

 チベットには三種類の農奴主がいた。つまり、貴族、地方政府、寺院の「三大領主」である。貴族は各地に荘園と園林を有しており、地方政府は直接上地を占有するだけでなく、土地を与えたり没収したりする権力もにぎっており、寺院もまた自らの荘園を持っていたのである。政府と寺院の所有する土地は、どちらも貴族の領地を上回っていた。

 しかし実際には、旧チベットのすべてが、勢力の強い二、三百の世襲貴族によって支配されていた。これらの貴族たちは荘園主であるとともに、それぞれ地方政府の上層僧侶官吏、または寺院の上層ラマをかねており、旧チベットの政治、軍事、経済、宗教などの権力をにぎっていたからである。ダライはこのような「社会のピラミッド」の頂点に立ち、三つの「職」をかねていた。即ち政治、宗教上の最高支配者であるとともに、もっとも大きな農奴主でもあったのである。

 農奴は土地を持っていないだけでなく、本人はもとよりその子供までも、農奴主の所有物とされていた。かれらは農奴主の土地にしぱりつけられ、政治的な権利はもちろん、人間としての最低の自由さえなかった。農奴主にいわせれば、農奴は思うがままに売買、交換、贈与することのできる単なる「口をきく家畜」にすぎなかったのである。

 農奴主は、七○パーセントの土地(ほとんどが肥沃な土地)を自分で経営し、残る三○パーセントの土地(もちろんやせた土地)を農奴たちに分け与えて耕させていた。農奴主は、自分で経営する土地からのあがりはすべて自分のものにするが、耕作にはまったく従事しない。耕作に必要な労働力、畜力は、すべて土地を分けてやった農奴たちに提供させるのである。この種の無償の労働を交差という。交差の範囲はひじょうに広く、家屋の建築や修理、薪とり、水運ぴ、子守り、炊事など、非生産的な労働のすべてがふくまれていた。このほかに、農奴は分けてもらった土地の収穫の七○パーセントを農奴主に納めなければならないのだ。このようにして、汗水ながして働いても毎年の収穫のほとんどは農奴主にとられてしまい、農奴はのこったわずかなもので食うや食わずの生活をしていたのである。

 農奴たちには、さらに地方政府への交差もあった。これには「兵役差」(兵員と糧食を提供する)、「脚差」(労力と畜力を提供して地方政府の貨物輸送や建築などにあたる)、「手差」(地方政府と役人に青ク\(ke1)、バター、薪などを納める)などがある。

 「ウーラ」は支差の中でももっとも代表的なもので、そのために一家離散のうき目を見た農奴はたくさんいる。役人が村落にやってくるたぴに、無償で人力、畜力、食事、宿舎などを提供させられるのがそれである。役人どもは、馬、まぐさ、敷物、テント、机、青ク\(ke1)、牛や羊の肉、酥油茶などを要求する。つまりほしがらないものは無いわけで、はなはだしきにいたっては若い娘まで要求するのだった。出発するときには、農奴は四つんばいになり、背中を踏み台にして役人を馬に乗せる。役人がムチをふりあげて馬を走らせると、今度はそのあとを追って必死に走る。

 これは旧チベット時代の街道でよく見られる光景であった。凍てつくような雪野原であろうと、高山や激流であろうと、はたまた病気であろうとなかろうと、農奴は馬を追って走らなければならない。そうしなければ、かけがえのない自分の馬をふたたび探しあてることができなくなってしまうからである。

 苛酷な税金は、農奴主が農奴を搾取するもう一つの手段である。農奴主は自らの欲望にしたがってたくみに名目をたて、農奴からさまざまな税金を取りたてた。たとえばこんな具合である。農奴に赤ん坊が生まれると、農奴主はその子の名前を戸籍に記入して、人生第一回目の税金、「誕生税」を取りたてる。それからはほぼ毎年、両親に「子供税」を納めさせる。満十八歳になると、今度は成人税としての「人頭税」に切りかえられる。嫁をもらったり、嫁に行ったりするときも、農奴主にハダ(敬意をあらわす白絹布)、バター、銀貨などを献上し、その同意をえてはじめて夫婦になれる。これは「結婚税」だ。たとえ着物一枚、靴一足でも新しく買うときには、税金を納めなければならなかった。農奴主の法令を犯して監獄に入れられた場合は、今度は政府に「入獄税」を納めなければならない。地方政府はチベット軍を拡充するために、農奴から「耳たぶ税」を取りたてる。もし農奴がその税金をはらわなかったら、税務役人には耳を切りおとす権利があった。還暦をむかえ、体力もおとろえて労役に行けなくなると、お次は毎年のように「労役免除税」を納めさせられる。農奴は、死んでも税金から 逃れることはできなかった。その家族が死者のイヤリング(旧チベット人の装飾品。だが、ほとんどの農奴はとても買うことができなかった)を農奴主に納めるか、または「埋葬税」を納めるのである。

 チベットの農奴主(ダライもふくめて)で、高利貸しをしないものはなかった。貴族の荘園、寺院、各級の地方政府にはみな高利貸し専門の機構があり、専業の係員もいた。旧チベット地方政府の歳入のうち、一○パーセント以上が高利貸し業によるものである。もっとも一般的なのは種もみの貸借で、ふつう春に借りて秋に返す。期間はたったの半年だが、利息は高く、五を借りたら六、四を借りたら五にして返さなければならない。なかには、一を借りて二を返すというのもあった。借りを返せない場合には、利息が利息を生み、債務は雪だるまのようにふえてゆく。高利貸しは落とし穴のようなもので、ひとたび落ちこんだら、もはやぬけ出すことができない。債務者が死んだ場合は、家族や子孫が返済しなければならない。これは「子孫債」と呼ばれている。一九五九年の民主改革のさい、チベットには、債務をもたない農奴の村落など、一つとしてなかったのである。

 チベットの寺院は単なる宗教組織ではなく、農奴を搾取するための機構でもあった。そして労役や税金の取り立てにしても、また高利貸しにしても、地方政府の役人や貴族よりさらに冷酷だった。

 寺院内部の階級の区別ははっきりしており、等級の差別もきぴしかった。少数の上層ラマは経済の実権をにぎっているだけでなく、荘園や園林をたくさん私有していたので、自分は働かずにぜいたく三昧の暮らしをし、はなはだしきは寝起きの世話まで人をあごで使っていた。ところが大多数の貧しいラマたちは、社会的地位も生活状況もまるでちがっていた。かれらのほとんどは労役や債務から逃れて、生きる道を求めにやってきたものである。ダライは「一家に男が三人いたら、一人は必ず僧侶の労役につかなければならない」という規定をつくった。ラサ西郊にあるズェブァン(哲蚌)寺に、ジャスワンデンという名のラマがいた。かれは九歳のときに寺に入り、以来五十三年間も労役にこき使われた。水汲み、掃除、薪とり、放牧などなんでもやらされ、どんなにまじめに勘いていても、皮のムチは雨あられと降りそそいでくるのだった。ある日、ついうっかりしてカメを一つこわしたために、さんざん殴られて不具者になってしまった。

 一九五九年、かれはすでに六十を越えていたが、あいかわらず赤貧洗うがごときありさまだった。こうした非人間的な生活にたえかねて、解放前のズェブァン寺からは、毎年二、三百人にものぼる貧しいラマが生命の危険をおかして逃亡したのである。

 まさにエンゲルスが指摘している通り、「聖職者の中にはまったくちがうニつの階級があった」(『ドイツ農民戦争』より)のである。率直にいえば、上層ラマはけさを着た農奴主で、貧しいラマはけさを着た農奴、または奴隷なのであった。

 三大領主は、いったい農奴からどれだけの財貨をうばい取ったのか。それははかり知れないほどである。一九五九年、ダーロンツア荘園での調査によると、この荘園には農奴と奴隷が六十七人いた。土地は九十六ヘクタール、食糧の年平均収穫高は五千六百七十キロだが、そのうち四千八百キロが荘園主に取りあげられる。これは総生産高の八六パーセントに当たる。このほかに、農奴と奴隷たちはなお荘園主のために労役に服し、苛酷な税金を納め、高利貸しの搾取に苦しめられなければならなかった。

 つづいて、農奴主の頭目であるダライ本人の資料を調べてみた。ダライー家は荘園二十七ヵ所、牧場三十六ヵ所、農奴六千百七十人、家事用奴隷百二人を持っていた。この一家がチベット人民の血と汗からしぼり取った富は、湯水のように使い果たしたものと、一九四九年と一九五九年にこっそりインドに運んだ大量の財宝をのぞき、人民政府に没収されたものだけでも、黄金十六万三百二十八両、白銀九万五千両、宝石や石器二万三百三十一点、衣服一万四千六百七十六点にのぼっている。

暗黒な支配

 旧チベットの「政教合一」という支配制度のポイントは、農奴に対する農奴主の独裁にある。

 そしてあの野蛮な鎮圧は、残酷な搾取を守りつづけるためであった。地方政府が軍隊や監獄をもっているのはもちろんだが、どこの荘園や寺院でも自らの銃器や牢獄をそなえていた。農奴主およびその代理人は、ほしいままに農奴をムチ打ち、鼻をそぎ、目をえぐり、手足を切りおとし、はては殺すことさえできたのである。チベット革命展覧館には、各地から集められたいろいろな刑具、それらの刑具ではぎ取られた老人や子供の皮ふ、切りおとされた首、生き埋めにされた遺骨、煮えたぎる油なべに入れられた手などが陳列されている。また経堂から集められたさまざまな「法器」――少女の足の骨で作ったラッパ、人間の皮ふを頭蓋骨に張った小太鼓、百八人の頭蓋骨で作られたダライの数珠なども見ることができる。

 わたしたちは、八角街にある郎子轄も見学した。解放前、ここは大きな拷問室であり、刑場であった。そこには世襲の拷問役人がたくさんおり、五十数種類もの刑具がそなえられていた。その中の一つに、石で作られたひじょうに重い帽子がある。これを受刑者の頭にかぶせて、眼球がとび出すまで大きな石でなぐりつけ、するどいカギ状の金具でえぐり取るのである。そのころ郎子轄で牛の角笛が鳴ると、それは農奴の死刑執行の宣告を意味していた。見せしめのために、腹を切りひらかれ、八角街をひとまわりしてから殺されるものもいたし、真っ赤に焼かれた銅製の馬にくくりつけられ、八角街を三回まわってから殺されるものもいた。

 ラサには「サソリの穴」が二つあった。一つは八角街に、もう一つはポタラ宮のとなりにである。民主改革前には、たくさんの農奴がサソリのうごめく穴に投げ入れられて、無惨に殺されたのであった。

 解放前のチベット地方政府には、農奴制の反動的な本質をあますところなくしめす法典があるが、それはこれまで述べてきたような各種の残酷な刑罰を、文字によって傍証してくれるようなものである。この法典は血統の貴賎、職業のちがいにもとづいて、人間を三等、九級に分けている。貴族、大ラマ、上級官吏が「上等人」、ふつうの僧侶や役人、軍の下級将校、それに地方政府、寺院、貴族などの荘園の代理人が「中等人」、農奴と奴隷が「下等人」である。法典はこう規定している。下のものが上に逆らった場合は、目をえぐり取る、足を切りおとす、舌を切る、手を切りおとす、崖から突きおとす、水中に投げこむなどの極刑に処するか、またはただちに殺すこと。下等人の生命はわらなわ一本の値うちしかなく、たとえ迫害を受けても無実を訴える権利はない。妻や娘が「旦那」に強姦されている現場を目撃した場合、その下等人は目をえぐり取られなければならないこと。

闘争の歴史

 残酷な政治的圧迫と経済的搾取のもとで、農奴たちは牛馬にもおとる生活を送るほかなかった。農業や牧畜業の生産は長期にわたって停滞しつづけ、文化事業、衛生事業がたちおくれていたこともいうまでもない。農奴の大量な死亡と逃亡、さらに疾病の蔓延のため、人口も大幅に減少した。一七六三年から一七九五年までの統計では二百万もあったチベット(現在の昌都地区を含まない)の人口が、一九五九年の民主改革の時点では八十七万になっていた。一世紀半のあいだに、チベットの人口は半数以下に減ってしまったのである。

 圧迫のあるところには反抗がある。チベットの農奴主の支配がこの上なく残酷だったにもかかわらず、広はんな農奴たちの胸に燃えさかる憎しみの烈火は、活火山のようにいつでも爆発する状態にあった。一九○八年から一九五一年までの半世紀たらずのうちに、チベットでは百回近くの農奴の暴動が起きている。一九一九年、チベット北部のある宗(県に相当する)では、地方政府の抑圧と搾取にたまりかねた百五十戸あまりの農奴が暴動を起こし、宗政府を襲って宗本(県長に相当する役人)をしめ殺した上、守備軍をもさんざんな目に合わせて追いちらした。その後、地方政府は何年たっても、その宗に宗本を派遣しようとはしなかったという。しかし、歴史的な限界があって、農奴の蜂起が農奴主の支配を根底からくつがえすことはなかった。中国共産党の指導のもとで、チベット人民ははじめて、この偉大な歴史的事業をやりとげることができたのである。


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