6.「天命」よりも革命


 旧チベット時代、反動的な農奴主階級は自らの支配を維持するために、軍隊、法典、残酷な刑罰で勤労人民を抑圧する一方、「天命」を中心とするさまざまな迷信思想、たちおくれた風俗習慣をけん命に宣伝することによって、勤労人民をだまし、麻痺させていた。数千年にわたって、「天命」観ば人びとの脳裏に深くきざみこまれ、思想を束縛してきたのである。人びとは「神」の支配に任せ、「神」のご加護をたよって、現世の苦しみに耐え、「来世」の幸福に幻想をいだいた。いまでは、自由の身となった農奴たちは唯物論を学ぴ、「天命」観を批判して、思想も大いに解放された。農業は大秦に学ぶ運動の中で、かれらは「天命」を恐れず、階級の敵とたたかい、天とたたかい、地とたたかい、伝統的観念とたたかって、「来世の極楽」などという幻想をすて、現実に幸福な生活をつくりあげている。

 チベット溝在中、わたしたちはチベット族の人びとから、こういう言葉をよく耳にした。「民主改革のとき、われわれは封建農奴制のくさりを打ちくだいて解放されたのですが、文化大革命と批林批孔運動で、さらに「天命」観という精神的なくさりを打ちくだいたため、もう一度解放されたような気がしますよ」

「革命平原」の由来

 わたしたちはラサから車で南に向かった。沿道は由また山だが、村落の近くでは並木が生い茂り、畑からは青ク\(ke1)の香りがただよってくる。ヤルンズアンボ江を渡り、大きな山を二つ越えるとヒマラヤ山地区に着く。ここは、チベット農業の大寨に学ぶすぐれた典型――レーマイ人民公社の所在地である。

 レーマイの人びとが誇る成果の一つは「革命平原」で、山上の荒れ地を畑に開墾したことだ。

 奴隷出身の公社党委員会書記レンズンワンジェ(かれはまた自治区労委員会常務委員で、第四角全国人民代表大会の代表でもある)が、「革命平原」造成のいきさつを話してくれた。

 レーマイはもともと山は高く、谷は深く、土地は少なく、食糧も水も牧草も欠乏した貧しいところで、耕地面積は一人当たり十二、三アールそこそこだった。民主改革後、互助組ができて荒れ地をいくばくか開墾したが、農地不足の問題を根本的に解決することはできなかった。レーマイ郷の中ほど海抜四千二百メートルのところに、サンチェン平原と呼ばれる一面の荒れ地がある。地勢が高くて寒いし、石ころも多いところだが、南向きだから日照時間が長く、土質も比較的よい。北側の山上には水源があり、地勢はサンチェン平原より高いので、山肌に用水路をつくって、そこの水を引きさえすれぱ、荒れはてた平原を肥沃な農地に変えることができる。そのためには、農民の集団の力を発揮しなければならない。一九六六年、「農業は大寨に学ぼう」という毛主席の呼びかけのもとに、党支部は大衆の要求に応えて、人民公社設立の気運をもりあげる一方、大乗に学んで荒れ地の開墾と用水路開さくの準備をはじめた。

 ものごとは、いつも順風に帆を上げるようにはいかない。打倒された農奴主は悪知恵をはたらかして、大きな鋼の鍋を意味する「サンチェン平原」を、仏を思味する「サンギェ平原」と呼び変え、「この荒れ地を開墾すると神仏のきげんをそこねることになるから、わざわいがつぎつぎに起こるぞ」とデマをとばした。

 レーマイの勤労人民は、自分自身の経験から「神権」だの「天命」だのがなにを意味するか、よく分かっている。解放前、ダライは「わしはチベット唯一の神として、天の命令で百万の農奴を統治しているのだ。これは天の意志なのだから、もし農奴がこれにそむいたら死後はかならず地獄行きだぞ」といいふらした。実のところ、封建農奴制下の旧チベットこそ、広はんな農奴たちにとっての地獄だった。民主改革前の五十年間に、百八十数戸しかなかったレーマイ郷だけでも、五十五人が抑圧にたまりかねて村を逃げだし、十八人が農奴主のムチや刀剣で殺され、二十八人が餓死したのである。一九五九年、ダライ反動集団の反乱が平定されると、レーマイの人びとはチベットの他の地区の人民と同じように、共産党の指導のもとで農奴制を廃止し、しだいに生活を改善していった。かれらには、「天命」が人をペテンにかける言葉だということが、誰よりもよく分かっている。

 しかし階級敵は、またも「天命」論をまきちらし、人びとの頭に残っている古い思想を利用して妨害しようとした。党支部は階級敵のデマをあばき出し、百人以上の人を動員して平原に行き、荒れ地の開墾と用水路の建設にとりかかった。

 荒れ果てた石ころだらけの平原は、気候が寒いから、土も凍っていた。かれらはツルハシで掘り、スキで耕し、農具がどれもこれもすりへってしまうほど働いた。かれらはまた石を積んで壁を作り、それに天幕をかぶせて寝泊まりした。夜になると、風が吹きすさび、雪が舞い散る中で、みんなはたき火を囲んでマルクス・レーニン主義と毛主席の著作を学習し、中国労農赤軍の長征(一九三四年〜ー九三六年)の物語を語りあい、困難な条件のもとで道路をつくりながらチベットに進軍した解放軍の苦労をしのび、大寨の人びとの大自然とたたかう革命精神を語って、闘志をかきたてるのだった。

 荒れ地の開墾と平行して、長さ八・五キロの用水路建設工事もはじめられた。土着の水利技師が山や谷を踏査して用水路のコースを決め、七十人あまりの若い農民がこの工事を一手にひきうけた。

 わたしたちは、若い女性をひきいて用水路工事に参加した婦人幹部、パイマユイツェンの感動的な活躍ぶりを聞いた。用水路工事の進行中、手でしがみつくことも、足先をひっかけることもできない険しい崖にぶつかった。その時はちょうど、働き手の若い男たちはほかに仕事があって工事現場にいなかった。パイマユイツェンは三十人の若い女性で突撃隊をつくり、険しい崖の爆破作業をひきうけた。「女だけでやったって、半年かかってもできるものか」と、ばかにする者もいた。しかし、女作実撃隊員は動揺しなかった。かの女たちは、まわり道をして崖のてっぺんに登り、ロープで腰をしばって宙にぶらさがり、岩壁にタガネで穴をあけ、手製の爆薬でハッパをかけた。十日間の苦闘の末、岩壁はくずされ、用水路は完通した。

 一九六七年の春までの一年間で、レーマイの人びとは平原の荒れ地五十ヘクタールを開墾し、全郷の耕地面積の四七パーセントに当たる土地をぷやしたのだった。用水路にみちぴかれた水は、新しく開墾された山畑をかんがいしている。荒れ地の開墾といい、用水路の建設といい、集団の力がいかにすばらしいものであるかを教えている。同じこの年、レーマィ人民公社が正式に発足した。レーマイの人びとは、荒れ地をきりひらき、用水路をつくる中で盛りあがった自力更生、刻苦奮闘の革命精神を子孫に代々伝えようと、「サンチェン平原」を「サルゲ平原」(革命平原)と呼ぶことにした。

 現在では、レーマイ人民公社の耕地面横は民主改革前の二倍近くになり、穀物の収稚高は約二・五倍になった。大小のトラクター五台、たねまき機七合、脱穀機五台、それにポンプなどを持ち、小型の水力発電所も一つつくられた。一九五九年の民主改革前にくらべて、全公社の人口は三二パーセント増加し、七○パーセント以上の家に備蓄の食糧があり、八○パーセントの家に預金があって、八十世帯が新しい家屋を建てた。

 わたしたちは「革命平原」に登ってみた。そこには熱気があふれ、作物がのびのびと青ち、新しい家が建てられていた。公社経営の小学校も、児童に農業を学ぱせるための農場をここにつくっている。

迷信をうちやぶる

 チベットを訪問している間、わたしたちは、生まれ変わった農奴たちが迷信を打破し、大胆に考え、大胆に行動し、神を信じず、天を恐れず、自分の力で自然災害にうちかち、みごとに豊作をかちとったという話をいく度となく耳にした。

 ヒマラヤ山から流れくだるニャンチュ(年楚)河は、以前は山つなみが起こるたびに、土砂にふさがれて川がはんらんし、川沿いのギャンズェ(江孜)、ビェナン(白朗)、シガズェ三県の人びとにぴどい災害をもたらしていた。五十数年前、農奴主はのりとをあげながら河岸に大水をしずめる「神の柱」を建て、これでもう水害は起こらないと人びとをだました。しかし、ひとたび洪水が襲ったら、「神の柱」などもちろん押し流されてしまったのである。文化大革命がはじまると、沿岸三県の人びとは、「神の柱」で水を治めるようなデタラメは信じなくなった。かれらは力をあわせてダムをつくり、川床をさらい、木を植えて、ニャンチュ河の総合的治水をおこなった。水害はとりのぞかれ、農業生産も急速に発展した。一九七四年には、沿岸三県の穀物の収穫高は民主改革前の四倍近くになったのである。

 ヤルンズァンポ江のほとりにあるギャツァ(加査)県では、一九七四年の春、数百ヘクタールもの冬小麦がケラの害を受けた。かつて農奴主は、この種の害虫を「神虫」だといって、虫害に見舞われるのも天の意志なのだから、「天意」にそむいてはならぬ、虫を傷つけてはならぬといった。だが、この県の反修人民公社の共産主義青年団員たちは、そんなたわごとは信じなかった。かれらは虫退治の突撃隊をつくり、いく晩も懐中電燈を手に虫の運動法則を観察し、効果的な措置を講じてたちまち全滅させた。この事実に啓発された全県の老若男女は、いっせいに出動して奮戦すること一カ月、一万八千五百キロものケラを捕らえたのである。「神虫」はせん滅され、ギャツァ県のこの年の冬小麦は、ヘクタール当たり約四トンという高収穫をあげた。

 ラサ渓谷にあるダッズェ(達孜)県では、畑という畑が石ころや雑草だらけだった。というのは、農奴主が「石は神石、草は神草だ。神草をとれば作物が倒れるし、神石をどかせぱ骨が折れる」などと邪説を流していたからだ。その影響で、畑には石をころがし、雑草を生い茂るがままにさせていたので、穀物の収穫高はきわめて少なかった。一九七四年には、この県の幹部と公社員は迷信を打破して、畑の「神石」をとりはらって地ならしをし、「神草」を刈りとって緑肥にしたので、農業生産はかなり大幅に発展している。

 チベット高原は気候が不順なので、しばしば自然災害が起きる。これまで人びとは、風、雨、霜、雹などの自然現象を正しく認識できなかったので、災害にあうと神仏にすがりつくだけだった。寺院には「雹のラマ」という僧侶までいて、雹が降ると畑にのぼりを立ててお経を読み、人びとから金品をかすめ取るのだった。現在では、自由の身となった農奴たちの多くは、科学知識を運用して気象変化の法則をつかみ、農業生産に役立たせている。タングラ山脈南麓のデンチェン県は、昔から雹害の多いところだ。批林批孔連動をすすめる中で、この県の人びとは「天命」観をうちやぷり、農業区に百七十カ所の防雹点を設けて、手製のロケット、銃、爆薬などで雲を追いはらい、雪害を減少させている。一九七四年、全県の穀物取種高は前年にくらべて一八パーセントの伸びをみせた。人びとの思想面での解放、農業料学知識の普及、農業機械や化学肥料の使用などによって、チベット人民の科学的農耕活動も、幅ひろい大衆的なものになりつつある。多くの人民公社、生産隊が農業科学の試験場や科学的農耕法のグループをつくっている。また公社員たちは耕作制度を大胆に改革し、農機具、耕作方法、耕 作技術などの面の変化も大きい。大面積の畑に冬小麦をまいて、連年高収権をおさめていることなどは、その著しい例といえる。

奇跡はつくられた

 チベットでは、以前は冬小麦が栽培されたことはなく、主要な農作物は、耐寒性の春播き青ク\(ke1)やえんどうなどであった。農奴制が生産力を束縛していたから、耕作は組裁で生産量も少なく、青ク\(ke1)などはヘクタール当たり七百五十キロしかとれなかった。

 チベットの解放後、国家の派遣した農業科学調査隊は、ラサ郊外で冬小麦の試作に成功した。ところが、当時は農奴制がまだ廃止されていなかったので、それを広めることができなかった。一九五九年、チベット農業科学研究所はある種の冬小麦の小規模な試作をおこない、ヘクタール当たり七トンの高収穫を得た。しかし、個人経済の限界牲と伝統的観念の影響で、これも広めることはできなかった。

 民主改革のあと、人民公社化が実現してから、生まれ変わった農奴たちの食糧の増産意欲は大いに高まり、冬小麦の栽培は急速に広まった。

 一九七○年、ギャツァ県先鋒人民公社が冬小麦の試作をはじめたとき、「チベット高原で冬に作物をつくるなんて、これまで見たことがない」という者もいた。が、大多数の公社員は「おれたちは先人の通らなかった道を歩み、いままでなかったものを手に入れなければならない。中国共産党の指導のもとに、科学的な態度でがんばりさえすれぱ、この世の奇跡をつくりだすことができるのだ」と考えた。この年の冬、かれらは約十一ヘクタールの冬小麦を値えつけて熱心に育てた結果、あくる年の秋にはヘクタール当たり四トン近くの収穫をあげた。これはその年の春に植えつけた青ク\(ke1)や春小麦より、ヘクタール当たり千五百キロ多い。この事実は、冬小麦に関心をもつ公社員の積極性をいっそう高めた。一九七一二年、全公社では八十五ヘクタールもの大面積に冬小麦を播き、ヘクタール当たり四・六五トンの高収穫をあげたが、これは同年の春小麦の収穫高のほぼ二倍である。

 かつては、海抜四千メートル以上の土地には作物などつくれないとされていた。冬小麦とて例外ではない。ところが今日では、チベットの冬小麦は四千メートルを乗り越え、海抜四千三百メートルのところにまで到達している。

 いまやチベット高原では、冬小麦の植えつけができるぱかりでなく、高収穫をあげることもできるようになった。最高のところでは、ヘクタール当だり十トンを越えている。ラサ近郊のポンボ農場を訪問したとき、そこでつくられた冬小麦の長くて太い穂を見て、わたしたちは本当にびっくりした。はかってみると、千粒の重さが四十五から五十グラムもあった。他の省の冬小麦千粒は、ふつう三十五グラムぐらいである。

 ここ数年、チベットの冬小麦の植えつけ面積はたえず拡大されている。一九七四年、全自治区では二万一千ヘクタールあまりの冬小麦を植えつけた。これは一九七三年の二倍以上であり、七三年のそれは七二年の二倍であった。一九七五年はさらに大幅に増え、全自治区七十一の県のうち、五十五の県が冬小麦をつくるようになり、その面積は四万ヘクタールに達している。この年の冬小麦の収穫高は、少ないところでもヘクタール当たり三トンを越えた。ヘクタール当たり四トン、六トン、八トンを越えた人民公社、生産大隊もたくさん現われている。

 旧チベットでは、多くのところが農作物の「禁区」とされていた。現在では、祖国の沿海諸省から移植したトウモロコシ、水稲、ビート、茶、葉タバコなどの食糧作物や経済作物、それに何十種類もの野菜が、それらの「禁区」でりっぱに成長している。チベットの広はんな農民たちは、自らの勤勉な労働でこの世の奇跡をつくりだしたのである。

人は必ず天にうち勝つ

 チベット人民は自然とたたかうなかで、「人は必ず天に勝つ」という固い信念をもつようになった。農業区もそうであり、牧畜区もそうである。大寨に学ぶもう一つの先進的単位――紅旗人民公社の社員たちが、うちつづく自然災害を克服した事実はその一例である。

 ラサから草で青海・チベット自動車道路を北へ走り、チベット市部を貫通するガンディセ(岡底斯)山脈を越えると、眼前にチベット北部草原の景観が現われてくる。真っ白な山々が高くそびえ、広大な草原が山なみの間に広がり、牛や羊の群れがあちこちで草を食んでいる。

 紅旗人民公社は、チベット北部の主要都市ナッチュの近くにある。太陽に照らされた草原は明るくかがやき、川や湖は緑のなかでキラキラと光り、長蛇のような土塀が広びろとした牧場を囲んでいた。

 ここは海抜四千五百七十メートル、年間平均気温は零下二度くらいで、霜の降りない日は年に平均二十七日しかない。おまけに雨は少なく、気候は変わりやすく、自然災害に見舞われることもしばしばである。

 四十数年前、大風害におそわれたことがある。牧畜が全滅に近い損害を受けたうえ、農奴主の残酷な搾取はつのるぱかりで、たくさんの牧畜民がまったくの文無しになった。

 一九六六年に紅旗人民公社が成立してからも、自然災害は毎年のようにつづいたが、農奴制と「天命」観から解放された牧畜民たちは、集団の力で大自然にうちかっている。

 公社は牧畜民を動員して草原を改造した。この数年、用水路だけでも六十本以上つくり、公社の三分の一の牧草地をかんがいできるようにした。かれらはさらに、新しい牧草地をとりかこんで広い面積に牧草を植え、肥料をやったり、農薬で害虫をせん滅したりした。同時に「はだしの獣医」がグループに分かれて、家畜の病気治療と予防運動を幅広くくりひろげた。これらのすべては、自然災害に対抗して牧畜業を発展させる上で大きな力となったのである。

 公社の党支部書記アジェドジ同志が、こういう語をしてくれた。一九七五年の二月と三月に、ここは特大級の風害に見舞われた。それは羊の出産時期で、もっとも忙しいときだった。突然、荒れ狂う大風が三十メートルから三十五メートルもの激しさで吹き、それが連続四十日間もつづいた。家畜の群れはちりぢりになり、家畜小屋は吹きとばされ、用水路は土砂で埋まり、ところによっては牧草まで根こそぎ吹きとぱされた。

 階級敵はこのときとぱかりにデマをとばした。「風が吹くのは神様がお怒りになっているからだ。神にさからうなんてとんでもないことだ」と。広はんな牧畜民たちはこのようなイカサマを批判し、党組織の指導のもとで積極的に自然災害とたたかった。

 中国共産党ナッチュ地区委員会は、災害から家畜を救うため、千人以上の幹部を緊急動員して、草原の各人民公社に派遣してくれた。また、チベット自治区の指導機関も、大量の援助物資をとどけてくれた。県と県、公社と公社、生産隊と生産隊の間で、互いに助け合い、互いに牧草をゆずり合う感動的な光景が、あちこちで見られたという。

 紅旗人民公社の牧畜民は、共産党員と共青団員にひきいられ、風砂で埋まった牧草を掘りおこし、山や谷を越えて、ちりぢりになった羊の群れを連れもどした。寒さのために弱った子羊や子牛には、自分たちの節約した食糧を酥油茶にまぜて食べさせ、自分たちの着物や敷物で体をあたため、子を産んだぱかりの家畜には、よく乳が出るように青ク\(ke1)酒やお茶の葉の汁などを飲ませた。獣医は病気の羊の手当てに大わらわで、昼も夜も家畜小屋に詰めっきりだった……。こうしてかれらは、大災害の年だというのに牧畜生産で好成績を収め、この年の牧畜総頭数は史上最高の一九七三年を上回ったのである。現在、全公社の牧畜頭数は民主改革当時より一七○パーセント強も増えている。

 わたしたちの見たところでは、紅旗人民公社に災害の爪跡はまったくなく、見えるのはただ生き生きと繁栄する情景ばかりだった。草原にはガラス窓のついた新しい家が建てられ、牧畜民たちは先祖代々の遊牧生活に別れを告げ、定住生清をするようになった。公社はまた、学校、託児所、かじ屋や木工の職場、仕立て屋、畜産品加工所などの施設もつくっている。

 遠方を見渡すと、大勢の牧畜民たちがシャベルやクワを振って、山をめぐる二十四キロもの用水路の開さくにはげんでいた。この用水路が完成したら、何年間子ばつに見舞われても平気だという。雲霞のような羊の大群が、青々とした草原をゆっくりと移動している。チベット族の娘が数人、桶をさげて牛の群れの間を行き来している。さわやかな風にのって、高らかな歌声が流れてきた。


  草原の牛や羊は育ちがいい
  それは水や草が豊富だからだ
  人民公社にバターや羊毛がいっぱいあり
  歌声も高らかなのは
  あたたかい太陽に恵まれているからだ
  草原の牧畜民が幸福な生活を送れるのは
  共産党と毛主席の正しい指導のもとに
  社会主義の輝く道を歩むようになったからだ


 同じような風害に会っても、四十数年前と今日とではなんと大きなひらきがあるのだろう。

 地勢が高く、気温が低いチベットは、全国でも自然条件のもっとも悪い地区である。しかし、封建農奴制から解放され、社会主義の大道を歩むようになったチベットの農民、牧畜民は、「天命」を打ち破り、革命をすすめて、たえず輝かしい成果をつくりあげている。


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