7.新興の工業


 わたしたちは行く先ざきでデパートをのぞいてみた。そこには「高原」だの、「霊峰」だの、「草地」だのという商標のついた地方色豊かな品物がたくさん並んでいた。それらはみな、チベット自治区内でつくられた工業製品である。

 チベットの工業は、民主改革後、とりわけ文化大革命がはじまってから発展したものが多い。解放前のチベットには、近代工業はほとんどなかった。現在では申、小型の工場、鉱山などの企業が二百五十あまりあり、電力、石炭、冶金、機械、木材加工、化学工業、軽工業、建築材料などの企業が、規模こそ大きくはないが一応そろっている。一九七四年の全自治区の工業総生産額は、一九六五年のほぼ四倍になった。

ラサでの見聞

 わたしたちは、ラサ市内と郊外のいくつかの工場を訪ねた。昔のラサは、ねじくぎ一本、マッチー本つくることもできなかった。あらゆる生活用品をすべて外から運び入れなけれぱならなかったので、市場には外国製の品物が満ちあふれていた。いまでは、ラサはある程度の規模をもつ工業都市に変わった。産業労働者は全市総人口のご一分の一を占め、そのほかに六千人ほどの手工業労働者がいる。石炭、電力、機械、建材、軽工業、化学工業、紡織など三十近くの企業が新しくつくられたほか、多くの自動車輸送隊と地質調査隊も組織された。ラサの労働者たちは、自力で脱穀機、とうみ、モーター、自動車部品、硫酸、セメントおよび各種の日用品などを生産し、チベット各地に提供している。

 解放前、ラサ市民の夜間の照明は軽油のランプだった。一九五六年、国家の投資で郊外に小型の発電所が一つつくられた。そして同じ年に、ラサ河の水を利用するナーヂン(納金)発電所の建設も計画されたが、チベット上層反動集団の妨害で工事はなかなかはかどらなかった。一九五九年に反乱が平定されると、ナーヂン発電所の建設は急速にすすめられるようになった。党と政府機関の職員、解散軍兵士がチベット族の人びとと協力して作業に当たったが、中でも主体工事を引きうけた解放軍は、昼夜の別なく奮闘して八ヵ月で工事を完成させ、一九六○年四月に送電を開始したのである。わたしたちはこの発電所も見学した。犬きな山をまっぷたつに割った切り日に長さ四キロのダムがつくられ、ラサ河の水がそこにせき止められている。この発電所は、ラサ市内と近郊の工農業生産および照明に電力を提供している。文化大革命の中で労働者が技術革新を進めたので、発電量は一九六五年より西○パーセントも増えた。生まれ変わったかつての農奴たちは、電灯がつくようになったことをひじょうによろこび、この発電所を「光明の宮殿」と呼んでいる。

 チベットはいたるところに谷間や急流があり、人口も少なく、住居も分散しているので、渓流を利用して小型の発電所をつくるのは、簡単だし重宝である。こうした需要に応えるため、一九七一年にラサ・モーター工場がつくられた。この工場は、解放初期は醤油をつくる町工場で、文化大革命までは農機具の修理と製造をしていた。その後、労働者たちはモーターの製造を志し、いろいろ苦労を重ねたすえついに成功、さらにナーヂン発電所の労働者と協力して発電機もつくりあげた。いま、この工場の規模は文化大革命前の四倍に拡大されており、製品もひじょうに評判がいい。

 ラサの七・一農機具工場は、一九七○年七月一日に、かじ屋、木工合作社と自転車の修理屋が合併してできたものである。以来数年、この工場は千六石台あまりの脱穀機、水力タービン、とうみなどをつくって、農村に提供してきた。

 現在では、ラサだけでなく、チャムド、シガズェなどの都市にも近代工業が生まれ、新興の工業都市があちこちにつくられている。

新しい工業区のひとつ

 わたしたちは新しくつくられたニンチ工業区を訪問した。

 ラサを出発した車は、四川・チベット自動車道路を東に向けてひた走る。左右は山また山だ。高い峰を越えると、道は下り坂ぱかりになった。ラサは海抜一二千六百メートルあまりだが、ニンチは二千九百メートルしかないのだ。両者の距離は四百キロほどで、走れば走るほど地勢が低くなり、樹木が多くなる。青々とした山水は、言葉ではいいつくせないほど美しかった。

 スージラ(色霽拉)山を越えると、目の前に忽然として美しい渓谷が現われた。そこを流れるのは清冽なニャンチュ(尼羊曲)河で、両岸には建物が数列、整然と並んでいる。ここがニンチだ。

 このあたりは、かつてクマやヒョウの出没する原始林だった。解放後、自動車道路がここまで伸びたので、次第に町ができあがり、一九六六年、文化大革命がはじまると工業区に生まれ変わったのである。

 チベットは羊毛の産地でありながら、解放前にはそれを加工する工場がなかった。そこで、外国の侵略者は毎年数千トンの羊毛を安い価格で買いたたき、百万ドルもの暴利をむさぼっていた。一九六六年、上海のいくつかの小さなビニロン・毛織物工場の労働者、職員五百人ばかりが、「チベットの建設を支援しよう」という共産覚の呼びかけに応え、「世界の屋根」チベットにやってきてニンチ毛織物工場をつくった。そして、一九六七年の元旦に最初の製品をラサの市場に送り出し、毛織物をつくったことのないチベットの歴史に終止符を打ったのである。現在、この工場には千三百名のチベット族、漢族の労働者がおり、ラシャ類、毛布、毛糸などの製品をつくっている。一九七四年、この工場の生産した毛糸は一九七一年の三倍になり、品種も二百八十以上にのぼった。これらの製品は、中国南方の都市――広州でひらかれる中国輸出商品交易会でも、諸外国の友人たちから絶賛されている。

 この工場が最初に生産した民族衣裳の生地――プルーは美しくて安かったが、チベット族の人ぴとからは歓迎されなかった。というのは、手織りのプルーはしっかりしていて地が厚く、昼間は風や砂を防ぎ、夜はふとんの代わりになるし、労働者としてもとびきり丈夫で、雨にも強いのだが、機械織りのプルーは、とてもそこまではいかなかったからだ。機械繊りのプルーを改良すべきかどうか、工場では議論が百出した。労働者たちは「うちの工場はチベット毛織物工場という看板をかけていながら、チベット族の人びとに喜ばれる製品がつくれないのか。これじやあ社会主義の企業だなどといえやしない」と目ぐちにいった。しかし、プルーの改良に精を出すのはいいが、工場全体の生産にひぴきはしないかと心配する少数の人ぴともいた。文化大革命の試練をへてきた工場の責任者は、毛織物工場がチベット族人民に奉仕できるかどうかは企業の方向、路線にかかわる大問題であることをよく知っていた。工場長の林興智さん(一九五一年にチベットに進駐し、その後、復員した古い幹部)は、工場の党委員会を代表して、きっぱりといった。

 「解放された百万の農奴たちの需要こそ、われわれの生産任務ではないか。われわれはなんとしてもプルーの晶質を高めなければならない」

 そこで工場は、手織りプルーをつくっている人民公社に関係者を派遣して、伝統的な技術を学ばせた。また熟練した手織り職人を工場にまねいて、指導してもらったりもした。手織りの技術を機械の上に応用させるには、生産工程を改革し、機械も改造しなければならない。工場では、労働者、幹部、技術者からなる技術革新グループをつくり、全工場の労働者にも工夫するよう呼びかけた。その結果、百二十日間の努力でついに改革に成功したのである。

 工場は人民公社からチベット族の幹部や大衆をまねいて、新製品のテストをしてもらった。かれらは、ひき裂いたり水をかけたりしてテストしたあと、最大級にほめちぎった。「このプルーはほんとにすぱらしい、文句なしです」

 このあたり一帯の森林資源を開発するため、一九五五年、ニンチでは休場の建設をはじめた。一九七二年には、さらに二つの新しい休場がつくられ、現在の森林公司はそれらを合併したものである。林業労働者と職員あわせて千八百名、伐採地区もたえず拡大されている。一九六七年にはマッチ工場もつくられた。解放前は、ところによっては一箱のマッチを手に入れるのに、肥えた羊が一頭必要だった。いまでは、この工場の自動化ラインで生産されたマッチは、全自治区の需要を完全にみだしている。一九七○年に建てられた製紙工場は、現在では大量の紙を生産している。一九七一年には印刷工場も建設された。チベット地区で発行されている大量のチベット語、漢語の書籍や学校の教科書は、すべてこの工場で印刷されたものである。なお、これら新しく建設された工場に十分な動力を提供するため、ニャンチェ河の水源を利用する水力発電所が一九六六年につくられている。

 いま、ニンチには百以上の工場や企業が建設されており、昔は荒れ果ててまっ暗だったニャンチュ河のほとりに、花になると電燈の明かりがこうこうと輝く。チベットの人びとは誇らしげに、ニンチのことを「高原の宝石」と呼んでいる。

初代のチベット族労働者

 ニンチ毛織物工場の細毛職場の精紡機のまえに、二人の女性労働者が肩を並べて仕事をしている。一人は漢族の葉鳳翠、もう一人はチベット族のパイムーである。葉鳳翠は、一九六六年に上海からやってきた四十四歳になるベテランの紡織労働者。パイムーは、一九六七年にこの工場に入った中堅である。当時十八歳だったパイムーは、いろいろな機械を見てとても興奮した。ところが、精紡職場に配属され、めまぐるしく回転するスピンドルを前にすると、今度は不安になってきた。かの女の心を見ぬいだ葉鳳翠は、そっと肩に手をおいてはげました。「むずかしいことはないのよ、じきにおぼえるわ。わたしは十二歳のときに女工になったの。青が低かったので、足の下にレンガを置いて機械を操作したものよ。旧社会のことだから、資本家のために毎日十数時間働いても、賃金は自分ひとりさえ食べていけないくらい。ちょっと技術を身につけようと思っても、それがなかなかできない相談だったわ。……いま、わたしは党のよぴかけに応えて、新しいチベットの建設にやってきたの。わたしたちはみんな工場の主人公なのだから、わたしの知っている限りのことは全部、あなたに教えてあげるわね」

 葉鳳翠の話を聞いているうちに、パイムーは農奴だった自分の一家の苦しみを思い起こさずにはいられなかった。かの女は葉鳳翠の手をとり、「わたしはりっぱに技術をマスターして、かならずチベットではじめての毛織物労働者になります」と感激していった。それからというもの、一人は手をとって教え、一人は熱心に学んだ。パィムーは、三週間後にはもう独り立ちできるようになり、さらにいく日かたつと、りっぱな熟練工となった。その後、かの女は五人の毛織物労働者を育てあげたが、うち二人はチベット族の見習工、三人は沿海諸省から来た漢族の知識青年である。かれらもみな独り立ちして精紡機を操作している。

 新華印刷工場植字職場のチベット語植字組は、模範的なグループの一つである。全部で九名の組員はみなチベット族で、平均年齢は二十二歳。組長はビェンパといい、わずか二十一歳の若ものである。職場の主任が、つぎのような話をしてくれた。ビェンパは工場に入ったときたった十七歳だったが、この数年間めざましい成長をみせて、模範グループのリーダーになった。かれの組には、チベット民族学院の卒業生が七人いる。文選をする者も、校正や植字をする者もいるが、かれらは互いに学びあい助けあって、他人の長所を学びとり、自分の短所をおぎなう。こうして各人が、自分の専門以外の仕事もいろいろできるようになった。かれらはまたマルクス・レーニン主義および毛主席の著作を学習するグループをつくり、夜のひまな時間を利用して勉強する。生活の面でも、みんなは互いに協力しあっている。仲間の女性文選工が病気で入院したとき、組のみんなはかわるがわる病院へ行って看病したり、輸血用の血液を提供したりして、短期間で健康を回復させた。

 批林批孔運動の中で、この組の文選工ダンズンたちは「孔子の仮面をはがそう」という漢語で書かれた劇画を読んだ。それは孔子の反動的な正体を、あますところなく暴露するものだった。かれらはこう考えた。孔子の「天命」とか「上智下愚」とかいういかさまは、ダライも吹聴していたし、その害毒はまだ一掃されていない。この劇画をチベット語に翻訳し、チベットの人びとの批林批孔運動を幅ひろく展開させるために役立てよう。工場の党委員会は断固としてかれらを支持した。かれらは勤務のひまをみて翻訳をやり、わからないところがあると参考書をさがしたり、みんなで討論したりした。同じ職場の一人の漢族労働者も熱心にかれらを助けた。この劇画の訳本は、チベット人民出販社で出版されることが決まったそうである。

 印刷工場の革命委員会副主任は二十四歳の女性でペンドーという。かの女の父母と七人の兄姉は、かつてはみな奴隷だった。かの女は解放後に生まれ、八つのときに小学校に入った。その後チベット民族学院に入学、一九六六年に卒業してこの工場に配属されたのである。

 この工場に入ってから、ペンドーは仕事の都合で何回となく職場を転属させられた。ようやく新しい仕事になれたかと思うと、また別の職場にまわされる。そのたびに勉強しなおさなければならなかったが、かの女はけっしていやな顔をせず、いつも一生懸命研究して、すぐに新しい仕事をマスターするのだった。

 マッチ工場包装職場の主任レンズェンも、労働者の中から抜てきされた指導者の一人である。かの女は文盲だったので、読み書きを習いながらマルクス・レーニン主義および毛主席の著作を学習した。そして次第に自覚を高め、仕事の面でもりっぱな成績をあげるようになったのである。わたしたちはかの女の職場を見学したあと、まねかれてかの女の家を訪ねた。

 レンズェンの家は、工場からごくちかい住宅街にあった。三間の木造平屋で、寝室には厚いふとんがきちんと置かれ、机の上にはラジオやめざまし時計がならべてある。ご主人は森林公司につとめている。子供は二人いて、まだ学齢前である。それから六十すぎのレンズェンの母親もいっしょに暮らしている。一家は心からわたしたちをもてなしてくれ、豚肉の角煮、マトンの肉団子、炒り卵、白菜の炒めものと、ごちそうが四皿もならんだ。それを見て、むかしの苦しみを思い出した母親は、こんな話をしてくれた。民主改革までは、かの女も奴隷だった。レンズェンは、農奴主の青ク\(ke1)畑で働いている最中に生まれた子である。幼いころのレンズェンは、ずっと飢餓の中で成長した。三歳のとき、空腹に耐えかねて、ごみためから骨をひろってかじりついたことがある。それがのどにひっかかった傷あとは、いまもまだ残っている……。

 レンズェンが話題を変えた。「わたしたちの生活も、いまではとても良くなりました。三人の給料をあわせると月に二百四十元。食費はその三分の一で間にあうし、あとの分を衣服費などに使い、残りは銀行に預金しています。医療費はすべて無料です。母はもう年なので、停年退職するようすすめているのですが、どうしても承知しません。いまも工場の副業生産隊で、野菜畑の番をしているんですよ」

 母親はいう。「むかしのことを思い出していまの生活と比べれば、仕事をやめようなんて、とてもそんな気にはならないんだよ。社会主義建設のために、できるだけのお手伝いをしなきゃあね」

 チベットの近代工業とともに誕生したチベットの労働者階級は、現在すでに六万七千人を越えている。そのうち、チベット族の労働者は三万八千三百人である。かれらはチベットの社会主義革命と建設の中で、先進的な役割を果たしている。闘争の実践を通じて、かれらはたえず政治的自覚を高め、四千名を上回るチベット族労働者が中国共産党に入党した。また多くのすぐれた労働者が各クラスの指導グループに入り、責任者となっている。現在、全自治区の工場や鉱山などの企業では、管理部門から生産現場までの各クラスの指導グループにチベット族労働者出身の幹部がおり、その数がすでに幹部総数の七○パーセントを上回っているところもある。


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