2.「太陽の町」での見聞


 機外に出た。とたんにギラギラと輝く陽光がぶりそそぐ。あくまでも青い空、清らかに澄みきった空気、浮き出てくるような遠くの山々と近くの川の流れ、昔をたててはためく赤旗などのいずれもが、格段の鮮やかさで目に飛びこんでくる。

 統計によると、ラサの一年間の日照時間は三千九百時間ほどである。雨季の夏でも、夜間には雨がよく降るが昼間は晴れており、雪の降る冬でも十分陽光に恵まれている。こうしたところから、「太陽の町」と呼ばれているのである。

 わたしたちの草は、ときには川岸を、ときには山道を走りながら北に進んだ。やがてヤルンズァシボ江の支流であるラサ渓谷に入る。山にかこまれた盆地には、青ク\(ke1)(耐寒性ハダカ麦)や小麦が風のまにまに波立ち、えんどうやアブラナの花がきそいあうように咲きほこり、森林はうっそうと茂っていた。遠くに目をやると、ひときわ高い建築物がそびえ立っている。ポタラ宮だ。

 ラサ市はもうすぐそこである。

新しい町をゆく

 幅の広いアスファルト道路を散策する。両側にはよく茂った並木がみどりの回廊をかたちづくり、高原の強烈な日差しをさえぎっている。おさげを頭にまきつけ、民族色ゆたかなスカート姿で子供を背負った婦人たち、ソフトをかぶり、民族衣裳を着こんだ老人や若い男たちなど、路上をゆきかう人ぴとはみな幸福そうにひとみを輝かせている。

 案内役のチベット族幹部ツオンシュピンツオは語る――ここはラサの新市街区である。かれが初めてラサにきたのは、反乱を平定する前の一九五九年だった。そのころ、千年以上の歴史をもつこの古い町の市街は八角街一帯で、ポタラ宮はその西郊にあった。旧市街区とポタラ宮との間は沼沢と荒れ地で、貴族たちの別荘がわずかに点在するだけだった。一九六五年、ふたたびラサにやってきたとき、かれはおのれの目が信じられないほどぴっくりした。荒れ地はすでに、にぎやかな新市街区に変わっていたのだ。

 「ごらんなさい。いまじゃポタラ宮は市外ではなく、目抜き通りにあるんですよ」と、かれはいった。

 一九五一年、チベットが平和的に解放されてから、ラサの建設は徐々にすすめられた。一九六五年九月、チベット自治区成立の直前に都市建設は集中的におこなわれ、一年もたたないうちにこの新市街区が完成、その後もすこしずつ新しい建物が建てくわえられたのである。現在、全市の新しい建物の総面積は旧ラサ市の建築総面積の十倍に相当し、新市街区の面積は旧市街区の二倍以上である。

 人びとの群れにまじって、わたしたちもデパートに入ってみた。面積およそ三千平方メートルというこのデパートには、数千種もの商品がならんでいる。上海や北京から仕入れられたものもあるが、ラシャ、毛糸、毛布、チベット服といった繊維製品や、マッチ、右けん、砂糖などの日用品はみな地元の産品である。

 地元製品のショーケースをのぞきこんでいる人ごみの中に、一人のチベット族の老人がいた。プルー(チベット産の厚い毛織物で、帽子、衣服、敷物などに用いる)をえらぴながら店員と話をかわし、しきりに明るい笑い声をあげている。そのうち気に入ったプルーをかかえて、老人はニコニコしながら帰っていった。

 デパートの責任者の話によると、この店の売り上げは年々増加しており、一九七四年の売り上げ高は、一九六五年の二倍以上になったという。ここと同じようなデパートはラサ市内に三つあり、そのほか、羊毛、羊皮、築材など地元の特産品を買い上げる専門店や、生産資材(たとえば農業機械など)を供給する専門店もある。一九五九年以来、物価安定という基礎の上に立って、政府は何回かにわけて商品の販売価格を計画的に下げる一方、農牧民から買い上げる地元特産品の価格を上げてきた。たとえば、チベット族の人びとが好んで飲むお茶は、一九五九年には一キロが五・二四元だったが、現在は三・○二元である。反対に一九五九年当時、キロ当たり○・八元だった羊毛の買い上げ価格は、いまは二・四元に引き上げゲれている。つまり、一九五九年に六・五キロの羊毛を一キロの磚茶(茶の葉を蒸してレンガ状に固めたもので、チベット族や蒙古族の人びとが好む)ととりかえた牧畜民が、いまはわずか一・三キロの羊毛で一キロの磚茶を手に入れることができるようになったわけである。

 ポタラ宮の東北の角に、三階建ての人民病院がある。一九五○年、解放軍とともにラサにやってきた数人の漢族の医者が、ありあわせの古い建物を利用して、チベットの人ぴとのために診療所をつくった。それが人民病院の前身で、一九五六年、国の出資で新しい病院とその付属建築物が建てられた。現在では五百人あまりの医療要員と、内科、外科、耳鼻咽喉科、婦人科、小児科などを擁し、ベッド数二百五十、ほかに各種の近代的医療設備もそろっている。ラサ市には、ここと同じ規模の病院がなお三つあるほか、チベットの伝統的な治療方法を用いるチベット医学の病院もある。

 チベット日報社、チベット人民放送局、チベット人民出版社などもこの一帯にある。一九五六年に創刊された『チベット日報』、一九五八年に放送を開始したチベット人民放送局は、いずれもチベット語と漢語の両方をつかっている。チベット人民出版社発行の書籍もまた、この二種類の文字をつかっている。このあたりには、本屋、郵便局、銀行、映画館、写真屋などもある。

 本屋に入ってみると、正面の書棚にならべられたチベット語と漢語のマルクス、エンゲルス、レーニン、スターリンや毛主席の著作が目につく。一九七二年から七四年までの三年間だけで、全自治区で八十万冊の著作を発行したという。チベット人民が真剣に、マルクス・レーニン主義や毛主席の著作を学習していることがわかる。本屋にはまた、いろいろな社会科学、自然科学関係の書籍、それに絵はがきや写真集などもある。そのほ、か『紅旗』、『人民画報』、『民族画報』といった雑誌類もたくさんならんでいる。立ち読みをしている人、気に入った本を買う人、客はいっぱいで、とてもにぎやかだった。

 これまでは、文化は農奴主や寺院のラマ僧に独占され、広はんな農奴や奴隷のほとんどは文盲だったが、現在では教育を受けた若い世代が成長してきている。

新しい世代

 本屋を出たあと、わたしたちはラサ市第一小学校を訪れた。

 みどりにかこまれた運動場では、児童たちがきちんとならんで少年体操をやっていた。この小学校は五年制で、千人あまりの児童が十九のクラスにわかれている。チベット族の児童の九○パーセント以上は、解放された農奴の子弟である。教科書はチベット語で書かれており、週三十二時間の授業のうち、漢語の読み書きが四時間ある。この学校では、教育はプロレタリア階級の政治に奉仕し、生産労働と結ぴつかなければならないという方針をつらぬいて、四、五年生は週に半日、近くの工場へ労働に出かける。また農繁期には、近郊の人民公社へ手伝いに行く。なお校内には教師と児童専用の農園もあって、いろいろな野菜をつくっているほか、豚も飼育している。

 解放前のラサには、貴族の子弟のための学校が一校あっただけだった。広はんな農奴の子供たちには、教育を受ける権利などまったくなく、七、八歳になると奴隷として苛酷な労働をしいられ、農奴主にののしられたり殴られたりするのが常であった。

 一九五一年、人民解放軍がチベットに進駐してから、ラサに初めて勤労人民のための学校が建てられた。それがこの小学校で、勤労人民の子弟を無料で入学させている。いま、市内区と郊外区には、小学校、中学校(五年制で、日本の高校までを含む)、中等専門学校が全部で四十数校あり、生徒は一万人近く、学齢児童の八○パーセント以上が学校に通っている。一九六五年には師範学校を新設して、主に小学校の教師を育成しているが、建校以来すでに千人あまりの卒業生を送り出している。そのほか、もっぱらチベット族の幹部を育成するチベット民族学院があって、これはチベットにおける最初の大学である。発展するチベット教育事業の需要にこたえて、一九七五年には中学校の教師を育成するチベット師範学院も新設された。

 チベットの他の地区の教育事業も、ラサと同じようにめざましい発展を見せている。いま、全チベット自治区には小学校が四千九戸あまり、中学と中等専門学校が五十数校、大学が二校あるほか、労働者業余大学も十数枚ある。全自治区の学齢児童の就学率も七五パーセントに達し、中、小学校の在校生の数は、それぞれ一九六五年の六・五倍、二・八倍になっている。一九七一年以後は、実践の経験をもつ労働者や農牧民からも二千三百余の学生を選抜し、北京と近隣諸省の大学やその他の学校に送って勉強させている。

歴史の証

 中国の古い都市の一つであるラサには、スケールの大きい古代建築や貴重な歴史的文物、民族芸術などがある。解放後、人民政府は文物の保護を重視し、たびたび修復をおこなったので、多くの古跡がいまも完全無欠に保存されている。

 ポタラ宮と大昭寺(ズッラカン寺)を参観する。

 巨大な岩の丘の上に傲然とそそりたつポタラ宮。金色の屋根が重なりあった本殿は十三階建てで、高さは百二十メートルもある。七世紀に、そのころチベットを支配していたサンプ・ソンサンガンブが建てたもので、九百九十九もの部屋がある楼間の宮殿だったが、戦乱のために破壊されて岩のほら六一つしか残らなかったという。現在の宮殿は、一七世紀になってから五世ダライラマの手で修復され、拡大されたものである。ポタラ宮には、大小あわせて千以上の部屋があり、数えきれないほどの仏像、精巧な浮き彫り、色あざやかな壁画などがかざられている。こうした装飾芸術や壁画などには、それぞれ中国各地の風俗の影響がみられ、かつてチベット族と漢族との文化交流が盛んにおこなわれていたことを物語っている。

 大昭寺は金箔をはった屋根をもつ三階建ての建物で、千三百年の歴史がある。中には千余点の、木、泥、石、銅、金、銀などでつくられた彫刻と浮き彫りがあるほか、大きな壁画もかざられている。

 ソンサンカンプと文成公主の彫像は、とりわけ人びとの目をひくものだ。このほか、ポタラ宮と同様大沼寺にも、文成公主がチベットにおもむいたとき、護衛の軍隊が途中で橋をかけたり、道路をつくったりしている情景を描いた壁画がある。ソンサンガンブは七世紀の初頭、史上はじめてチベット高原の諸部族を統一した。唐(六一八年〜九○七年)の太宗は要請に答えて、娘の文成公主をソンサンガンブに嫁がせ、かれをセt(fu4)馬都尉(帝を補佐し、軍馬を統轄する)、西海都王(郡上は親王に次ぐ官職)に封じたのであった。その後、唐の中宗も金城公主をサンプ・シドッオサンに嫁がせている。

 大昭寺の門前には、紀元八二三年に建てられた『甥舅同盟碑』がある。甥はチベット(当時は吐蕃と呼ばれていた)のサンプ、舅は唐の皇帝である。碑には「舅甥双方の協議の末、国土を統一し、太平の盟約を結ぶ」と、チベット語と漢語で刻まれている。

 つづいて、ダライの夏の離宮であるロブリンカに設けられたチベット自治区文物管理委員会の陳列室で、多くの貴重な歴史文物を参観することができた。そこには、元(一二七一年〜一三六八年)の皇帝がパスパを「大宝法王」に、ソナンツァンブを「白蘭王」に封ずるという金印と、チベット地方の役人にむけた勅令、元代の紙幣などが展示されている。また明(一三六八年〜ー六四四年)の歴代の皇帝が、チベット地区の何人がのラマ教の首領を「王」、「法王」、「国師」に封ずる詔書と勅令、かれらに賜わる金印、玉印などもある。さらに、当時の新興勢力であるケルクパ派(黄帽派)の首領ツォンカパの弟子スジャイエス「大慈法王」に腸わった金冊と刺しゅうの肖像などもあった。そのほか、清(一六四四年〜ー九一一年)の歴代の皇帝が代々のダライ、パンチェンに賜わった金印と玉印、および乾隆帝が一七九三年に公布した「欽定蔵内善後章程(規則)」も陳列されている。この申には、チベットに駐屯する中央の大臣が、チベットの人事、行政、財政、軍事、外交などを統轄する、と明記じてある。これらの文書と印章は、漢語とチベット語の二つの文字で書かれたものと、漢語、チベット 語、蒙古語、それに漢語、チベット語、満州語のそれぞれ三種の文字で書かれたものとがある。

 チベット族は中国の多くの民族のうちの一つであり、チベットは昔から中国の領土である。チベット高原に住むチベット族と各兄弟民族との往来、とくに漢族との往来には悠久の歴史のあることが、これらの古代文物を見るとよく分かるのである。

八角街の新しい主人公

 旧市街区の八角街にやってきたとき、ツオンシュピンツオさんはつぎのように説明してくれた。解放前、この辺はごみと糞便だらけで、乞食やルンペンがおおぜい街角にうずくまっていた(旧ラサ市では、人口の五分の一が乞食かルンペンだった)。はだかの子供たちは、ごみ拾て場で野良犬と残飯を争った。貴族の且那がたがゆうゆうと馬にまたがって通るとき、奴隷たちは道路のはじによけて頭をさげ、舌をたらす格好で敬意をあらわさなければならなかった……。これらすべては、封建農奴制の滅亡と民主改革の勝利とともに、跡形もなく一掃されたのである。この一帯の道路はバラスの舗装だから、新市街のアスファルト道路ほど平らではないが、掃除はゆきとどいている。両側に目をやると、「裁縫」、「鍛冶木工」、「うどん加工」、「野菜」など、いろいろな合作社の看板が見え、機械の回転青が軽くリズミカルに聞こえてくる。かつての奴隷、乞食、ルンペンたちがいまは組織されて、こうした生産合作社に加入しているのである。

 このあたりの建物は、ほとんどが古くからのチベット式建築である。平屋根で、白く塗った石造りの壁、窓ぎわには鉢植えの花が咲きほこっている。旧ラサは封建農奴主支配の中心地だったから、多くの農奴主がこの街に住んでいたものだが、果たして現在の主人公はだれなのだろうか。

 ある住宅の中に入ってみた。ご主人と若い娘さんに迎えられ、そのまま二階に案内された。なかなか広い部屋で、南向きはガラス窓、正面にマルクス、エンゲルス、レーニン、スターリンと毛主席の肖像画がかかげられている。室内には、チベット風の座ぶとん、たんす、衣装箱などがおいてあった。ご主人はグンツェンワンジュさんといい、裁縫合作社の社員だ。この家は部屋が五つあり、一九五九年の反革命叛乱に加担した領主の持ち家だった。民主改革のさい、政府に没収されて、グンツェンワンジュやその他の奴隷に分けあたえられたのである。

 グンツェンワンジュさんから解放前の苦しみを聞く。

 夫婦とも奴隷だった。昼夜の別なく、領主のところで裁縫をやらされていた。領主は気げんのいいときには、食べのこしたツァンバ(チベット族の主食で、青ク\(ke1)の粉をねって作る)を一杯くれることもあるが、気げんの悪いときは水も飲ませてくれない。グンツェンワンジュ自身が食うや食わずなのはもちろんのこと、数人の子供たちも乞食をして暮らすよりほかはなかった。あるとき、領主の衣服を徹夜で縫わされたが、つい居眠りをして、火のしで服を焦がしてしまった。

 それを知った領主に皮の掌(人を打つ刑具の一種)で頬を百回なぐりつけられたので、皮ふや肉はただれ、耳も聞こえなくなった。それでも、その夜は裁縫をつづけさせられた。かれの母親は床についたものの、息子の帰りがあまりおそいのでじっとしていられず、領主のところをたずねてみた。さんざん痛めつけられた息子を見て、かの女は悲しみのあまり大声で泣きだした。カッとなった領主に頭目がけてなべを投げつけられ、かの女はその場で殺されてしまった。そして死体は正門から運び出すのを許されず、窓から捨てられたのだった。またある日、かれが子供のために物乞いに出かけているとき、労役をせまる領主の手先が家にやって来た。しかたなく、かれの妻は領主のもとに行ってひまをくれるようたのんだが、その言葉がまだ終わらないうちに、領主は手下に命じてかの女をはだかにし、柱にしばりつけて犬にかみつかせた。出産間近だったかの女のお腹は傷だらけになり、胎児も危なくなった。その時、さいわい解放軍とともにチベットにやって来た漢族の医者がラサにいたので、かの女を入院させることができ、母子ともに辛うじて死をまぬかれたのだった……。

 苦しみに満ちた昔を回想しながら、グンツェンワンジュさんは何度も泣いた。胸に燃えあがる憎しみと憤りをおさえながら、かれはぷるえる両手でそばに坐っている娘の髪をかきわけ、犬にかまれた傷あとを見せてくれた。生まれる前から領主にむごい目にあわされていた胎児とは、この娘さんのことだったのだ。バッチリした目に涙を浮かべながら、父親の話を間いているかの女も、もう二十四歳になる。リンゴのような赤いほお、短い二本のおさげ、小さっぱりした青い人民服を着て、いかにも健康そうに見えた。よその省の貿易会社に勤めているのだが、休みで帰省してきたところだという。室内には、かの女が会社からもらった賞状がかけてあった。また、父親が裁縫合作社から贈られた賞状もあった。

 グンツェンワンジュさんには子供が七人いる。下の二人はまだ学校に行っているが、ほかの五人はみな仕事についている。妻も、うどん加工合作社の社員だ。毎月、一家(上の息子はすでに結婚しているから、それを除く)の総収入は二百九十七元(約八百キロの小麦粉が買える)である。「とても使いきれませんから、毎月貯金しています」と、グンツェンワンジュさんは現在の生活について語った。

二人の芸術家

 宿舎にもどると、機上で知りあった新しい友人ヤンチンとズオガが、わざわざ酥油茶(牛や羊の乳を煮つめた油とまぜて飲むお茶。チベット族、蒙古族特有のもの)をとどけてくれた。これは、、お客を丁重にあつかうチベット族のならわしである。

 雑談をしているうちに、ズオガが自分の生い立ちを話しはじめた。かの女の両親は、ともに芸人だった。父母の芸がすぐれていることを知ると、領主は芝居の労役(領主のために無償で上演すること)につかせた。一九五九年の反乱平定以前は、毎年のようにダライー味のために舞台に立たなければならなかった。芝居をやれという知らせを受けたら、風が吹こうと雨が降ろうと、またどんな遠いところに居ようとラサにやってこなけれぱならない。ちょっとでもおくれれぱ処罰される。演技が気に入ってもらえないと、これまた処罰された。ラサでの上演が終わると地方をまわって公演し、少しばかりのツァンバをかせいで飢えをしのぐのである。だから、みんなに「乞食劇団」と呼ばれていたという。

 ズオガは今年二十五歳である。一九五九年、かの女が芝居を習いはじめたとき、劇団は人民政府に接収された。そのおかげで、かの女は衣食のことにわずらわされずに、ひたすら演技をみがくことができた。心のこもった養成を受けて、ごく短い期間で一人前の俳優になったのである。

 ヤンチンは今年二十八歳。父は領主の屋敷の掃除番だったが、過労から病気になり、とうとう死んでしまった。父の代わりに働かきれた兄も、心臓病がもとで、階段を拭くときに倒れて死んだ。母もまた労役に疲れはて、流産したあとにこの世を去った。かの女は十一歳のときに童養キ@(xi2)(トンヤンシー)(解放前の中国で、息子の嫁にするために幼いときからもらって育てる女の子。家事や畑仕事などにこきつかわれた)として、よそに売りとばされたのだった。あまりの仕打ちにたえかねて、ある真夜中に逃げ出したかの女は、チベットに進駐していた解放軍の文工団に入った。本名はズオマだが、領主に追われるのを恐れて、ヤンチンと名を変えたのである。文工団に入ってまもなく、チベット劇団に転勤、一九六○年に天津音楽学院に送られて、器楽を三年間学んだ。一年半ほど前、さらに四川省音楽学院に送られ、研修を重ねていたのである。かの女は二胡(やや調子の低い胡弓)が特に好きだといっていた。

 旧チベット劇は、主として封建的な迷信を宣伝し、領主の片棒をかづくものであった。俳優は仮面をかぶって演じ、楽器も粗末なものぱかりだった。しかし文化大革命以後、文芸は労・農・兵に奉仕しなければならないという方針のもとに、チベット劇も改革された。近いうちに、革命現代劇を脚色したチベット劇も上演する予定である。ズオガが、その主人公――党の地下工作者で、刑場に連行されても屈せずに秘密を守りぬき、壮烈な最期をとげた英雄的な女性――を演じるのだという。目下稽古中のものは、自分たちで創作しだチベットの農村における現実の闘争をテーマにした作品である。現在、この劇団では仮面は使わず、俳優はメーキャップをして演じており、伴奏の楽団も、中国の民族楽器、西洋楽器を備えた大型のものとなっている。

 ラサのプロ劇団としては、このほかに歌舞団と話劇団があり、しばしば工場や農村、部隊に行って公演している。なお、多くの工場や、人民公社も、自分たちのアマチュア劇団を持っている。

 ヤンチンとズオガにさそわれて、ラサの大劇場の一つである労働人民文化官劇場で歌舞団の公演を観た。出し物の多くはチベットの歌と踊りだった。チベット族の人びとは歌や踊りが上手で、その民間芸術は豊富多彩なものである。出演者たちは歌いながら踊りまくる。歌はよく通る美声だし、踊りもすぱらしく、とても美しい舞台だった。テーマは、旧社会の悪をあばくもの、新しい生活をたたえるものなど、いろいろである。

 ベルが鳴る。つぎはソプラノ独唱「北京の金山で」と司会者が紹介すると、ドーッとあらしのような拍手がわき起こった。

 美しい民族衣裳を着た女性歌手がステージにあらわれ、まるみのあるソプラノが場内にひぴきわたった。

   北京の金山からの光が西方を照らす
   毛主席は輝く太陽だ
   とても暖かく慈愛ふかく
   解放された農奴の心を照らす
   わたしたちはすすむ
   社会主義のしあわせな道を……

 この歌を聞きながら、その日一日の見聞を思い出してみて、わたしたちは初めて「太陽の町」のもう一つの意味を理解することができた。

 解放前のチベットには、こういう民謡がつたわっていた。

   太陽の照っているところは
   みな、三大領主のもの……

 当時は、ラサはもちろん、全チベットにおいて、広はんな農奴や奴隷は暗黒のどん底生活を強いられ、持ちものといえぱ、自分の影以外なに一つなかった。今日では、毛主席の輝く陽光が、かれらに暖かさと幸せをもたらし、明るい未来を照らしてくれるので、「太陽の町」はいっそう光り輝いているのである。


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