3.日中友好の破壊者はだれか――青年交流・経済貿易展・日中友好協会などの問題


三、「日本共産党申央指導部が、……第二回日中青年友好大交流に、日本の青年を参加させない策動をはじめ、…中国経済貿易展を失敗させるためにあらゆる『努力』をはらい、中国の映画・演劇などの公演をさまざまな形でさまたげ、あげくの果ては……日中友好協会本部常任理事会の中で反中国の公然たる破壊活動をやるにいたった」(『長周新聞』六六年十月三十日付社説)。「八月二十九、三十日の二日間ひらかれた日中友好協会の第十二阿常任理事会は、日中友好と反中国の激突でした。……」(日中友好協会からの脱走分子の文書)

 ここにあげられているのは、福田、原田らの「長周新聞」一派や西沢隆二一派が、わが党の「反中国」を証明するためにきまってもちだす「証拠」なるものの代表的なものです。だが、この一つひとつは、わが党の「反中国」どころが、がれらの対外盲従ぶりを証明しているだけです。

(1)「第二回日中青年大交流」をめぐって

 まず、「第二同日中青年大交流」の問題からみてみましょう。

 一般的にいって、日本の青年と社会主義国の青年の交流が両国人民の共通の利益にたち、面国青年の友好と運帯の正しい発震をめざしておこなわれるかぎり、それがのぞましいものであることはいうまでもありません。

 われわれも六五年の第一同日中青年大交流にたいしては、基本的にこれを支持し、援助してきました。ところが、日中青年大交流をめぐる事態が、六五年と六六年では大きく異なってきたことを、正当にわれわれは指摘しておく必要があります。

 すなわち、(1)、(2)でものべたように、六六年の四、五月ごろがら、わが国の民主団体とある社会主義国との相互交流のなかで、国際交流の活動を、自国の側の特定の政治路線を日本の民主運動にわしつげる手段に利用しようといううごきが、きわめて顕著にあらわれてきました。

 日本民主青年同盟は、第二回日中青年大交流の招待をうけたさい、ますます重大化しつつある内外情勢のなかで同盟が課せられている任務を主とした態度決定と向時に、このような四、五月ごろがら急におこってきた事態をも、日本の民主的青年運動に責任をもつ日本青年の自主的組織として当然のことながら考慮しました。そして民青同盟は、六六年六月下句に森下中央常任委員の談話を発表して、ことしの第二回「日中青年友好大交流」に参加しない態度を表明しました。森下談話は、ベトナム侵略反対、小選挙区制粉枠のたたかいや、総選挙闘争の切追など、同盟がいままでにない重大な任務に直面している今日、同盟の大量の活動家を長期にわたって外国に派追することは適切でないという趣旨をのべて、同盟が不参加の態度を決定した埋由を説間しています。森下談話が、このとき、国際交流のなかに生まれた事態にとくにふれなかったのは、民青同盟と外国の開係団体との関係を悪化させないことを特別に配慮したからだと思います。

 これにたいして内外の一部の人びとは、「反中国」のあらわれだとか、日中青年の友好をさまたげる「逆流」だとか、さまざまな中傷をくわえましたが、わが党がすでにくりがえし指摘しているようにこうした中傷は、中傷者自身の誤った立場を暴露しているだけです。なぜなら、外国の団体からの招請にたいして、それに応じるかどうがは、民青同盟目身が自主的に決定すべきことがらであるからであり、日本の民主団体はある社会主義国からの申し出にはどんな場合でも無条件にしたがうべきだと考えている大国主義者か、これに迎合する事大主義者でないかぎり、民青同盟の自主的な態度決定にたいして、「反中国」だなどと非難することはできないはずだからです。(この点については、『民主青年新聞』六六年九月二十八日付主張「日中青年交流運動とわが同盟の態度」――『赤旗』昨年九月二十九日付に転載――を参照、日本共産党中央委員会出版部発行『国際交流の正しい発展のために』所収)

 しかも、その後の事態の推移は、「青年大交流」にたいして民青同盟のとった態度が、日本の青年運動の自主的発展のためにも、きわめて適切なものであったことを、具体的にあきらかにしました。

 たとえぱ、六六年九月十五日の新華社電は、北京の紅衛兵が「青年大交流」の準借のなかで九つの創作歌曲のなかから最後に「中日両国青年の戦闘的団結のうた」を選んたとして、その歌詞を報道しましたが、これによると、中日青年は肩をならべ「毛沢東思想の偉大な赤旗に導かれて、勝利のうちに前進しよう」というのが、歌詞のしめくくりとなっています(ANS九月二十日)。すなわち、こんどの「日中青年大交流」は一昨年の青年交流とは性格がちがって、まず、特定の外国の指導者の「思想」に導かれてすすむことを公然たる大前提としていたのです。このことは、昨年九月に北京の市街に、「北京人民大学毛沢東主義紅衛兵」の名ではりだされた「第二回中日青年大交流にたいする緊急提案」なるものからも明白にうかがうことができます。すなわち、この「緊急提案」は、十一項目からなっており、六五年の「第一回大交流は革命的風格がなかった」という反省のうえにたって、こんどは「日本青年が教育を受けにくる」ことを考え、日本から来た青年たちに「毎日毛沢東選集を必読」させることをうたっていました。そのうえでさらに、「人民戦争の埋論を身につけさせ」る、かれらにみせ る文芸活動も「反帝・反修正主義の "火薬のにおい "がするものでなけれぱならない」、「おかしな服装、おかしな髪をしたものにたいしては説得し、大いに改造しなけれぱならない」などと主張しています。

 ところが、わが国の対外盲従分子は、まさに、このような「青年大交流」に無条件に参加することが日本の民主勢力の当然の義務である、どんな埋由があろうと、これに不参加の態度をとるものは、「反中国分子」だと、おこがましくもきめつけているのです。

(2)経済貿易展を利用した反党策動

 また、わが党が「中国経済貿易展を失敗させるためにあらゆる『努力』をはらった」などというのも、がれらの対外首従と破壊活動をごまかすための "目つぶし "にすぎません。すなわち一連の事実をまじめに検討してみれぱ、かれらこそ、中国経済貿易展を利用して、特定の外国勢力の政治路線をもちこみ、これを日本の民主運動と日中関係貿易界におしつける絶好の場にかえようと画策して、さたということを見ぬくのは困難ではありません。

 日中関係貿易界にたいする分裂策動は、六六年の春ごろからはじまったわが国のさまざまな分野の運動にたいする特定の外部勢力からの攻撃と相前後して表面化しました。昨年五月下旬ごろから、国外で一部の対外盲従分子は、わが国の海外駐在商社員などにたいして、特定の外国勢力の貿易開係者などが反帝国際統一戦線その他の問題を持ち出し、わが党にたいする口ぎたない中傷をおこなう機会をしだいに多くつくるようになりました。わが国の団体から派遣される貿易経済代表団の歓迎宴などでも、この種の中傷やひぼうがきかれるようになりました。

 一方、同じころから、国内でも、やがてひらかれようとしていた中国経済貿易展覧会の全国的受入れ団体として活動してきた全国協力会にたいし、一部関係者からさまざまの侮辱や事実上のボイコットが加えられるようになりました。全国協力会は、その一年前に発足し、中国経済貿易農にあたって、そのはたすべき任務の成功を願っていた貿易業界を中心とする各層を結集した固体です。ところが、なんの説明もないまま、全国協力会はツンボさじきにおかれ、開係者からしばしば必要な連絡もうけず、事実上無視されるという事態さえ生じました。

 中国展開催直前の八月二十九日には、中国展農覧団秘書長張子泉氏の要請にもとづき、協力会のあらゆる会議の招集について貴任をもつ岡本ご一郎協力会事務局長にも事前になんの運絡もせずに、協力会の埋事以上と張秘書長の「合同会議」がひらかれて、席上張秘書長が岡本氏ら数名を名ざしで「非協力分子」として攻撃しました。会議沼集の経過からして不明朗なこの合同会議では、けっ、さょく張秘書長の非難のままに、協力会から岡本氏らが排除されることになりました。それだけでなく、日本と中国の貿易促進のためにもっとも献身的な役割を果たして、さた日中貿易促進会も、これまた張秘書長の意向にもとづいて、解散させられるということになったのです。

 この名ざしの非難にたいして、岡本氏らは八月二十丸日の「合同会議」で、ただちに「私は中国側の措捕したことはすべて事実に反しており認めない」と反論しましたが、そのようなことばには耳もかさず、一部の対外盲従分子は、誠実に自主的立場を堅持して日中友好運動をすすめようとする人ぴとを組織排除することに全精力をささげました。このtめ、その後の一連の異営な事態の発端になった張秘書長の非難の内容について、自主的に事実を究明しようとする人は、すべて、「妨害者」ときめつけられ、自主、平等の基礎に立つべきはずの貫易促進違動は、外部勢力の大固主義的千渉にたいする事大主義的言従のわくに押し込められていくという重大な事態に立ちいたりました。

 しかも、開催された中国展では、北九州でも、名古屋でも、会場内で福目、原田一派の『長周新聞』や西沢隆二一派の『毛沢東思想研究』など覚破壊分子の反党文書が公然と販売あるいは配布されました。それどころか、名古屋では、このような反党文書の販売に批判的態度をとる一部の書店を中国展から一方的に排除するという暴挙さえおこなわれたのです。

 さらに名古屋では、開幕式にかけつけた協力会顧問のわが党の須藤五郎参議院議員の入場を阻止するなど、非常識きわまる事態がつぎつぎにひきおこされています。

 このように、中国展の開会に積極的に努力し、関係日本側各界にひとしくその貢献を評価される人ぴとを「妨害者」として開会直前に排除する策動をおこない、さらにこの中国展をわが党にたいする破壊活動のために最大限に利用しておいて、わが党や自覚的な貿易開係者に「経済貿易展を失敗させるためにあらゆろ『努力』をはらった」などという非難を、投げかけるというのは、盗人たけだけしい議論というほかはありません。(くわしくは、「日中貿易の真の妨害者はだれか」、『赤旗』一九六六年十二月十四日付参照、日本共産党中央委員会出版部発行『日本共産党重要論文集(4)』所収)

 中国の映画・演劇の公演をわが党が「さまざまな形でさまたげた」というのも、同じようなまったくのデマゴギーです。(これについては、内の項でのべます)

(3)日中友好協会におけるニつの路線の対立

 このように外国の一部の勢力がおこなった常軌を逸した干渉行為には目をつぷり、わが党わよび自主的立場をとる多くの人びとをひたすらデマと中傷で攻撃し、「あげくの果ては」外国の一部の勢力に追随して日中友好運動への「公然たる破壊活動」をおこなってきた者こそ、ほかでもなく「長周新聞」一派などの対外喜従分子たちなのです。

 それをねじまげて、わが党があたかも「破壊活動」をやってきたかのようにいうのは、それこそ「かえりみて他をいう」類いのものでしかありません。その疑間の余地のない事実として、かれらがここで「日中友好と反中国の激突」としてえがきだしている六六年八月の日中友好協会常任理事会にかんして簡単にのべておきましょう。
(くわしくは、「日中友好協会への分裂策動はこうして行なわれた」――『赤旗』六六年十一月十一日付、「国際友好に名をかりた国際盲従・事大主義」――十一月十九日付、「いわゆる三十二氏の "よびかけ "と黒田寿男氏らの言動にについて」――十二月四日付を参照)

 この八月の常任理事会にさきだって、直前の常務会議に、当時の協会事務局長であり、いまでは対外盲従主義者に転落して行動している協会脱定派の事務局長三好一から「わが協会の基本的性格と相互交流の基準について」(案)が提案されました。この提案は、「最近の日中友好運動の一部に、人事交流などに際して、国際情勢や国際反帝闘争、国際平和運動などに関連して、特定の立場や見解がもちこまれ、その結果、自主性を基礎にしてこそ発展しうるわが協会と日中友好運動に一定の障害と困難がつくりだされています」とのべ、特定の外国勢力が日本の民主運動の内部問題に不当に干渉していることが、今日の国際友好運動の困難の原因であると正しくも指摘していました。またこの提案には、日中友好運動と協会が「日本国民のなかから生まれた自主的運動」であり、「思想・信条、政党政派の別をこえた国民運動」であることを再確認し、交流にあたって「相互に相手方の組織と運動の性格を理解し、その自主性を尊重し、これに反する一方の見解を他方におしつけるようなことを厳につつしむ」などまことに適切な「相互交流の基準」を明らかにしていました。

 ところが常務会議では、この基本的に正しかった原案に宮崎世民、大森真一郎、島田政雄らが大いに「激突」し、原案をさんざん改悪し、まったく反対のものに書きかえて第十二同常任理事会にもちこみ、一部の対外盲従分子とともに正しい日中友好を説く人びとに「激突」をしかけ、そのため、七月末の協会の基本性格の再確認問題は審議保留にもちこされたのでした。この間の事情は六六年十二月五日付『日中友好新聞』が明らかにしているところです。

 このあとにわかに、この対外盲従主義者たちは「反中国」分子排除と称して、公然たる協会にたいする破壊活動を、外国勢力の意向をうけて開始したのでした。


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