3.今日の毛沢東路線の反マルクス・レーニン主義的性格


(1) 「毛沢東思想」を全世界におしつける大国的排外主義

 毛沢東を中心とする中国共産党の極左日和見主義、大国主義分子は、昨年〔一九六六年〕の四月ごろから、「毛沢東思想」を「現代のマルクス・レーニン主義の最高峰」としてみずから宣言し、国際共産主義運動が、これを世界革命の指導理論としてみとめること、いいかえれば、毛沢東一派の思想的政治的指導権をうけいれることを、公然と要求しはじめた。

 昨年〔一九六六年〕六月一日付『人民日報』が、編集部の名前でかかげたつぎの文章は、「毛沢東思想」に世界の革命運動全体が無条件に服従することを要求する毛沢東一派の極端な大国主義を、もっとも露骨に表明したものであった。

 「われわれの偉大な指導者毛主席は、六億五千万中国人民の心の太陽であるとともに、全世界すべての革命的人民の心の太陽である。・・・・
 毛主席が全世界の革命的人民の間でこうしたきわめて高い威信をもっているのは、毛主席がマルクス・レーニン主義を天オ的、創造的、全面的、完全、系統的に発展させたからである。毛沢東思想は、マルクス・レーニン主義の普遍的真理と中国革命の具体的実践をむすびつけたものであるばかりでなく、マルクス・レーニン主義の普遍的真理と世界革命の具体的実践をむすびつけたものである。毛沢東思想は、中国革命の経験を総括しているばかりでなく、現代の世界革命の経験をも総括している。毛沢東思想は中国革命の百科全書であるばかりでなく、世界革命の百科全書でもある。毛沢東思想は、現代のマルクス・レーニン主義の最高峰であり、もっとも高度でもっとも生きたマルクス・レーニン主義である。
 毛沢東思想は、この偉大な革命の時代に生まれた偉大な革命理論なのであって、世界中どこにでもあてはまる普遍的真理である。世界のすべての被抑圧人民と被抑圧民族は、革命の真理を求めようとするかぎり、ごく自然のこととして毛沢東思想をさがしあて毛沢東思想をかれらの解放をかちとる指針とすることになる。・・・・
 世界の革命的人民は、帝国主義、現代修正主義、各国反動派にうちかつ強大な武器として、毛沢東思想を身につけることをますます切実に望んでいる。かれらは、偉大な毛沢東思想にたよれば、かならず万難を排して革命闘争の道を勝利から勝利へ進むことができる、と確信している。毛沢東思想の光は、いま全世界を照らしているのである」(一九六六年六月一日付『人民日報』編集者のことば「毛沢東思想は世界人民の革命の灯台」)

 それ以来、『人民日報』には、「毛沢東思想の光は全世界を照らす」、「毛主席は世界人民の心の赤い太陽」、「毛主席を熱愛する世界人民」、「毛沢東思想は世界の革命的人民の共通の財産」、「世界の革命的人民の心は毛主席に向かう」、「毛沢東思想は世界の革命的人民の前進を導いている」など、「毛沢東思想」を世界人民の指導思想としておしつける特集や記事が、ほとんど毎号のように掲載されるようになった。

 また、昨年〔一九六六年〕八月の中国共産党第十一回中央委員会総会は、「毛沢東思想」を絶対化するこの見地を、公式に決定した。

 「毛沢東同志は、現代のもっとも偉大なマルクス・レーニン主義者である。毛沢東同志は、マルクス・レーニン主義を天オ的、創造的、全面的にうけつぎ、まもり、発展させ、マルクス・レーニン主義をまったく新しい段階に高めた。毛沢東思想は、帝国主義が全面的な崩壊にむかい社会主義が全世界的な勝利にむかう時代のマルクス・レーニン主義である」(「中国共産党第十一回中央委員会総会の公報」)

 総会直後の『紅旗』は、この総会の「偉大な歴史的意義」について、こう評価してみせた。

 「今回の会議 (第十一回中央委員会総会)のもっとも大きな特徴の一つは、毛沢東思想の偉大な赤旗を高くかかげ、マルクス・レーニン主義の発展史における毛沢東思想の意義と地位を科学的にあきらかにしたことにある。・・・・
 われわれの時代においては、毛沢東思想から離れることは、とりもなおさずマルクス・レーニン主義に根本的にそむくことである。それは、マルクス主義がレーニン主義の段階に発展した時期において、レーニン主義から離れることが、またとりもなおさずマルクス・レーニン主義に根本的にそむくことであったのと同じである」(『紅旗』、一九六六年第十一号社説「毛沢東思想の道を勝利のうちに前進しよう」)

 スターリンがレーニン主義を「帝国主義とプロレタリア革命の時代のマルクス主義」と規定したのになぞらえて、「毛沢東思想」を「帝国主義が全面的な崩壊にむかい社会主義が全世界的な勝利にむかう時代のマルクス・レーニン主義」と規定してみせた第十一回中央委員会総会のこの決定は、一九五六年の中国共産党第八回大会で決定された党規約の精神を根本的にくつがえしたものである。すでにのべたように、この第八回党大会では、党規約の改正がおこなわれたが、その重要な改正点の一つは、「中国共産党は,マルクス・レーニン主義の理論と中国革命の実践を統一した思想――毛沢東思想を自己のあらゆる活動の指針とする」(総綱)という従来の規定を、「中国共産党は、マルクス・レーニン主義を自己の行動の指針とする」(総綱)とあらためて、党の最高の指針がマルクス・レーニン主義にあることを、明確にしたことであった。

 ところが、毛沢東一派は、この党規約の規定を乱暴にやぶりすてて、昨年〔一九六六年〕の第十一回中央委員会総会で、「毛沢東思想は全党、全国のすべての活動の指導方針である」と宣言し、さらにそれだけでなく、これを現代のマルクス・レーニン主義そのものであるかのように規定して、世界各国の人民がこれをすべての活動の「指導方針」とすることを、要求するにいたったのである。

 さらに、最近では、毛沢東一派は、「毛沢東思想」を、たんに「現代のマルクス・レーニン主義の最高峰」として礼賛するにとどまらず、いっそうはっきりとレーニン主義の段階をこえるマルクス主義の第三の発展段階とよびはじめた。

 「マルクスとエンゲルスは科学的社会主義の理論をうちたてた。レーニンとスターリンはマルクス主義を発展させて、帝国主義時代のプロレタリア革命の一連の問題を解決し、一国内でプロレタリアート独裁を実現させる理論的、実践的問題を解決した。毛沢東同志はマルクス・レーニン主義を発展させて、現代のプロレタリア革命の一連の問題を解決し、プロレタリアート独裁のもとで革命をおこない、資本主義の復活を防止する理論的、実践的問題を解決した。これはマルクス主義発展史上における三つの偉大な里程標である。・・・・
 二〇世紀の初期に、マルクス主義はレーニン主義の段階に発展した。現代において、それはまた毛沢東思想の段階に発展しているのである」(一九六七年五月十八日『紅旗』編集部、『人民日報』編集部「偉大な歴史的文献」)

 マルクス主義のレーニン主義的段階を、すでにのりこえられた過去の段階とみなし、「毛沢東思想」こそが、レーニン主義にかわるマルクス・レーニン主義の今日的段階をあらわすものだと主張することは、けっきょくのところ、マルクス・レーニン主義を「毛沢東思想」なるもので全面的におきかえることを意味している。事実、林彪などは「マルクス・レーニン主義の経典的な著作のなかで、九九パーセントは毛沢東の著作を学ばなければならない」と主張している。このように、自分たちの「思想」をレーニン主義の段階につづくマルクス・レーニン主義の新しい段階としてみとめよなどという要求は、「世界情勢の根本的変化」を理由に、マルクス・レーニン主義の右翼的な修正をくわだてたフルシチョフらの現代修正主義者でさえ、あえてもちだしえなかった要求であり、毛沢東一派の極左日和見主義と大国主義が、いまやマルクス・レーニン主義の修正を公然と要求する「左からの修正主義」にまで到達していることを、公然と自認してみせたものである。

 そして、毛沢東一派は、こうしてマルクス・レーニン主義を公然と「毛沢東思想」なるものでおきかえたうえで、世界の革命運動が、この「毛沢東思想」を無条件に自分の「指導理論」とすることを要求し、「毛沢東思想」が現代におけるマルクス・レーニン主義の最高峰であることをみとめるかどうかが「革命か反革命かのわかれ道」だと主張し、かれらのこの不当な要求をうけいれないすべてのマルクス・レーニン主義党までも「修正主義」「反革命」「アメリカ帝国主義の共犯者」などとののしって、あらゆる不当な攻撃をくわえてきたのである。

 これが、全世界の人民と革命運動が毛沢東一派に思想的に従属することを主張する、きわめてごう慢な大国的排外主義の要求であることは、明白である。

(2) 「毛沢東思想」の過去と現在

 そもそも毛沢東一派が、「毛沢東思想」を「現代におけるマルクス・レーニン主義の最高峰」などとひとりぎめし、全世界の革命運動が、これを最高の「指導理論」として崇拝することを要求していること自体、「毛沢東思想」なるものが「最高峰」であるどころか、マルクス・レーニン主義に反するものに転化してしまっていることを証明している。これらの主張は、いかなる科学的根拠ももたないまったく非科学的独断にすぎない。

 第一に、毛沢東が中国人民の解放闘争のなかで発表してきた著作が、中国の革命運動を指導するうえで大きな積極的役割をはたしてきたことはたしかであるとしても、そのことは、毛沢東の著作や言説が、「世界革命の指導思想」としての普遍的意義をもつことを証明するものでは、けっしてない。中国革命のなかで積極的役割をはたしてきた毛沢東の過去の著作は、毛沢東自身が以前にはくりかえし強調していたように、「マルクス・レーニン主義の理論を中国革命の実際運動と結合させる」(「われわれの学習を改革しよう」、『毛沢東選集』三巻上一九ページ)ことによってえられた成果である。そして、それらは、中国革命の具体的特殊性を十分に考慮にいれ、マルクス・レーニン主義の諸原理を中国の具体的な条件に応じて正しく適用した結論であったからこそ、指導的役割をはたしえたのであり、だからこそ、マルクス・レーニン主義の発展に一定の貢献をおこないえたのである。したがって、それが、中国の革命運動の指導理論としてどんなに大きな成功をおさめたとしても、そのことを理由にして、これをすべての国の革命運動にあてはまる「普遍的真理」として絶対化するわけにはいかない 。

 レーニンは、国際的な革命運動の経験を摂取することの重要な意義をつねに力説しつつ、同時に、「それぞれの国は、自己の貴重な独創的な特徴を共同の流れのなかにもちこむが、しかし個々の国では、運動はなんらかの一面性、個々の社会主義政党のなんらかの理論上または実践上の欠陥をもっている」(「世界政治における可燃材料」、全集十五巻一七二ページ)こと、さらに他の国ぐにの経験を正しく摂取するためには、「この経験を批判的にとりあつかい、それを自主的に検討する能力が必要である」(「なにをなすべきか」、全集五巻三八九ページ)ことを指摘し、外国の経験や理論を無批判にうけいれる事大主義におちいることを、つよくいましめていた。

 今日、「毛沢東思想」を信仰する内外の教条主義者たちがやっているように、このレーニンの教えを無視して、毛沢東の著作で展開されている諸理論――革命理論、軍事理論にせよ、文化・芸術理論にせよ、党建設の理論にせよ――を、すべての国の革命運動をみちびく最高の教条として絶対化し、とくに、わが国のように、高度に発達した資本主義国でありながらアメリカ帝国主義の支配下にある複雑な階級闘争、民族闘争の諸条件をもっている国に、中国革命の理論や戦術を「指導理論」として機械的にもちこむことは、マルクス・レーニン主義の基本的要請にそむき、最悪の教条主義の誤りをおかすことであり、革命の事業に重大な損害をあたえるものである。

 毛沢東一派やこれに迎合する対外盲従分子は、「毛沢東思想」の普遍妥当性を主張するため、毛沢東思想が「マルクス・レーニン主義の理論と中国革命の実践とをむすびつけた」ものであるだけでなく、「マルクス・レーニン主義と世界革命の実践とをむすびつけた」ものであるということを、しきりに強調している。しかし、この主張も、具体的な根拠をかいたひとりよがりの独断にすぎない。

 マルクス、エンゲルス、レーニンがっくりあげたマルクス・レーニン主義の学説が、世界革命の指導理論としての普遍的意義をもっているのは、マルクス、エンゲルス、レーニンが、たんに自国の情勢を分析し自国の革命運動の経験を研究しただけではなく、世界資本主義の政治、経済の諸関係の総体の全面的な科学的研究をおこない、世界のすべての国の革命運動の経験を全面的に研究し、その総括にもとづいてマルクス・レーニン主義の革命理論をうちたてたからである。これにたいして、毛沢東が、中国人民の解放闘争の過程で発表した一連の著作のなかで研究したのは、主として中国の革命運動の諸問題であり、マルクス・レーニン主義の一般的原理の導きのもとに、「中国革命の理論問題や戦術問題を解決する」(毛沢東、前掲)ことであった。『毛沢東選集』全四巻をみても、そこには、マルクスやレーニンの全著作と異なって、体系だった経済学の研究もなければ、社会主義経済建設の理論もないだけでなく、世界資本主義の政治、経済を全面的に分析した著作や中国以外の国ぐにの革命運動の諸問題を系統的に研究した著作は文字どおりまったく一編もない。なかでも、発達した資本主義国に おける革命運動の問題は、『選集』全四巻をつうじて、個々の断片的な言及以外にはほとんど論じられていない。いったい、今日の世界の複雑な政治、経済、社会、文化の諸問題や、中国以外の国ぐにの革命運動の諸問題、とくに発達した資本主義国における民主主義革命や社会主義革命の問題について、なんらの系統的な研究をふくまず、まとまった結論をあたえてもいないような「思想」や「理論」が、どうして現代の「世界革命の指導理論」としての意義や資格をもちうるだろうか。それが、そのような普遍的意義をもちえないことは、あまりにも明白なことである。

 そして、「毛沢東思想」を「世界革命の経験の総括」だと強弁する人びとの主張も、けっきょくのところは、中国革命の経験と理論を、世界革命の普遍的法則として絶対化し、具体的情勢のちがいを無視して、他国の革命運動に機械的にもちこむ反マルクス・レーニン主義的見地に、帰着せざるをえないのである。

 第二に、現在、中国共産党の極左日和見主義、大国主義分子が、「毛沢東思想」として絶対化している今日の毛沢東路線は、中国革命のなかで指導的役割をはたした毛沢東の過去の主張や理論とは、基本的に異質なものである。

 たとえば、中国革命を指導した毛沢東の革命理論のなかでは、統一戦線の理論と政策はきわめて重要な地位をしめていた。とくに抗日戦争の時期に、蒋介石の国民党が抗日と反共、反動の二面政策をとっていることを正確に分析し、闘争によって団結をもとめる「革命的な二面政策」(「当面の抗日統一戦線における戦術の問題」、『毛沢東選集』二巻下五四二ページ)をもってこれに対処しつつ、国共合作を成立させ、抗日民族統一戦線を発展させたことは、当面の主敵を打倒するために結集しうるすべての勢力を結集するマルクス・レーニン主義の統一戦線政策をみごとに適用したものであった。ところが、今日の毛沢東路線では、この統一戦線政策は、完全に投げすてられている。修正主義との闘争を理由にして、ソ連共産党指導部などを反帝国際統一戦線から排除することを要求する毛沢東一派の「反米・反ソ統一戦線」論が、毛沢東が過去に主張し実行した抗日民族統一戦線の精神とまっこうから対立するものであり、世界人民の共通の最大の敵――アメリカ帝国主義をよろこばす分裂主義の方針であることは、あらためて論証するまでもなく明白であろう。

 また、毛沢東の過去の著作のなかでは、農村を根拠地として、長期にわたって武装闘争を展開するという「人民戦争」方式は、「中国革命の特徴と長所」をなすものであって、他の資本主義国にはあてはまらないものだということが、くりかえし強調されていた(「中国の赤色政権はなぜ存在することができるのか」一九二八年、「中国革命戦争の戦略問題」一九三六年、「戦争と戦略の問題」一九三八年など)。ところが、今日では、毛沢東一派はその不当な一般化をいましめた毛沢東自身の以前の言説をもほごにして、「毛沢東思想」の名のもとに、中国流の「人民戦争」方式を、世界の革命運動の普遍的原則として、全世界におしつけようとしている。

 党内闘争の問題についても、毛沢東は、過去には、党内の矛盾や意見の相違を解決するのに、「『無慈非な闘争』と『容赦のない攻撃』をくわえ、はては犯罪者や敵にたいする闘争の方式で『党内闘争』をおこなう」といった「左翼」教条主義者たちの誤った党内闘争の方法に極力反対し、「団結の願いから出発し、批判または闘争をつうじて、是非をあきらかにし、新しい基礎の上に新しい団結に達する」という方法を、党内闘争の原則にすることを主張した(「若干の歴史的問題についての決議」、『毛沢東選集』三巻下二五八ページ、「人民内部の矛盾を正しく処理する問題について」)。ところが、今日、毛沢東一派は、以前にみずから主張した党内闘争の原則をもっとも乱暴にふみにじり、自分たちが以前にきびしく批判した「左翼」教条主義者たちの「無慈悲な闘争、容赦のない攻撃」という方法を、いっそう大規模に、いっそう野蛮で凶暴な形態で採用して、党の団結を根本から破壊しているのである。

 さらに、共産党の組織と規律の破壊の問題についていえば、毛沢東自身、以前には、党の統一の規律をまもることの決定的な重要性を、くりかえし力説していた。

 「張国トウの重大な規律破壊の行為にかんがみ、党の規律をもう一度言明しておかなければならない。すなわち、(一)個人は組織にしたがい、(二)少数は多数にしたがい、(三)下級は上級にしたがい、(四)全党は中央にしたがうという規律である。これらの規律をやぶるものは党の統一を破壊するものである」(「民族解放戦争における中国共産党の地位」、『毛沢東選集』二巻上二四九ページ)

 ところが、今日、毛沢東一派は、このように、世界の共産主義運動の経験全体をつうじて確立された試練ずみのマルクス・レーニン主義の組織原則、以前は毛沢東自身がその重要性を強調していたマルクス・レーニン主義の根本原則を、「造反有理」(むほんには道理がある)という一片のことばによってうちけし、中国の国内で、中国共産党の党規律の破壊や党組織の解体を正当化するだけでなく、反党対外盲従分子をそそのかして日本共産党の破壊と転覆をはかる、他国の革命運動にたいする空前の大国主義的干渉を、公然と正当化しようとしているのである。

 もともと、「造反有理」というスローガンは、一九三九年、延安各界のスターリン還暦祝賀大会での毛沢東の講話のなかから、ぬきだされたものである。「マルクス主義の道理はいろいろあるが、つきつめてみれば、それは『むほんには道理がある』(造反有理)の一句につきる」。

 周知のように、人民が反人民的な政治制度にたいして「むほん」の権利をもつことは、マルクス主義に固有の思想でもなんでもなく、たとえば、一七七六年のアメリカの独立宣言にも明記されていることで、ブルジョア革命における革命的民主主義者が一致して承認してきた「道理」である。マルクス主義の科学的社会主義の全学説を、この平凡で単純な「道理」に解消してしまう毛沢東のことばは、マルクス主義の卑俗化、粗雑な単純化のひとつの典型的な例だが、ともかく、ここで毛沢東がのべた「造反(むほん)」とは、帝国主義や反動勢力の支配を打倒する革命のことであって、共産党の内部での「むほん」を意味するものでなかったことはいうまでもない。しかし、このことばは、今日の毛沢東路線においては、二十数年前のそれとはまったく異質な、あたらしい意味と役割をあたえられている。すなわち、それは、帝国主義や反動勢力の支配に反対する人民革命へのよびかけではなく、なによりもまず共産党とその規律にたいする「むほん」、党規約のじゅうりんを、毛沢東の名で正当化するものとして、登場させられたのである。
 以上は、ごく一部の事例を指摘したにすぎないが、これだけでも、今日の毛沢東路線が、『毛沢東選集』などに結実している毛沢東の過去の主張や理論とは異質なものに変化していることを、証明するには十分であろう。今日の毛沢東路線は、たんに個々の国の革命運動が多くの場合まぬかれない「なんらかの一面性」、「なんらかの理論上または実践上の欠陥」(レーニン)をもっているというだけではなく、多くの根本問題で、過去には毛沢東自身が承認していたマルクス・レーニン主義の原則を放棄し、基本的にマルクス・レーニン主義とは無縁なものに変質してしまっているのである。

 そして、今日の毛沢東路線の反マルクス・レーニン主義的性格を、もっとも極端なかたちで露呈してみせたのは、いわゆる「プロレタリアートの独裁のもとでの革命」の理論である。すなわち、それは、『紅旗』編集部、『人民日報』編集部の「偉大な歴史的文献」によれば、(1)プロレタリアート独裁がうちたてられたのちにも、党と政府の指導機関のなかには、かならずブルジョアジーの代表者がまぎれこんで、プロレタリアート独裁を転覆し、これをブルジョア独裁に変えようとする、(2)したがって、プロレタリアート独裁の条件のもとでも、資本主義復活を防止するためには、「革命」をおこなわなければならない、この「革命」の主要な対象は、プロレタリアート独裁の機構内にまぎれこんだブルジョアジーの代表者、資本主義の道を歩む党内の実権派である、(3)この「革命」は一回だけですむものではなく、共産主義の最後の勝利が実現されるまでの非常に長い歴史的時期のあいだに、かならずくりかえしおこなわれなければならない、というものである。

 中国共産党の極左日和見主義、大国主義分子は、毛沢東がこの「プロレタリアート独裁のもとでの革命」の問題を「解決」したことを、毛沢東の「国際プロレタリアートにたいする理論と実践の面からの最大の貢献」とよび、毛沢東のこの発見によって、マルクス主義は、レーニン主義をこえる第三の新しい発展段階「毛沢東思想の段階」に発展したなどと主張している。かれらによれば、この問題は、マルクスとエンゲルスがその当時解決することができず、レーニンも、その実際的解決を待たず逝去(せいきょ)し、スターリンが死の一年前にやっと問題の所在に気がついたプロレタリア革命の未解決の根本問題であって、毛沢東がこれを解決したことこそ、「マルクス主義がまったく新しい段階に発展したことをしめすもっとも重要な目じるし」だというのである。(前掲『紅旗』編集部、『人民日報』編集部「偉大な歴史的文献」)

 「毛沢東思想」をレーニン的段階にかわる第三の段階として大げさにもちあげる最大の根拠とされているこの「プロレタリア独裁のもとでの革命」の「理論」なるものも、その中身はといえば、自分たちの無制限の専制支配をうちたてるために、中国共産党をはじめプロレタリアート独裁の諸組織を解体、私物化してきた毛沢東一派の解党主義的、反社会主義的行為を合理化するために、それをあとから「理論」づけただけのものにすぎない。毛沢東がおこした「プロレタリア文化大革命」なるものの反マルクス・レーニン主義的実態は、すでに前章でくわしくあきらかにしたが、社会主義建設の過程での階級闘争の必然性や、現代修正主義と資本主義復活の危険との闘争の重大性を口実に、社会主義の勝利の不可欠の保障であるマルクス・レーニン主義党および社会主義国家の諸組織の解体と私物化を「革命」と称して正当化し、この種の「革命」を何回もくりかえさなければならないと主張するこの「理論」は、マルクス・レーニン主義の新しい発展段階をしめすものであるどころか、マルクス・レーニン主義の社会主義革命と社会主義建設の理論、なかんずくマルクス・レーニン主義の核心の一つをなす プロレタリアート独裁の理論と実践を、根本から否認したものである。そこには、マルクス・レーニン主義と共通のものはまったく存在しない。このような反マルクス・レーニン主義的「理論」を、マルクス、エンゲルスも、レーニンもスターリンも提出しようとしなかったのは、当然のことである。

 しかも、注目しなければならないのは、毛沢東のこの「理論」が、理論的には、トロツキーの悪名高い「永続革命」論、「第二の補足的革命」論の再版だということである。
 トロツキーは、その著書「永続革命論」(一九三〇年)のなかで、プロレタリアート独裁のもとでの不断の革命、革命の永続化を主張した。

 「永続革命論・・・・は社会主義革命をも永続的なものとして特徴づける。無限の長期間にわたって、また不断の内部闘争において、すべての社会的諸関係は変革される。・・・・内戦と対外戦争のぼっ発は、『平和的』改造の時期と交互にあらわれる。経済、技術、科学、家族関係、道徳および習慣の革命は複雑な相互作用において発展してゆき、社会をして均衡状態に到達することをゆるさない」(トロツキー「永続革命論」)

 トロツキーは、その著書「裏切られた革命」(一九三六年)のなかで、このプロレタリアート独裁のもとでの不断の「革命」の理論をいっそう具体化して、当時のソ連を、特権的官僚層の専制支配下にある「資本主義と社会主義との中間にある矛盾した社会」、矛盾の発展いかんによっては「社会主義へと導くこともできるが、また資本主義へも導きうる」社会と規定し、社会主義への道を確保するためには、官僚政府、つまり共産党とソビエト政府を転覆する「新しい政治革命」「第二の補足的な革命」が必要だと主張した。

 「たちおくれた国のプロレタリアートが、最初の社会主義革命を完成する運命をになった。あらゆる証左によれば、この歴史的特権の代償として、かれらは、第二の補足的革命――官僚専制政治にたいする――を遂行しなければならない」(トロツキー「裏切られた革命』)

 毛沢東の「プロレタリアート独裁のもとでの革命」の理論は、あきらかに、トロツキーのこの「永続革命」論と「第二の補足的革命」論を、新しいよそおいのもとで復活させ、それを、毛沢東一派による党と国家の解体と私物化を正当化する理論的な道具としたものにほかならないのである。

 このように、いま「毛沢東思想」として礼賛、崇拝を要求している今日の毛沢東路線は、基本的に、マルクス・レーニン主義と異質のものに変化してしまっている。ただ自国の指導者の著作や見解を世界最高の理論として崇拝し、これを国際的におしつけようとする盲目的大国主義の立場や、それに盲従する卑屈な事大主義の立場にたたないかぎり、この今日の反マルクス・レーニン主義的な毛沢東路線を「現代におけるマルクス・レーニン主義の最高峰」とか「世界革命の指導思想」とか称することができないことは、マルクス・レーニン主義者にとってはまったく自明のことである。

(3)歴史的に証明ずみの「毛沢東思想」絶対化の誤り

 とくに、日本人民の解放闘争のなかでは、「毛沢東思想」を日本革命の指導理論としておしつけたり、毛沢東の言説を絶対化してこれに盲従したりすることの誤りは、戦後の一連の苦い実践的経験をつうじて、すでに証明ずみの問題である。

 なかでも、もっとも重要な経験は、一九五〇年以後のわが党の分裂の時期の極左冒険主義の誤りである。

 当時、中国共産党の指導部は、農村に人民解放軍とその根拠地を建設し、長期にわたる武装闘争にって勝利を獲得した中国革命の経験を不当に一般化して、中国人民が勝利をかちとった道――「毛沢東の道」こそ、いくたの植民地、半植民地の解放闘争の基本的な道となりうるものであり、解放闘争の主要な形態は武装闘争であると主張した(劉少奇「アジア・大洋州労働組合代表者会議の開会の辞」、一九四九年十一月)。

 そして、一九五〇年六月、アメリカ帝国主義が日本を基地として、朝鮮侵略戦争を開始したのち、中国共産党指導部などは、当時分裂状態にあったわが党の内部問題に介入して日本がアメリカ帝国主義に占領されてその従属国になっているということから、農山村に根拠地を建設し、長期にわたる武装闘争によって革命の勝利を準備するという中国の武装闘争路線をわが国にも適用するように主張した。これにたいし、わが党の一部は、事大主義的態度でこうした主張をうけいれ、極左冒険主義的戦術を採用したのである。一九五一年十月に採用されたいわゆる「五一年綱領」は、日本の革命の展望について、「日本の解放と民主的変革を、平和の手段によって達成しうると考えるのは、まちがいである」と規定し、極左冒険主義の路線に綱領的な裏づけをあたえたが、この「新綱領」の採用も、ソ連共産党と中国共産党の大国主義的干渉とむすびついて、おこなわれたものであった。

 この極左冒険主義の戦術は、敗戦によってアメリカ帝国主義に占領され、独立を失ったとはいえ、発達した資本主義国であるわが国を、アジアの植民地、半植民地諸国と同一視し、その解放闘争の条件を正しくみない、根本的に誤った方針であり、アメリカ帝国主義の朝鮮侵略という重大な時期にわが党と日本人民の解放闘争にきわめて大きな損害をあたえた。それは、大衆のなかでの党の権威を傷つけ、わが党を人民から孤立させると同時に、これを実践した多くの党活動家と幹部に、筆舌につくしがたい犠牲をはらわせた。選挙での得票数は、一九四九年一月の衆議院選挙における三百万票弱から一九五三年四月の六十五万票へと大幅にへり、労働組合運動をはじめとする大衆運動、大衆諸組織への党の影響力も、大きく後退した。党勢も、一九四九年に十数万をかぞえた党員が、数万に激減するにいたった。これらは、アメリカ占領軍の凶暴な弾圧による打撃とともに、党の分裂の影響、とくに、極左冒険主義の誤りの深刻な結果をしめしたものにほかならなかった。

 極左冒険主義をめぐるこの歴史的経験は、兄弟党の経験や意見から必要な教訓を自主的、批判的に摂取するという域をこえて、外国の革命の路線を日本革命の指導路線としたり、外国の党指導者の主張や見解を絶対化して、その大国主義的おしつけに盲従したりすることが、日本革命の事業をどんなに危険な道にみちびくかということを、党と人民のにがい経験と犠牲をつうじて、あきらかにしたものであった。わが党は一九五八年の第七回党大会で、極左冒険主義の誤りをふくめ、五〇年問題の全面的な総括をおこない、その教訓にもとづいて、それ以後、今日の自主独立の路線を自覚的に確立した。また、毛沢東自身も、一九五九年三月、宮本書記長を団長とする日本共産党代表団との会談のさいに、中国共産党が、五〇年問題の時期に、日本問題にかんしてとった態度は正しくなかったとみずからすすんでのべ、わが党の内部問題への干渉や極左冒険主義の路線と「五一年綱領」のおしつけなどの誤りを、率直に承認したのである。

 ところが、いま、毛沢東一派は、以前はみずからもみとめた五〇年問題の教訓を無視して、ふたたび極左冒険主義の路線を日本の革命運動におしつけようとしており、西沢隆二、安斎庫治などの反党対外盲従分子などは、これに迎合して、第七回党大会で廃棄された「五一年綱領」までももう一度かつぎだして、かつて党と革命事業に重大な損害をあたえた極左冒険主義の戦術の「再評価」をおこなおうとしている。これは、毛沢東一派と反党対外盲従分子たちが、口先では日本の革命運動の発展を望んでいるかのようによそおっているが、実際には、日本の革命運動を毛沢東一派の支配下におくことだけを目的とし、そのためには、革命の事業にどんな損害をあたえることもいとわない、挑発的かく乱者の立場にまで転落していることを、あらためて暴露したものである。

 さらに一九六四年一月の、日本人民の「反米愛国の統一戦線」についての毛沢東の発言と、それを一つの契機にした四・一七ストライキをめぐる誤りも、毛沢東の言説を絶対化して、これを日本人民の闘争の無条件の指針にする毛沢東崇拝の誤りを、日本人民の実践的経験をつうじて証明したものの一つでありった。

 毛沢東は、一九六四年一月二十七日に、独立、民主、平和、中立をもとめる日本人民の闘争を支持する声明を発表し、そのなかで、アメリカ帝国主義だけを日本人民、日本民族の主敵とする「一つの敵」論の立場から、「日本人民の反米愛国の闘争」、「日本の各階層の人民の、アメリカ帝国主義の侵略と圧迫、支配に反対する愛国の統一戦線」について強調した。

 「日本は第二次世界大戦以後、政治、経済、軍事のうえで、ずっとアメリカ帝国主義の圧迫をうけてきた。アメリカ帝国主義は、日本の労働者、農民、学生、インテリゲンチャ、都市の小ブルジョアジー、宗教家、中小企業者を圧迫しているだけでなく、日本の多くの大企業家を支配し、日本の対外政策に関与し、日本を従属国にしている。アメリカ帝国主義は日本民族のもっとも凶悪な敵である。

 日本民族は偉大な民族である。アメリカ帝国主義が長期にわたって頭上に君臨するのを日本民族は絶対にゆるすはずがない。この数年来、日本の各階層の人民の、アメリカ帝国主義の侵略と圧迫、支配に反対する愛国の統一戦線はたえず拡大している。これは日本人民の反米愛国闘争の勝利のもっともたしかな保証である。中国人民は、日本人民がきっとアメリカ帝国主義を自国から追いだすことができるにちがいないし、独立・民主・平和・中立をもとめる日本人民の願いがきっと実現することができるとふかく信じている」

 毛沢東のこの声明は、基本的には、日本人民の闘争にたいする中国共産党の連帯の意思をつよく表明したものであった。しかし、日本の情勢や日本人民の闘争の発展の方向にたいするその評価は、高度に発達した資本主義国でありながらアメリカ帝国主義になかば占領されてその事実上の従属国となっている日本の情勢の基本的な特徴をも、アメリカ帝国主義と日本独占資本が、闘争の主要な打撃を集中すべき日本人民の二つの主敵であることをも正しくは理解せず、すべてをアメリカ帝国主義の支配とこれに反対する反米愛国の闘争に解消してしまう一面性におちいっていた。

 日本の情勢についての毛沢東のこの一面的な評価は、けっして偶然のものではなかった。当時、毛沢東を中心とする中国共産党指導部は、世界を、アメリカと社会主義陣営とそのあいだにある「広大な中間地帯」とにわけ、アメリカ帝国主義は、この「中間地帯」を侵略し、奪取しようとたくらんでいるから、「この地帯にあるすべての人民と国家」を、その国の支配階級をもふくめて反米国際統一戦線に結集する可能性がうまれているという、独得の「中間地帯」論をとなえていた。毛沢東らの主張によれば中間地帯は、「アジア、アフリカ、ラテンアメリカのすでに独立した国といま独立をめざしている国」からなる「第一の中間地帯」と、「西ヨーロッパ全体、オセアニアとカナダなどの資本主義国」からなる、いいかえれば、アメリカ以外の世界の独占資本主義国のすべてをふくむ「第二の中間地帯」とにわかれており、この両方の地帯のすべての国ぐにが、アメリカ帝国主義に反対する国際統一戦線に参加しうるというのである。毛沢東ら中国共産党指導部は、この「中間地帯」論にもとづいて、アメリカ以外の世界の独占資本主義国の支配階級を、アメリカの支配に反対する「反米勢力」と評価し 、日本だけでなく「すべての資本主義国と帝国主義国」において、プロレタリア政党は、国内の統一戦線の路線としてもアメリカ帝国主義とその手先に反対する「反米愛国の統一戦線」を基本方針とすべきだとする見解を主張していた。

 「第二の中間地帯にある国ぐには二重の性格をもっている。これらの国ぐにの支配階級は一方で他人を搾取し、抑圧しているが、他方でまたアメリカの支配、干渉、侮辱をうけている。それゆえ、かれらはなんとかしてアメリカの支配からぬけだそうとはかっている。この面では、かれらは社会主義諸国や各国人民と共通点をもっているのである」
 「すべての資本主義国と帝国主義国におけるプロレタリア政党の当面の重大な任務は、アメリカ帝国主義反対の旗を高くかかげ、自国のすべての愛国勢力と反米勢力を自身のまわりに団結させ、アメリカ帝国主義とその手先に反対するたたかいを断固としてすすめることである」(『人民日報』一九六四年一月二十一日付社説「アメリカ帝国主義に反対する全世界のすべての勢力は団結しよう」)

 発達した資本主義国の独占ブルジョアジーを「反米勢力」としては「社会主義諸国や各国人民と共通点をもっている」とまで評価し、それが、独立した帝国主義国においてはもちろんのこと、アメリカ帝国主義の政治的、経済的、軍事的な支配下にある日本などにおいても、人民の闘争の主要打撃をむけるべき主敵の一つであることを否定するこの「中間地帯」論の根底には、あきらかに、一種の独占資本弁護論が横たわっていた。

 すなわち、「中間地帯」論者は、多くの国の支配的独占ブルジョアジーが、社会主義陣営と民族解放運動、自国の革命運動に対抗するために、「アメリカを盟主とする軍事的、政治的同盟に結集している」(一九六〇年の共産党・労働者党代表者会議の声明)第二次大戦後の世界情勢の特徴、とくに日本では、復活強化した日本独占資本がアメリカ帝国主義との矛盾や対立をもちながらも、基本的には、アメリカ帝国主義との従属的同盟を維持し、そのアジア侵略政策の一翼をになう売国と侵略の道に、その軍国主義、帝国主義復活の基本的方向をもとめていることを理解できず、アメリカ帝国主義による主権侵害にたいするその国の独占ブルジョアジーの反発や対立だけを一面的に誇張し、日本の売国的独占資本などを解放前の中国の民族ブルジョアジーと同列視して、人民と共通点をもつ「反米勢力」と評価するにいたったのである。

 しかし、こうした評価がまったく一面的、主観的なものであることは、その後の国際情勢、とくに日本の情勢の進展によって、すでにあますところなく証明されている。

 毛沢東が「中間地帯」論にもとづいて提唱した「反米愛国の統一戦線」の方針は、あきらかに、アメリカ帝国主義および日本独占資本という二つの敵とたたかう反帝反独占の統一戦線という、わが党の綱領の路線とは異なるものであった。わが党の中央委員会幹部会は、一九六四年一月にひらかれた、第九回党大会の準備のための会議のなかでも、日本人民の敵が、アメリカ帝国主義および日本独占資本という二つの勢力であること、日本人民の闘争を正しく発展させるためには、そのどちらを軽視する一面的なあやまりにたいしても、十分警戒しなければならないことをあらためて確認している。ところが、その後、宮本書記長をはじめすくなからぬ指導的同志が海外出張で不在となり、幹部会の集団指導がよわまった条件のもとで、故聴涛克己同志や安斎庫治などを中心とする一部の人びとは、幹部会の確認に反して、この毛沢東の発言に無批判に追随してアメリカ帝国主義に反対するという面だけを一面的に強調するようになり、反帝反独占の統一戦線という党の基本路線を、アメリカ帝国主義だけを主敵とする「反米愛国の統一戦線」という毛沢東の一面的スローガンにおきかえ、そこから、闘争指導 のなかで一連の誤りをおかすにいたった。そして、こうした傾向が、労働運動の指導における一連の誤った傾向とむすびついて一つの頂点に達したのが、四・一七問題での誤りであった。すなわち、春闘のなかで準備されていた四・一七のストライキ計画をも、アメリカ帝国主義との闘争という面からのみ評価して、労働者階級の経済要求にもとづく闘争の反独占的性格とその重要性を正しくみることができず、ついには、このストライキを計画した労働組合幹部のなかに、国際自由労連とふかいむすびつきをもった幹部がいることを理由に、「アメリカ帝国主義のたくらむ挑発スト」というあやまった規定をおこない、ストライキを回避することを事実上最大の目標にするという、誤った立場におちいってしまったのである。一部の反党盲従分子は、いま、四・一七問題は「宮本一派」の「議会主義」、「修正主義」の路線の産物だなどとでたらめをいって、これをわが党の路線を中傷する材料にしようとしているが、これが事実をまったく逆立ちさせたはかない詭弁であるということはいうまでもない。事実の経過がしめしているように、この誤りは、まさに、この問題の指導にあたった一部の人が、党綱領と 一月の幹部会の意思統一から逸脱した結果、また宮本書記長をはじめ一連の幹部会員が海外からよせた適切な批判を故意に無視することでおかされた誤りだったのである。

 わが党は、その後、幹部会を先頭にただちにこの誤りをただし、一九六四年八月の第九回中央委員会総会および十一月の第九回党大会で、この誤りの思想的根源まで掘りさげた徹底した解明までおこなって、この誤りを克服してきた。この重大な誤りを安斎らとともに直接中心となって推進した聴涛同志自身、第九回党大会では、反米愛国の統一戦線という路線を機械的、教条的に日本にもちこんだ教条主義、セクト主義の誤りについての自己批判を発表し、これが「現実と実践からはなれ、理論を教条としてしか適用してない小ブルジョア的革命家の傾向」をあらわしたものだったとのべた。そして、党中央委員会は、第九回党大会直後にひらかれた第一回総会での幹部会の選出にあたって聴涛同志(それまで幹部会員)らを幹部会の構成からのぞくことによって、誤った指導の個人的責任をも明確にしたのである。しかし、四・一七問題でおかされた指導上の誤りは、党と労働組合のむすびつきと、労働組合運動における党の影響力に深刻な打撃をあたえ、その後の全党の奮闘によって党の影響力は着実に回復したにもかかわらず、その否定的な結果は、今日にいたるまでもまだ全面的には克服されないで いる。

 このように一九六四年の「反米愛国統一戦線」についての毛沢東の声明と四・一七問題の誤りは、五〇年当時の極左冒険主義の路線のおしつけとともに、毛沢東らが、日本問題にたいして戦後何回も誤った態度をとってきたことをあきらかにするものであり、さらに毛沢東の言説を無条件の真理として盲信し、これを日本人民の解放闘争の指針とすることの危険な結果を、もっとも鋭いかたちでしめしたものであった。

 今日、毛沢東一派は、「毛沢東思想」の絶対化を旗じるしとして、わが国の革命運動、民主運動がその誤った路線を日本人民の闘争の最高の指導理論とすることを強要し、かつてみずから自己批判した大国主義的干渉の誤りを、以前よりもはるかに極端な、大国的排外主義のごう慢さをむきだしにしたかたちでくりかえそうとしているが、日本の党と人民は、このような毛沢東路線の絶対化をけっしてゆるさず、かれらの野望を粉砕して、マルクス・レーニン主義の純潔をまもりぬき、日本人民の闘争の自主性と、正しい路線とをまもりぬくであろう。


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