投降主義の反動的綱領――暴力革命を解消するいわゆる「平和と民主主義の新しい段階」論に反駁する

任立新


 プロレタリア文化大革命の奔流は、資本主義の道を歩む党内最大の実権派を歴史の被告席に立たせた。

 「古参の革命家」というかれのベールをひきはがせば、そのしりにはベルンシュタイン、カウツキーといった古い修正主義のマークがおされていることに気づくであろう。はやくも二十余年前、中国人民が八年にわたって流血の闘争をおこない、抗日戦争の勝利をかちとったとき、この中国のフルシチョフは「平和と民主主義の新しい段階」論をうち出すことによって、古い反革命分子としてその醜悪な正体をまざまざと浮きぼりにしてみせたのである。

 抗日戦争の勝利後、中国は二つの命運、二つの前途をめぐる大決戦に直面していた。

 それは、「プロレタリア階級の指導する、人民大衆の、新民主主義の国家を建てるのか、それとも、大地主、大ブルジョア階級の独裁の、半植民地的・半封建的な国家を建てるのか」ということであった。

 中国革命と世界革命にかかわる、この根本的な問題について、中国共産党内には根本的に対立した二つの路線が存在していた。

 毛主席に代表されるプロレタリア革命路線は、思いきって大衆を立ちあがらせ、人民の勢力を強大なものにし、アメリカ=蒋介石反動派とまっこうから闘争し、民主主義革命を徹底的になしとげ、それによってプロレタリア階級の指導する人民民主主義独裁の国家をうち建てようとするものである。

 資本主義の道を歩む党内最大の実権派に代表される右翼投降主義路線は、これに反して、暴力革命に反対し、武装闘争を解消し、アメリカ=蒋介石反動派の気違いじみた攻撃のまえに「三舎を避け」合法的な「議会の道」を通じ、蒋介石と「協力して国を建てる」ことを主張し、日本ファシズムの植民地主義のクビキをふりきって立ちあがったばかりの中国人民を、ふたたび半植民地・半封建のどろ沼につきおとそうとするものである。

 中国のフルシチョフの鼓吹する「平和と民主主義の新しい段階」論は、このような徹底した修正主義の政治綱領であり、徹底した階級的投降主義と民族的投降主義の反動的綱領である。

平和主義の神話

 第二次世界大戦の終結直後、中国のフルシチョフは大急ぎで、報告をおこない、文章を書いた。かれは、「東北工作に出発する同志たちへの報告」、「当面の情勢と任務」および「時局問題についての報告」のなかで一連の平和主義の神話をデッチあげた。

 かれは考えた。戦後の「全世界は平和、民主主義、団結の世界であり」、「全世界にわたって平和的建設の段階がやってきた。戦争をやらないで、平和を実現するのだ。しかも持久的な平和を」と。

 かれは考えた。帝国主義はすでに侵略と戦争の本性をあらためたばかりでなく、人民の革命に共鳴し、それを援助するであろう、と。そして、アメリカ政府もまた平和を「同様に必要」としており、「アメリカも中国が内戦をやるのを望んでいない」、アメリカも「中国の民主主義運動を援助する」であろうと語った。

 かれはまた考えた。中国人民は国内革命戦争をおこなって、国民党の反動政権をくつがえす必要はなく、蒋介石と「平和的建国」なるものをやるべきだ、と。そして、いたるところに遊説して、「内戦がおこることはあろまい」とか、「三つの主要な政党は協力しなければならない」とか、時分有も「ほんとうにいくつかの問題について相談」しようとしているとか、「中国人民の三つの主要な階層は民主主義を要求している」などとのべた。

 歴史の発展は、果たして中国のフルシチョフが考えたようなものだっただろうか。われわれは四十年代後半の歴史をひもといて、中国のフルシチョフのこうしたつくり話を暴露する必要がある。

 第二次世界大戦後、毛主席は国際情勢についてすばらしい分析をおこなった。毛主席はのべている。「ファシスト侵略国がうちやぶられ、第二次世界大戦が終結し、国際平和が実現したのちには、闘争がなくなるというのではない。広範に散在するファシスト残存勢力は、かならずまた拐乱するにちがいない。ファシスト侵略戦争に反対する陣営内にも、民主主義に反対し、他民族、を抑圧する勢力が存在しており、かれらは依然として各国人民や植民地、半植民地を抑圧しようとしている。したがって、国際平和が実現したのちでも、世界の大部分の地域では、依然として反ファシスト人民大衆とファシスト残存勢力との闘争、民主主義と反民主主義との闘争、民族解放と民族抑圧との闘争が充満するであろう。

 平和は、帝国主義にとっては、戦時の政策の継続にすぎない。帝国主義の平和は、植民地、半植民地にたいする、不断の戦争による収奪に依拠して維持されているものである。ところが、革命的人民が真の平和をかちとろうと思うならば、どうしても革命的な正義の戦争で反革命的な不正義の戦争に反対しなければならない。帝国主義が一日でも存在しているかぎり、革命戦争は一日も停止することはできない。

 もし中国のフルシチョフの、世界の「持久的平和」論にしたがえば、帝国主義はすでに屠刀をすてて、善人になってしまった、ということになるではないか。植民地、半植民地の人民が民族解放戦争をおこなう必要はない、ということになるではないか。また、資本主義世界の各国プロレタリア階級も、国内革命戦争をおこす必要はない、ということになるではないか。

 きわめて明らかなように、世界の「持久的平和」論は、まぎれもなく革命を解消する反動的理論である。それはプロレタリア階級にたいする欺瞞であるばかりか、帝国主義の反革命の二面政策に奉仕するものである。

 中国のフルシチョフはさかんに平和のお題目をとなえると同時に、臆面もなくアメリカ政府にかわって、平和の「必要」を宣言し、「中国の民主主義運動を援助する」と宣言した。それでは、中国のフルシチョフが興味しんしんとして語った「アメリカの援助」なるものをみてみよう。

 一九四五年九月から一九四六年六月にかけて、アメリカは蒋介石に手をかして五十四万の軍隊を輸送し、解放区を包囲、攻撃させた。一九四五年から一九西九年の間に、アメリカは蒋介石に総額五十九億ドルをこえる軍事援助をあたえた。これと同じ時期に、アメリカは蒋介石を援助して前後八十四万の軍隊を装備させた。そのほか、アメリカ帝国主義はまたみずから兵隊をくり出して中国を侵略した。

 これがアメリカの「援助」なのである。こうした「アメリカの援助」は、ことごとく反革命の内戦に使って、中国人民を虐殺するために、蒋介石にあたえられたのである。「中国の民主主義運動を援助する」などというのは、正真正銘のつくり話である。

 明らかにアメリカ帝国主義のむき出しの侵略であるのに、中国のフルシチョフは、なんとアメリカも平和を「必要」としているという。明らかにアメリカ帝国主義がカネを出し、銃を出して内戦をやる蒋介石を支持しているのに、中国のフルシチョフは、なんと「アメリカも中国が内戦をやるのを望んでいない」という。これが悪党を慈父とみなすものでなくてなんであろうか。

 中国のフルシチョフは、ブルジョア平和主義の宣教師であるばかりでなく、国内の革命戦争の解消論者でもある。かれは目和見主義の魔術をさかんにもてあそび、平和の煙幕をつぎつぎとはったのである。

 第一にいわく、「平和的建国」。国を建てるというが、ブルジョア階級の国なのか、それともプロレタリア階級の国なのか。もしブルジョア階級の国を建てようとしていたのなら、当時すでに蒋介石に代表される大地主、大ブルジョア階級が国家権力をいちはやくぬすみとっていた。もしプロレタリア階級独裁の国を建てようとしていたのなら、暴力を用いて国家権力を奪取せざるをえないのであって、「平和」などがどうして問題になりえようか。

 第二にいわく、「内戦が二度とおこることはあるまい」。これは中国のフルシチョフの愚劣なたわごとにすぎない。かれが蒋介石を平和な統治者として、美化している折ですら、蒋介石はさかんに軍隊をくり出し、大挙して解放区を攻撃していた。こうした血みどろの事実をまえにしても、「内戦が二度とおこることはあるまい」といえるのか。

 第三にいわく、「三つの主要な政党は協力しなければならない」、しかもそれは「長期の協力」であり、蒋介石も「ほんとうにいくつかの問題について相談しようとしている。」これは典型的な階級的投降主義である。プロレタリア階級と広範な勤労人民の利益を代表する中国共産党が、大地主、大ブルジョア階級の利益を代表し、帝国主義に身を売り渡した国民党反動派と、どうして「長期の協力」をおこなうことができるだろうか。われわれが国民党反動派による一九二七年の血なまぐさい「四・一二」大虐殺事件をどうして忘れることができるだろうか。われわれが人民を十年にわたる内戦の血の海にひきずりこんだ国民党反動派をどうして忘れることができるだろうか。われわれが抗日戦争の時期に前後三回にわたって反共の高まりをひきおこした国民党反動派をどうして忘れることができるだろうか。革命的人民と、売国、独裁、内戦の三者を一身に集中した蒋介石との間に、「問題を協議する」ための共通のことばなどが、どうしてあるだろうか。

 第四にいわく、「中国人民の三つの主要な階層は民主主義を要求しているし、勤労人民、中ブルジョア階級の中間派、一部の大ブルジョア階級も、中国での民主主義を要求している。」ここで、中国のフルシチョフはまたも、カウツキーといったやからの「一般的な民主主義」という、たなざらしの反動的なしろものをもちだしてきたのである。

 マルクス主義がわれわれに教えているように、民主主義には、昔から階級性がある。大地主、大ブルジョア階級がプロレタリア階級、広範な勤労人民と「一般的な民主主義」などというものを共に享受することができるだろうか。いや、そんなことはできない。大地主、大ブルジョア階級のいわゆる「民主」とは、プロレタリア階級と広範な動労人民にたいする抑圧と独裁のことであり、国民党の「一党独裁」のファッショ的専制を実行することである。中国のフルシチョフの目からみれば、大地主、大ブルジョア階級も人民になってしまう。これは、まったく中国人民への大きな侮辱である。

 中国のフルシチョフは、いかにももっともらしく、「人民は平和を必要としている」などと弁解している。それは、そのとおりである。人民は平和を必要としている。だが、人民が必要としている平和はおまえのいう平和と、本質的に違う。人民は、真の平和は闘争によってのみかちとられるものであって、けっしてこいもとめてあたえられるべきでないことを、よく知っている。

暴力革命の恥ずべき裏切り者

 中国人民の八年にわたる抗戦の偉大な実践のなかで、暴力革命についてのマルクス・レーニン主義、毛沢東思想の学説は、さんらんたる光を放った。

 抗日戦争の終結後まもなく、毛主席は全党と全国人民のために警鐘をうちならして、つぎのようにのべた。「蒋介石はいつも人民に戦争をおしつけ、左手にも刀をもてば、右手にも刀をもっている。だから、われわれもかれのやり方にならって、刀をとる。

 当時、中国共産党は百万の軍隊と二百万の民兵を指導していた。蒋介石が全面的内戦をまさにおこそうとする重大な時に、あくまで武装した革命で武装した反革命をうち破る方針を堅持することこそ、中国共産党と中国人民にとってプロレタリア革命の勝利をかちとるための唯一の正しい道であった。

 武装闘争というこの根本間題で、資本主義の道を歩む党内最大の実権派はどんな役割を果たしたのであろうか。

 みたまえ、かれはアメリカ=蒋介石反動派の刀をとぐ音がさかんに開こえてくるなかで、ひたすら「武装闘争条件論」というデタラメな論調をふりまき、抗日戦争の勝利後、「中国革命の主要な闘争形態はもはや武装闘争から非武装的、大衆的、議会的な闘争にかわった」とか、「武装闘争は、一般的には停止された」などといったのだ。

 みたまえ、かれはまるで主人のあしもとにひれふす奴隷のように、極力軍隊にたいするわが党の指導の解消を主張し、人民の武装を独裁者蒋介石にうやうやしく献上しようとしたのだ。

 かれはいう。「われわれの軍隊はまもなく正規の国軍および地方の保安隊や自衛隊などに再編成されるだろう。再編成後の軍隊のなかでは、政治委員、党支部、党務委員会などはやがて廃止されることになり、党は軍隊にたいする直接指導を停止し、(数ヵ月後に実施されはじめるわけだが)こんご軍隊に直接指令を出さないことになるだろう。」

 抗日戦争の勝利の前夜、特介石は「軍隊を引き渡してはじめて、共産党は合法的地位をもつことができる」と語ったことがある。そのことばを発するやいなや、中国のフルシチョフはもうひとり合点でそのつもりになりきったのである。かれは、「わが党と軍隊との関係は、やがて国民党と軍隊との関係に見ならうであろう」、「このように改めてこそ、わが党が十八年にわたってつくりあげた軍隊がはじめて合法化され、温存され得るのだ」とのべている。

 主人に合わせて召使がうたい、類は類を呼ぶというのは、まさにこのことだ。中国のフルシチョフが武装闘争に反対するこのひとくだりの奇談は、ほかでもなく、大地主、大ブルジョア階級に身を売りわたしたかれのりっぱな自白書なのである。

 マルクス・レーニン主義はわれわれに、暴力革命はプロレタリア革命の普遍的な法則である、と教えている。この点を認めるかいなかは、昔からプロレタリア革命家とプロレタリア階級のすべての裏切り者との分水嶺なのである。

 われわれの偉大な指導者毛主席は天才的、創造的に暴力革命に関するマルクス・レーニン主義の理論を発展させた。

 毛主席は、「中国革命の主要な方法、中国革命の主要な形態は平和的なものではありえず、武力的なものでなければならない」、「中国では、武装闘争を離れては、プロレタリア階級の地位はなく、人民の地位はなく、共産党の地位はなく、革命の勝利はない。……血をもってあがなわれたこの経験を、全党の同志はわすれてばならない」ととくに強く指摘している。

 資本主義の道を歩む党内最大の実権派は「武装闘争は一般的には停止した」ときっぱり断定している。これはほかでもなく、かれが暴力革命に関するマルクス・レーニン主義の基本的原理はすでに時代おくれになった、と公然と言明したことを物語るものである。これはまた、ほかでもなく、かれがマルクス・レーニン主義の偉大な学説をすでにまったく捨てさり、プロレタリア暴力革命の恥ずべき裏切り者になりさがったことを物語るものである。

 われわれの偉大な指導者毛主席は『重慶交渉について』という論文のなかで、「人民の武装力はたとえ一挺の銃、一発の弾丸でも保持しなければならず、ぜったいに引き波すことはできない」とはっきり指摘している。

 蒋介石のなん百万という反動的な軍隊の武装進撃を目のまえにして、革命的人民の武装闘争を「停止」することは、坐して死を待つにひとしく、みずから滅亡を求めるものではないのか。このような情況のもとで、軍隊にたいするわが党の指導を「解消し」、人民の武装力を引き渡すことは、刀を蒋介石に与え、われわれの首を切ってくれ、と蒋介石にたのむことに等しくはないのか。

 資本主義の道を歩む党内最大の実権派がうち出した、軍隊は「編成がえ」すべきだ、「国家化」すべきだということは、とりもなおさず、わが党の指導している人民の軍隊を蒋介石の「国軍」に「編成がえ」しようとすることであり、またそれは、とりもなおさず、人民の軍隊を国民党反動政府の所有に「化」してしまおうとすることである。これは、ファシストの頭目蒋介石が一貫して「軍隊を引き渡すなら、民主主義をあたえてやる」とわめいてきたのと寸分の相違もないではないか。

 アメリカ=蒋介石反動派のこの忠実な代弁者はまた、聞くにたえないほど俗っぽい商人の口調で「軍隊で一歩譲歩すれば、全国が大きな進歩をとげる」、「この譲歩は……引き合うものであり、かねもうけになるものである」と語っている。

 みたまえ、かれはあきらかに歴史を大きく後退させようとしているのに、「全国が大きな進歩をとげる」などといっている。かれはあきらかに政治的なセリ売りをしようとしているのに、「引き合う」だの「もうかる」だのといっている。「引き合う」「もうかる」とはよくも言ったものだ。これは完全に政治的投機商人特有の隠語である。

革命を葬り去る滅亡の道

 資本主義の道を歩む党内最大の実権派は暴力革命をかくも心の底から敵視しているが、それではかれがうつつをぬかし、あこがれていたものは、一体なになのか。

 ではかれら自身の答を見てみよう。

 一九四六年二月、中国のフルシチョフは同じ日におこなった二つの悪名高い演説のなかで、「中国革命の主な闘争形態はすでに平和的、議会的なものに変わった。闘争は合法的な大衆闘争と議会闘争である。」「すべての政治問題は平和的に解決されなければならない。」中国においては、「もはや内戦をおこなわずに、民主主義革命に成功することができろであろう。基本的な成功は憲法を通じて議会を成立させることである。」と再三、再四強調した。

 また、私利私欲にこりかたまったこのやからはアメリカ=蒋介石反動派の残飯にありつくことを片時も忘れなかった。かれは頭でもくるったのか、「宣伝、演説、選挙連動などを習得して、みなのものから投票してもらわなければならない」、「われわれは北京、天津に鉄砲でせめ込めなかったが、議会闘争をうまくやれば、選挙ではいっていくことができる」という驚くべき宣伝をした。かれはよだれをたらしながら、「政治協商会議が終わると、……われわれは政府の与党の一つになる。つまり、野党ではなく、政権をにぎることになる。一部の人は官職につくことになろう。中央政府の官職に……長期にわたってつく可能性がある」と叫んだ。

 もうたくさんだ! 中国のフルシチョフはもともとこのような正真正銘の議会気違いであるのだ。

 中国のフルシチョフから見れば、旧政治協商会議の召集は、「蒋介石の同民党にその一党独裁の放棄をよぎなくさせるとともに、国家の民主主義化の実行に手をつけさせることになるのである。」だから、全党の活動が「非武装的、大衆的、議会による闘争に転化していく」のは当然なことであり、また、その可能性がある、ということになる。この議会気違いの目のなかでは「議会の道」が、まったく、中国革命勝利のための万能楽になっているのだ。

 事実をねじまげることは許されないし、歴史を書き改めることは許されない。歴史をかってに左右しようとするものは結局、いつも歴史の罪人になってしまうのである。

 われわれの偉大な指導者毛主席は早くから、アメリカ=蒋介石反動派の残酷な支配下にある旧中国は、「内部的には封建制度の抑圧をうけていて、民主主義制度がないこと、外部的には帝国主義の抑圧をうけていて、民族の独立がないことである。したがって、利用できる議会もなければ、労働者を組織してストライキをおこなう合法的権利もない。ここでは、共産党の任務は、基本的には、長期の合法的闘争をつうじて蜂起や戦争にすすむことでなく、また、さきに都市を占領し、あとから農村を奪取することでもなく、それとは反対の道を歩むことである」と指摘している。
 マルクス・レーニン主義の観点からすれば、いわゆる議会とは、ブルジョア階級独裁の装飾品と衝立にすぎず、ブルジョア階級がプロレタリア階級を支配する道具にすぎない。そしていわゆる 「議会の道」は、プロレタリア階級の裏切り者がブルジョア階級の必要に応じて提出した一種の反動的な政治的主張にほかならず、まったくの修正主義のしろものである。

 抗日戦争勝利後の中国のどこに、中国のフルシチョフがえがいているような「平和、民主、団結」の空気にみちあふれた太平なご時世を見いだすことができるだろうか。そしてまた、どこに国民党反動派が「一党独裁を放棄し」、国家の民主主義化を実行するいささかの誠意でも見いだすことができるだろうか。

 蒋介石反動政府が実行したのは、大地主、大ブルジョア階級の独裁である。その国家機構の主要な部分にはもともと議会などというものはまったく存在せず、アメリカ式の装備で歯まで武装した数百万の反動軍があったのである。蒋介石のファッショ的独裁の条件下で「議会の道」なるものを通じて、革命の勝利をかちとろうと考えるのは、まったくプロレタリア階級と革命的人民をだます恥しらずなペテンにほかならない。それはまさにレーニンが言ったように、「もし階級闘争を議会闘争にかぎること、あるいは議会闘争を、その他の闘争諸形態を自己に従属させるような最高の、決定的な闘争と考えることは、事実上、プロレタリア階級に反対してブルジョア階級の側に移行したことを意味する」のである。

 中国のフルシチョフは苦心さんたんしたあげく「議会の殿堂」に通じる狂想曲を創作した。

 これはまったく痴人のたわごとである。

 アメリカ=蒋介石反動派のファッショ的独裁のもとで、口先三寸で民主主義的な「選挙運動」をまきおこしたり、プロレタリア階級の意志をあらわした憲法を制定できるなどということが、どうして考えられるだろうか。

 たとえ、小役人の地位にありつき、なん枚かの選挙の票をかきあつめたにしても、党の指導を失い、人民の武装を放棄してしまったなら、選挙の票や官職にものを言わせて、蒋家王朝のうぶ毛一本でも動かすことができただろうか。

 レーニンはとっくの昔にこうした日和見主義の道化師に向かってつぎのように言葉きびしく反駁している。「プロレタリア階級は、ブルジョア階級の圧制のもとで、賃金奴隷制の圧迫のもとでおこなわれる投票で、まずもって多数を獲得してから、はじめて権力を獲得するようにしなければならない、などど考えることは、ならず者か、ばか者でなければやれないことである。これは愚鈍でなければ偽善の骨頂である。これは、階級闘争と革命を、旧制度のもとでの、旧権力のもとでの投票に代えることである。

 中国のフルシチョフは、ほかでもなく、レーニンが言ったような大馬鹿ものである。

 もし、かれにしたがえぱ、それはアメリカ=蒋介石反動派に投降するよりほかなく、われわれの党は選挙の党、議会の党になりさがり、ブルジョア階級の支配をまもるもっともあわれむべき道具になってしまうだろう。

 もし、かれにしたがえば、中国革命は中途で失敗し、中国はいつまでも大地主、大ブルジョア階級独裁の暗黒の旧中国であり、こんにちのようなプロレタリア階級独裁の無限の光を放つ新中国はけっしてありえないだろう。

 資本主義の道を歩む党内最大の実権派は、その投降主義路線をおおいかくすべールを見出すために、こともあろうに、カウツキーやトロツキーのセリフを学び、わが党を非難して「蒋介石の国民党が各方面から圧力をうけて、民主主義的改革を実行できること、また、ひきつづきわが党と協力して国家を建設できることを信じないし、平和と民主主義の新段階がすでに到来したことを信じないために、懐疑的な態度をとっている」、「偏狭な『左』の排他主義」をおかしている、と一言った。かれはあせってうっぷんをぶちまけ、「この傾向は危険だ」とわめきたてた。

 これは、他人の非難に逆ねじをくらわすことにほかならない。

 中国のフルシチョフのこのような論理によれば、かれの意志にそむいて、国民党反動政府の「役人」になろうとしないものは、だれでも「偏狭」であり、かれに反対して、人民の軍隊を引き渡さず武装闘争を放棄せず、けがらわしい政治取引をおこなわないものは、だれでも「左翼」日和見主義であり、かれのこうしたウソ八百を耳にいれ、国民覚の各党派が解放区にきて、通信社を設け、新聞を発行し、党部を設け、統一を語るなどの活動を許さず、また「われわれの政府に参加させること」を許さないならば、だれでも「排他主義」であるのである。

 結局のところ、毛主席をはじめとする中国共産党が、マルクス・レーニン主義路線を堅持したのか、それとも、中国のフルシチョフといわれるおまえが救いようのない右翼投降主義の難病にかかっているのであろうか。

 これには多くの証拠を必要としない。歴史がとっくの昔に正しい結論をくだしているのである。

歴史の教訓

 資本主義の道を歩む党内最大の実権派がこのようにさかんに「平和と民主主義の新段階」の反動的曲論を宣伝し、こうまで熱狂的に階級的投降主義と民族的投降主義の路線をおしすすめているのは、決して偶然なことでもなく、こと新しい現象でもない。

 レーニンが第二インターの修正主義者を批判したさい、つぎのように語ったことがある。「日和見主義は、偶然の現象ではなく、個々の人間の過失でも、失策でも、裏切りでもなく、歴史的全時期の社会的産物である」と。

 第二次世界大戦中に、国際共産主義運動がひじょうに大きな発展をとげたが、それと同時にその対立物が発生した。すなわち、反革命的修正主義の逆流がまきおこったのである。この逆流のおもな特長は、暴力革命を解消して、議会の道を鼓吹したことである。この逆流は、国際共産主義連動にひじょうに大きな損害をもたらした。フランス、イタリアなどの国ぐにの革命が挫折した事実こそ、そのもっともきわだった例である。

 フランス共産党は反ファッショ戦争の時期に、五十万人を擁した人民の武装力を組織し、一度はバリを解放したことがある。

 しかし、フランス共産党中央委員会書記長トレーズは人民の武装力を洪水や猛獣とみなしたのである。一九四四年十一月、長い間国外に難をさけていたこの臆病者が、フランスに戻るや、副首相の官職とひきかえに、全人民の武装力をさしだしてしまった。一九四五年十一月、フランス共産党はドゴール政府の第一回国民議会の選挙に参加し、議会で一度はいわゆる「左派による多数」をしめた。しかし、フランスのブルジョア階級は、なんの苦もなく選挙法を改正した。そして一九五八年の選挙において、フランス共産党が獲得した議席は、みるかげもなく、わずか十議席となった。

 このことはある自覚をもったフランス共産党の党員がいったように、フランス共産党にたいするフランスのブルジョア階級は、レモンをしばるように、しぼったカスをすてさったのである。

 イタリアの事態も全く同様であった。第二次世界大戦が終結する前後、イタリアの武装闘争はすばらしい発展をとげ、二十五万六千人をかぞえるゲリラ部隊と労働者の蜂起部隊が結成され、ミラノ、ベニスなど二百をこえる大小の都市を解放し、ファシストの頭目ムソリーニを捕虜にしたうえ、死刑に処したのである。

 だが、十八年間も国外にいたイタリア共産党中央委員会書記長トリアッチは、イタリアに舞い戻ると「武力行使や蜂起手段にうったえるのではなくて」社会の構造改革を通じて、社会主義を実現させる投降主義路線を提起して、北部イタリアのゲリラ部隊に、無理矢理バトリス反動政府と「連合軍」の統一的指揮をうけいれさせ、ゲリラ部隊と愛国的散言官の武装を解除させてしまった。トリアッチはプロレタリア階級の根本的利益を売り渡して、それとひきかえに大臣・副首相の官職にありついたが、イタリア人民の反ファッショ武装闘争の勝利の果実は、烏有に帰してしまった。

 フランス、イタリア以外に、ヨーロッパやアジアの他のいちぶの国においても、これに類似した事態がおこり、いくたの革命烈士の血潮は敵のさかずきにもられた酒となってしまった。

 同志のみなさん、じっくりと考えていただきたい。アメリカ=蒋介石反動派の屠刀を前にして、もしもわが党とわが国の人民が中国のフルシチョフのかきあげた「平和と民主主義の新段階」のおとぎ話に耳をかたむけて、同様に「議会の道」とやらを歩んだなら、どのような重大な結果をまねいたことだろうか。

 歴史は無情にも、トレース、トリアッチ、中国のフルシチョフといった連中の「議会気違い」をあざわらっている。悲痛な歴史的教訓は、全世界のマルクス・レーニン主義者の目をぴらかせた。世界各国の革命的人民は身をもって得た闘争の経験から、ますます深刻に、人民の手のなかにある鉄砲こそ、人民革命の命の綱であること、武装闘争の道はプワレタリア階級が国家権力を奪取する唯一の正しい道であることをさとった。暴力革命を否定する者は、だれであろうと、根底からマルクス・レーニン主義を裏切ることになり、根底からプロレタリア階級の革命事業を裏切ることになる。そして「議会の道」にうつつをぬかしている者は、だれであろうとトレーズ、トリアッチなどのやからのような恥ずべき末路におちこむにちがいない。

 スターリンが語っているように、「もしもブルジョア階級の支配に適合したブルジョア民主主義制度の範囲内で、平和方式によってこのような革命をおこなうことができると思うなら、それは、精神が錯乱し、神経に異常をきたしていないとすれば、公然と、恥知らずにもプロレタリア革命を裏切っているのである。

 新旧修正主義者とかれらのこねあげた「議会の道」の「理論」は、太陽の光に照らされた雪だるまにすぎず、歴史の点検をうけるや、一緒にたちまちとけて崩れてしまう。それとは反対に、マルクス・レーニン主義の暴力革命の学説は、天をつく松の大木のように、いつまでも青々としげっている。

 中国人民にとってもっとも、もっとも大きな幸福は、偉大な舵手毛主席が革命の航路をすすむ船の舵をにぎっていることである。よこしまな風が四方におこり、濃霧が航路に立ちこめた――そういう肝心な時に、毛主席をはじめとする中国共産党が中国人民を指導して、「銃を引き渡す」逆流を断固としてはばみ、中国のフルシチョフの階級的投降主義と民族的投降主義の反動路線を粉砕した。偉大な、光栄ある、正しい中国共産党は武装闘争の革命の大旗を高くかかげて、中国革命の偉大な勝利をかちとり、国際共産主義運動の歴史に永久に朽ちることのない記念碑をうちたてたのである。

(『人民日報』1967年9月19日)

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