珍宝島はもとから中国の領土である――中国外交部新聞司

(1969年3月11日「北京週報」)


 一九六九年三月二日、ソ修裏切り者集団は大量の武装部隊をくり出して、横暴にも、中国黒竜江省虎林県の鳥蘇里江河上にある珍宝鳥に侵入させ、パトロール任務を執行中のわが国境守備戦士を急襲し、わが国境守備戦士多数を殺傷して、中国人民にたいし新しい重大な犯罪行為を犯し、新たに血の債務を負った。わが国のいく億の軍民は、これにたいして極度の憤激を表わしている。

 事件の発生後、ソ修裏切り者集団は黒を白といいくるめ、是非を混同して、中国の珍宝島をソ連の領土だといいくるめ、ソ修の武装部隊が中国の領土に侵入し、中国の国境守備部隊を襲撃したことを、中国の国境守備部隊がソ連の国境線をこえてソ連の国境守備軍を襲撃したのだといいくるめている。これは、まったくのデタラメである。

 珍宝島はもとから中国の領土である。一六八九年九月八日の「中露尼布楚条約」の取り決めによれば、中露国境の東部区間は額爾古納河、格爾必斉河、外与安嶺を境とし、黒竜江以北、外興安嶺以南、鳥蘇里江以東の広大な地区をすべて中国の領土としている。珍宝島のある鳥蘇里江は当峙まだ中国の内河であった。一八五八年五月二十八日、ツアー・ロシア帝国主義は、英、仏帝国主義の連合軍が中国を侵略し、天津を進攻し北京をおびやかしていた時機をとらえ、武力をもって清朝当局に追り不平等な「中露アイ琿条約」を締結させて、黒竜江以北の六十余万平方キロにわたる中国領土をもぎとり、また鳥蘇里江以東の約四十万平方キロにおよぶ中国領土を中露両国の共同管理にした。一八六○年十一月十四日、ツアー・ロシア帝国主義はふたたび英、仏帝国主義の中国侵略戦争の軍事的圧力を借り、英、仏侵略軍の北京進攻・占領という情勢を利用してまたしても清朝政府に不平等な「中露北京条約」の締結をおしつけ、強引にも鳥蘇里江以東の中国領土を全部ロシアの領土にくり入れた。

 マルクスが一八五七年と一八五八年に指摘したように、一八四○年のアヘン戦争以後、ロシアは中国に向かって「成功裏に北方から侵入」し「現在の中国の支配人種の故郷である黒竜江流域を占領した」。「中露アイ琿条約」の締結後、エンゲルスは一歩すすんで、「イギリスがついに戦争を北京に及ぼそうと決心し、フランスがなにか利益になる捨い物をしようと望んでこれにくわわったとき」ロシアは「フランスとドイツを合わせたほどの大きさの国土とドナウ河ほどの大きさの河流とを中国から奪った」とずばり指摘した。レーニンもかって、ロシア帝国主義の政策のアジアにおける任務は、「全ペルシアを奪いとり、中国をすっかり分割しつくす」ことである、と指摘している。マルクス、エングルス、レーニンのこれらの輝かしい論断は、ツアー・ロシア帝国主義が中国におしつけた「中露アイ琿案約」と「中露北京条約」の侵略的な性格と不平等な性格をあますところなく暴露している。

 たとえ不平等な「中露北京条約」にもとづいても、珍宝島が中国の領土であることは、議論の余地がない。「中露北京条約」は、「鳥蘇里江河口から南に向かって興凱潮にいたるまで、両国は鳥蘇里江、松阿察河をその境界とする。この二つの川の東側の土地はロシアに属し、二つの角の西側の土地は中国に属する」と取り決めている。公認の国際法の準用によれば、およそ航行できる国境河川はいずれも主要航行水路の中央線を境界とし、鳥しょの帰属はそれによって決定されるのである。珍宝島およぴその付近の卞ホウ子島、七里沁島は、すぺて鳥蘇里江の主要航行水路中央線の中国側に位置し、もともと中国の管轄下にあり、中国の国境守備部隊がずっとバトロールしてきており、中国の住民がずっとこれらの鳥々で生産に従事してきた。一九六四年の中ソ国境交渉において、ソ連側自身もこれらの島しょが中国の領土であることを認めざるを得なかった。

 一九二○年九月二十七日、レーニンの指導するソビエト政府は、「以前ロシア政府が中国と締結したすぺての条約を全部無効にし、以前中国から奪いとったすぺての領土と中国領内のロシア租界を放棄し、ツアー政府とロシア・ブルジョア階級が中国から奪いとったすぺてのものを、無償で永久に中国に返還する」と声明した。当時、中国は反動政府の支配下にあったため、レーニンのこの偉大な遺訓は実現させることができなかった。

 中華人民共和国の成立後、中ソ間の国境問題はもともと合理的に解決することができるはずであった。中国政府は一貫して、交渉により歴史ののこした国境問題を解決すること、解決されるまでは国境の現状を維持することを主張してきた。中国政府は前後してビルマ、ネパール、パキスタン、モンゴル人民共和国、アフガニスタンなとの隣国と、歴史ののこした複雑な国境間題を円満に解決した。ところが、ソ連、インドの二国とわが国との国境問題は、ずっと解決されないままになっている。わが国政府はインド政府と、中印国境問題について何回も交渉をおこなったが、インド反動派のために破壊された。一九六四年、わが国政府と国境交渉をすすめた。この交渉中、中国側はつぎのように明確に指摘した。「中露アイグン条約」「中露北京条約」なと現在の中ソ国境と関係のある諸条約は、いずれも中露両国人民が無権利状態におかれていた状況のもとで、ツアー・ロシア帝国主義が中国におしつけた、不平等条約である。中国側は中ソ両国人民の革命的友情を増進させる願いにもとづき、やはりこれらの条約を基礎として、両国国境線のすぺての位置づけをおこない、国境間題をめぐって存在するあ らゆる問題を解決するよう希望する。どちらの側でも条約に違反して他の側の領土を占拠している場合には、原則的には全部無条件に相手側に返還しなければならない。しかし、双方が条約を基礎として、平等な立場で話しあい、たがいに理解し譲歩しあうという原則にもとづき、国境上の地点に必要な調整をくわえることを排除しない、と。ところが、ソ連側はさきに述ぺた中国側の合理的な提案の受入れを拒否した。かれらは、現在の中ソ国境と関係のある諸条約が不平等条約であることをあくまで認めず、またこれらの条約を両国の国境問題解決の基礎とすることに頑として同意せず、中国に追って不平等案約をうけいれさせ、かれらが不平等条約の取り決めている国境線をこえて不法に占拠した中国の領土を法的に固定させようとたくらんだ。ソ修裏切り者集団のこのような大国排外主義と領土拡張主義の立場は、中国側からぎぴしく非難された。中国側は、もしソ連側がこのような態度をかたくなに固持し、死んでも悔い改めないなら、中国側は中ソ国境問題全体についての自己の主張に再考慮を拡わざるを得なくなるであろう、とはっきり指摘した。

 ソ修裏切り者集団は交渉による中ソ国境間題の解決を拒否したばかりでなく、たえず国境の現状を破壊し、国境事件をひきおこしている。中ソ国境交渉がソ修によって破壊されてのち、とくにブレジネフ、コスイギンが登場していらい、ソ修裏切り者集団はアメリカと連合して中国に反対し、国内の人民の視線をそらす反革命の必要にもとづき、中ソ国境に大量の軍隊を増派し、以前に輪をかけて国境の現状を破壊し、一歩すすんで中国の領土を侵略・占領し、武力挑発をおこない、流血事件をひきおこしている。珍宝島を例にとってみると、一九六七年一月二十三日から本年三月二日にいたる二年あまりの結氷期だけでも、ソ連の国境守備軍は十六回もわが珍宝鳥地区に侵入し、しかも侵入中に、正常のパトロール任務を執行中のわが国境守備戦士を何度も負傷させ、わが方の銃器・弾薬を強奪した。

 今回ソ修の軍隊が中国の領土珍宝島に侵入して武力挑発をおこなった事件は、ツアー・ロシア帝国主義の衣鉢をうけついで社会帝国主義の侵略政策をおしすすめているソ修裏切り者集団のみにくい正体をいちだんと暴露した。かれらは、ツアー・ロシア帝国主義がすでに侵略・占領したところは自分のものだと考えており、ツアー・ロシア帝国主義が侵略・占領したことのないところをも侵略・占領しようとしている。これこそ、こんにちの新しいツアーの姿である。

 中国の領土と主権は、なにものの侵犯をも絶対に許さない。相手が侵してこなけれぱこちらも侵さないが、相手が侵してくればこちらもかならず侵すのである。もしソ修裏切り者集団があくまで我意をはりとおしひきつづき国境での武力衝突をひきおこすなら、中国人民はかならず偉大な指導者毛主席の教えにしたがって、侵犯してきた敵を断固として、徹底的に、きれいに、のこらず消滅するであろう。


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