黄河にいどむ


 中国の有名な川――黄河は、その源である巴顔喀喇山脈から勢いよく流下し、いく度も迂回してのち、中国西北地方の黄土高原にはいり、蘭州を過ぎて、突然東北へ向きを変え、そびえたつ賀蘭山脈とオルドス高原の間で、青銅峡の峡谷にその進路をさえぎられる。ここには、河水をせきとめる大型のコンクリート堰堤が、さかまく怒とうのなかに堂々とそびえたち、人間が思いのままに、河水を発電所におくって強力な電流をおこしたり、用水路へ流して田畑をかんがいしたりするのを助けている。

 中国の各民族人民は、毛主席の「黄河の治水をりっばにおこなおう」という偉大なよびかけにはげまされ、青銅峡水利センターを建設して、黄河の歴史に新しい一ぺージをきりひらいた。青銅峡水利センターは寧夏回族自治区の青銅峡地区にあって、この工事は黄河の本流開発の重点工事の一つであった。これは潅漑を主とし、発電や洪水防止をも兼ねる総合的な大型水利施設である。工事は一九五八年に着手されたが、一九六○年には耕地を潅漑できるようになり、一九六七年末には発電が開始された。青銅峡水利センターの竣工は、中国の各民族人民が団結して戦いとった壮麗な凱歌である。

「竜王廟」前の革命

 長年、青銅峡地区一帯では、つぎのような話が語りつたえられていた。――大昔、黄河の水はここまで流れてくると、賀蘭山にはばまれて、上流一帯がはんらんし見わたすかぎり水の世界となった。治水のために青銅峡までやってきた大禹が、斧で賀蘭山をきり開き割れ目を一つつくったので、黄河の水はここをぬけて流れていくようになったのだ、と。この伝説は、黄河の征服を望む黄河両岸の人民大衆の強烈な願いを反映したものである。

 早くも二千余年前に、寧夏地方の勤労人民は、黄河の水利資源を開発・利用して豊田を灌漑した。ところが、歴代の反動支配階級は、黄河を征服できない「神河」とみなし、自己の反動的支配を維持するために、孔孟の道――「天命観」をやっきになって鼓吹した。かれらは、青銅峡峡谷の東、とうとうと流れる黄河に面したところに「竜王廟」(水神を祭るやしろ)を建てて、人は自己の運命を、この泥でつくった「竜王」の支配にまかせよなどと、人民をぱかにし、だましたのである。毎年、黄河の水をひいて潅漑する季節がくると、反動支配階級はきまってここで、「水神を祭る」茶番劇を演じるのだった。人びとは強制されて、「竜王」に祈願しにいった。解放前、長期にわたって、黄河には河水制御施設がなかったので、洪水の時期になると、しばしば用水路や提防が決壊して、大面積の良田が、たちまちのうちに水びたしとなり、渇水期になると、川にも用水路にも一滴の水さえなくなって、作物は枯死するのであった。

 一九五八年八月、中国社会主義建設の大躍進のさなかに、青銅峡水利センターの工事がはじまった。寧夏地方の各民族勤労人民は、毛主席の革命路線にみちぴかれて、黄河を治める新しいたたかいをくりひろげた。

 当時、寧夏地方の工業の基盤はまだ弱く、青銅峡工事現場に、近代的な施工機械・器具などはひとつもなかった。「ロクに機械もないくせに、大型ダムをつくって黄河を治めようなんて」という者もいたが、代々、黄河の激流とたたかってきた寧夏地方の各民族勤労人民は、つぎのように答えた。「毛主席のすぐれた指導があれば、人びとはかならす大自然にうち勝ち、黄河を征服することができる!おれたちは一刻もはやく在来の方法で工事にかかり、しだいに条件をととのえて機械化をはかるのだ」と。

 何万という建設関係者たちは長年夢にまでみていた治水のために、四方八方からロバやラクダに乗り、木造船やヒツジ皮の小舟をあやつって、この工事現場へとやってきた。いままで静まりかえっていた青銅峡の峡谷は、たちまち人の群れでわきかえった。建設労働者たちはとうとうと流れる黄河を前にして、工事指揮所の大きな門札を「竜王廟」の門前にかけ、「竜王」の泥像が象徴する「天命観」にいどみ、党に指導された人民大衆に、祖国の山河を改造する偉大な力のあることを、実践を通じてしめそうと決意した。「竜王」の威光は地におち、その神通力も完全に失われた。

 屈強な若者たちは、つぎつぎと「黄河を断つ」突撃隊をつくり、困難な仕事をにないたいという要望書や決心書をさかんにかいた。以前は遠出したことのない回族の婦人たちまでも、「三・八」突撃隊をつくって、黄河との戦闘に身を投じた。歴史に、大禹は治水のため、三度自分の家の前を通りながら中へはいらなかったとったえられている。だが、いま、どれだけの妻が夫を、父が息子を、この建設工事に送り、どれだけの若者が工事に参加するために結婚をのばし、どれだけの人がなんどとなく家の前を素通りしたことだろう。青銅峡工事現場には、このような生きいきとした数多くの事績が伝えられているのだ。ある七十の坂をこした老人は、携帯口糧をたずさえ、ロバにまたがって、光栄ある革命の伝統をもつ六盤山地区から、はるぱると十日がかりで青銅峡工事現場にかけつけ、建設に参加することを申し出た。この老人は、真っ白なひげをしごきながら、感動して語った。「毛主席と共産党の指導があればこそ、各民族人民はこのような底力を発揮して、千々孫々の幸福のために力をつくすことができるのです」

人間は自然にうち勝つことができる

 黄河の凍結期がせまった。建設の期間を短縮するため、その年の凍結まえに、どうしても堰囲いをつくって、黄河の流路を半分にしなければならなかった。その数日間というもの、人びとは、一日の重労働をおえたあと、夜おそくまで、小屋やテントのなかで堰囲いの方法について熱心に討議した。かれらは、中国の勤労人民が何千年らい、灌漑のために河水を引き、流れを断ち、あるいは、黄河岸壁の補強・応急修理などをするなかで創造した、「草・土の堰囲い」の経験をしめくくり、この方法で水をさえぎる構築物をきずこうと提案した。

 この提案は工事現場で、はげしい論争をひきおこした。保守的な思想の持ち主は大衆の創造力を信ぜず、大衆の力を見ることができなかった。かれらの主張では、さかまく黄河の激流のなかに、このように大きな堰囲いをきずくには、ふるい書物に書かれているとおり、かならず砂石や木かごやコンクリートで堰囲いしなければならない、というのである。かれらは頭をふりながら、「草・土の堰囲い」ははげしい流れに押し流されてしまう、といった。

 その当時、青銅峡工事現場で必要な鋼材、セメント、木材などはみなよその土地から運んでいた。もし、コンクリートや砂石やかごを用いて堰囲いをするなら、資材運ぴにひまどって、黄河の凍結まえに堰囲いを構築することはむつかしい。したがって、何を用いて堰囲いをするかの論争は、期日通りに多く、はやく、りっぱに、むだなくダムをつくれるかどうかにかかわる問題であり、論争の本質は、人民大衆の無限の創造力を信じるか信じないかの問題であった。

 工事現場では、この問題をめぐって大衆的な大弁論がくりひろげられた。工程局の党委員会は、広はんな大衆の意見をあくまでも支持し、草、土で堰囲いを構築することに決定した。

 丁寧夏自治区各地では時を移さず、回族、漢族の治水の「土専家」(実践のなかで育った民間専門家)二六名を支援のために現地に派遣した。かれらは一万余名の建設労働者とともに、黄河の激流のなかで、ワラと黄土を一層ごと交互に積みかさねて堰堤を構築しつつ、黄河の流れの中心部へとすすんでいった。こうして、なみなみならぬ苦しいたたかいがはじめられたのである。

 冬季の西北高原には、骨をさすような寒風が吹きあれていた。黄河の流れは急で、波は高く、寒さは骨身にしみた。しかし、建設労働者たちの心は熱く、その意気ごみはすさまじかった。共産党員、堰囲い班の班長朱生金さんと三十年の治水経験をもつ回族の古参河川労働者馬永富さんらの「土専家」は、激流に洗われゆれ動いている堰囲いの先端に立って、水にまきこまれる危険もおそれず、みんなの先に立ち、昼夜兼行で、黄河の中心部へと堰囲いを築いていった。四十昼夜にわたる善戦の末、ついに、かれらははげしい流れを征服して、川底の東西両側にそれぞれ「草・土の堰囲い」をきずきあげ、黄河の河道の半分をふさいだ。この二つの堰囲いは、金城鉄壁のように、流量毎秒二一○○立方メートルの河水の衝撃をはねのけて、河床の掘削、コンクリートの打設など、工事の進行を保障した。

 広はんな建設労働者はこの大自然との闘争のなかで、大衆の倍大な力をみてとり、いっそう自信をもつようになった。まもなく、工事は、流れを断って堰堤をつなぐ重要な段階にはいった。そのときは、すでにあくる年の凍結期にはいっていた。黄河の気性を知っている人びとは、凍結期の黄河は冬眠中のうわばみのように、うわべはしずかでおとなしいが、厚い氷の下には、巨大な刀をかくしていることを心得ていた。このような状況のもとで、流れをせきとめて堰堤をつなぐ工事中に、もし水位が一メートルあがれぱ、連接点の上流句キロかにわたる氷が割れて、氷塊まじりの激流が堰堤の連接点に突きあたり、氷提をきずき、一瞬のうちに堰囲いをこわしてしまうだろう。こういう困難を前にして、ある者は、凍結期に流れをさえぎった「先例がない」とか、そういうことは「してならない」などと考えた。しかし、翌年の春、河水をひいて潅漑するには、流れをさえぎる堰堤をどうしても凍結期中につながねばならないのだ。

 困難に立ち向かい、だんことして大自然にうち勝つか、それとも手を束ねて待っているか、これは建設開係者たちが直面したいまひとつのきびしい試練であった。工程局党委員会は数十回も「諸葛孔明会」(みんなの知恵をあつめる会)をひらいたり、黄河沿岸の古参の河川労働者をだずねたりして、黄河の水の法則をあきらかにした。

 流れをさえぎる堰堤を連接するはげしいたたかいが、いよいよはじまった。建設労働者たちはなにものも恐れぬ革命的精神をもって時間と競走した。かれらは数万包みの爆薬に点火して、連接点付近の氷層を爆破し、一部分の流氷を新しく開さくした河道へひきいれた。それと同時に、寸秒をあらそって、石をつめた針金かごやコンクリート四面体を河心へ投じ、工事の速度をはやめた。

 最後に、大音響とともに巨大なコンクリート塊が堰堤の連接点にはめこまれ、気むずかしい黄河の流れが、ついにせきとめられたのである。

 青銅峡の峡谷には勝利の歓呼がこだまし、建設関係者たちの顔には勝利のほお笑みがうかんだ。これは、千古の「妖竜」といわれた黄河が、毛沢東時代の人民大衆の手でノドクビをしめあげられ、あの泥像の「竜王」が、人民に征服された黄河の水に押し流されて泥に変わり、東へと流れさったことを喜ぶほお笑みであった。

天地にいどみ、赤旗をかかげる

 赤旗はためく青銅峡工事現場では、車馬の往来がひきもきらず、爆破の音響がとどろき、昼夜兼行で建設工事がすすめられていた。

 ちょうどそのとき、劉少奇の修正主義路線による「施工中止の風」が吹きつけてきた。「施工を中止する」と「中止しない」とのたたかいが、工事現場ではげしくくりひろげられた。ある者はこう言った。――青銅峡の工事の規模は大きく、地質条件が複雑なうえ、所はといえば西北の辺境地方だ。工業の基盤も弱く、交通も不便なので、困難が多い。「おそかれ早かれ中止する」なら、「おそくなって中止するより早めに中止するほうがましだ」、と。広はんな労働者、幹部、技術者、各民族の勤労大衆は洞窟のなかやかがり火のかたわらで、毛主席のつぎの教えをくりかえじくりかえし学習した。「社会の富は、労働者、農民、勤労知識人がみずから創造したものである。これらの人びとが自分の運命をにぎり、しかも、マルクス・レーニン主義の路線をもち、問題を回避するのではなくて積極的な態度で問題の解決にとりくみさえすれば、世の中のいかなる困難もかならす解決される。」「この軍隊は勇往邁進の精神をそなえており、けっして敵に屈服することなく、あらゆる敵を圧倒する。」かれらは、毛主席の輝かしい著作のなかからかぎりない力をくみとって、心がひらけ、気持ち がパッと明るくなった。

 「青銅峡工事は大躍進の産物だ、中止してはならない」

 「青銅峡水利センターの建設は党と毛主席の少数民族地区の人民にたいする関心のあらわれだ、中止してはならない」

 「寧夏地区の各民族人民は青銅峡水利施設を必要としている、中止してはならない」

 広はんな建設労働者たちのこの革命的な声々は、春の潮のように、工程局党委員会に押しよせていった。広はんな建設開係者は断固としてつぎのように表明した。――困難はかならず克服できる!青銅峡水利センターはかならずきずきあげる! と。こうしてかれらは修正主義の「施工中止の風」をはねつけて、赤旗を高々とかかげ、工事現場で夜を日についで施工をつづけた。あるとき、基盤の開さく中に、大きな断層にぶつかった。建設関係者たちはそれを研究課題として、ひとりひとりが知恵をだしあい、方法をみつけて、劉少奇の「施工中止の風」に実際行動で反撃をくわえた。「人民大衆は限りない創造力をもっている」という毛主席の教えにしたがって、かれらは大衆に依拠し、断層征服の「堅塁攻略戦」を展開した。

 断層からにじみでる大量の地下水は、施工の「強敵」だった。開さく隊の労働者は川底よりも二○〜三○メートル深い井戸のなかで、ナワで体をつり、
岩石にをかけて、ボーリ
ンケをつづ
けた。汲水隊の労働者はすべての吸水ポンプを動かして、地下の湧き水を数十メートル上方の井戸の外へくみだした。厳寒の夜半は、気温が李下二十数度までさがる。人びとの帽子のふちやまゆ毛には、日い宿相がおりたように水分が凍りついている。しかし、寒ければ寒いほど、建設労働者たちの心は熱くなる。ある日のこと、一台の吸水ポンプが故障した。故障をなおすために、共産党員の常宝興さんは、「妖風にも吹き倒されず、困難にもおしつぶされない」英雄的気概をもって、まっ先に氷水のなかへとぴこんだ。それをみた他の労働者だちもつぎつぎに水中にとびこんだ。こうしてついに、かれらの手でポンプはなおされ、機械はふたたび動きだした。

 この期間に、建設者たちは、毛主席の「独立自主、自力更生」の方針をいっそうりっぱにつらぬき、集団の知恵と力を発揮して、二五○○余件の技術革新をおこなった。困難はひとつひとつ克服され、工事はぐんぐんはかどった。建設労働者たちはみずからの闘争の実践によって、劉少奇の「施工中止の風」の破産を宣告したのである。

 偉大なプロレタリア文化大革命は、春雷のとどろきのように、青銅峡の建設者たちに新しい巨大な原動力をもたらした。工事現場では、ただちに革命の烈火が燃えあがり、工事現場全体が革命的大批判の戦場と化した。各民族の勤労者は、青銅峡工事建設のなかにあらわれた二つの路線闘争の具体的な事実と結びつけて、劉少奇の「牛歩主義」「外国崇拝哲学」などの修正主義の黒いしろものを怒りをこめて批判し、毛主席の革命路線を実行すべきだという自覚をいっそうたかめたのである。かれらは文化大革命のなかでほとばしり出た革命的意欲を建設工事にそそぎこみ、一年の工事を半年で完成し、修正主義路線の妨害で失われた貴重な時間をとりかえそう、ときっぱり言い放った。鉄筋工、木型工、コンクリート工などの十余業種の労働者は、鉄筋が林立し、パイプが縦横に走る工事現場で、心をひとつにして協力しあい、ダム工事の主要部分であるコンクリート打ちこみをはやめるなど、工事現場全体には熱気立ちのぼる情景が現われた。

 ちょうどこの時に、ハルビン発電機工場で、青銅峡水利センター発電所用に、中国規格の水力クービン発電機ユニットを設計・製造した。建設労働者たちは親しみこめて、それを「気概を示す」発電機とよんだ。工事現場の労働者たちは、「『気概を示す』ユニットが予定よりはやくつくられたのなら、おれたちだって予定よりはやくそれを据え付けなければならない」といった。当時、二○○トン天井クレーンはまだ工事現場にとどいていなかったが、据え付け労働者たちは、重さ数十トンから百トンにおよぶ発電機を解体して部品を一つ一つつりあげて据えつけた。水力タービンの回転車輪は重さが六○余トンに達し、解体できないので、かれらは、二台の十トン起重機を同時にうまくつかってつりあげた。このようにして、かれらはわずか半年余りの期間で、最初の水力タービン発電機ユニットを据え付けたのである。

 一九六七年十二月二十六日、最初の発電機ユニットによって起こされた強大な電流が流れだした。この朗報はひろく黄河両岸の地域につたわった。各民族人民は、毛主席が寧夏人民におくってくれた輝かしい夜光の玉に歓声をおくり、毛主席の革命路線の偉大な勝利に歓声をおくった。

新しい絵巻をくりひろげる「塞上の江南」

 青銅峡水利センターの竣工によって、黄河は寧夏各民族人民に福をもたらす新しい道を歩みはじめた。「塞上の江南」(「塞上」は長城以北の地区の意味で、土地が荒れ、干害の多いところ。「江南」は長江以南の土地で、水のゆたかな肥沃な地方)といわれるこの地方には、美しく新しい絵画が描かれるようになった。波うつ「湖の水」は雄大なダムを通って銀の鎖のような用水路へと流れこみ、田畑のつらなる銀川平原へ向かい、ついで砂漠の奥深くにあるオアシスヘと流れてゆき、はてしなくつづく作物をうるおしている。五色の雲のただよう空中に立ちならぶ高圧送電線は、工場と農村とをむすび、電流の送られるところでは、モーターがうなり、機械が音をたて、夜になるとちりぱめられた星のようにあかあかと電灯がまたたく。今日の「塞上の江南」の繁栄する新情景を目のあたりにみて、また、いっそう麗わしい社会主義の前途を展望して、寧夏各民族の人民のなかに、感動で胸をふくらませ、熱情で心を沸き立たせないものがいるだろうか。 砂漠地域に行ったことのある人なら、そこで、水がどんなに貴いものであるかを知っている。ところが、いまでは、とうとうと流れる黄河の水が、騰 格里砂漠へ、毛烏素砂漠の周辺へとぴかれているのだ。ここの各民族人民がどうして喜びいさまずにいられよう!かれらは、はじめて黄河の水が流れてきたとき、流れについて走り、おどりあがって喜ぴ、歓声をあげた。老人たちは両手で水をすくい、目に感激の涙をたたえて子どもたちにいうのだった。「いいかい、これは毛主席が送ってくださった幸福の水じゃ。いつまでもしっかりとおぼえておくんだよ」

 賀両山の東ろくは、以前、何人もの外国人が、ここは一代や二代で改造できるようなところではない、と断言した砂まじりの荒れ地であった。しかし、毛沢東思想で武装した中国人民は、「二代」どころか、「一代」もかからずに、多く、はやく、りっぱに、むだなく、長い用水路を開さくして、青銅峡水利センターから黄河の水をひき、一万三三○○余ヘクタールの砂まじりの荒れ地を「塞上のオアシス」に変えてしまったのである。いま、潅漑区には、青々と草木が茂り、村と村がとなり合い、耕地は整然とならび、稲の穂が渡うっている。道のかたわらを流れる用水路のほとりには、並貴がえんえんとつづき、あちこちの果樹園からは、果物のかぐわじい香りがただよってくる。いま、潅漑区の用水路は網の目のようにはりめぐらされて、「干ばつにあえば灌漑でき、大水にあえば排水でき」、アルカリ地帯や水辺の砂地がゆたかな穀物の産地に変わっている。全潅漑区の耕地面積は二倍にふえ、食糧の一○アールあたりの収量は解放前の約七五キロから三○○キロ以上にふえた。昔の「風妙のひどい辺境には住人が少ない」とか、「黄河の旧河道には人家がない」とかという荒原とした光景は 、もう二度と見られない。

 こんにちの「墓上の江南」には、すでに南北をつらぬく強大な電力網が形成されている。この電力網の六○パーセントの電力が青銅峡水利センター発電所から提供される。六○○○余キロにのぼる高圧線はけわしい山をこえ、はてしない草地をすぎて、強力な電流を都市や農村、牧畜区に送り、工業、農業、牧畜業の発展を力づよく促じている。

 解放前、寧夏地方には、清朝皇宮の使い捨てた数十キロワットの小さな発電機が一台あるだけで、どこをみても現代工業といわれるものはなかった。青銅峡水利センター発電所が発電を開始してからは、冶金、石炭、工作機械、化学肥料、農業機械、紡績、電子など、現代工業の迅速な発展に必要な電力を十分に提供している。賀蘭山の広大な鉱山区では、あたかも「宝庫」の屏がひらかれたかのように、わずか数年のあいだに、十いくつの現代的竪坑が建設され、採炭を開始し、中国西北地区の新しい石炭基地の一つとなっている。

 ひろびろとした農村の、電気の通じたところでは、人民公社、生産大隊の「五小」工業(小型の炭坑、小型の化学肥料工場、小型の製鉄所、小型の農業機械製造工場、小型のセメント工場)が、雨後のたけのこのようにぞくぞくあらわれ、発展してきている。スイッチをいれると、揚水機、脱穀機、精米機、精粉機、飼料粉砕機、搾油機などがうごきだし、多くの過重な肉体労働から人びとを解放している。各民族勤労人民が、あかあかと電灯のともった政治夜学校の教室で学習するとき、一家の者がラジオや有線放送で国内外のニュースや革命的模範劇を聞くとき、また、あかるい電灯の下で、子どもたちが学課を復習し、婦人たちが新しい衣服をつくるとき、かれらは、毛沢東思想の時代に生活することが、どんなに幸福であるかを身にしみて感じているのだ。


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