水を治める


 大昔から人びとを災害でなやましてきた河川の両岸に、いまは青々と樹木の茂る頑丈な堤防が築かれ、新しく開さくされた百近くの運河が灌漑と航行に利用されている。長年、渇水状態にあった南方の山区と、つねに水不足になやまされていた北方の平原には、いま、数えきれないほどの人工湖があらわれ、電動ボンブ井一戸が設けられ、大小の用水路がクモの巣のようにはりめぐらされている。いく百いく千年らい、中国の大地でくりかえされた、「日照りがつづけぱ煙が出そうで、洪水がおそえぱ民家が流される」現象は、もはや過去のものとなった。

 これは、わたしたちが、いままで水害と干ぱつのいちぱんひどかった地区をたずね、そこのいくつかの水利工事現場を見たときにうけた印象である。

 いく千年ものあいだ、中国の勤労人民は、その生存と発展のために、毎年のように水とたたかわざるをえなかった。史料によれば、人びとは、その労働と知恵によって、世界でも有名な多くの水利工事をおこしたにもかかわらず、紀元前二○六年から西紀一九四九年までの二一五五年間に、のべ一○五六回の干ぱつと}○二九回の水害に見舞われており、つまり毎年一回の割合いで、干害か水害かに苦しめられたことになる。この史実は、勤労人民が社会的に奴れいの状態におかれていては、大自然や水の前にあっても、奴隷である以外に道のなかったことを物語っている。

 二十五年まえ、つまり、新中国が成立した当時、全目の河川は修補されず、堤防も決壊したままだった。いたるところ、「おてんとさまにたよる田畑」ばかりで、水利施設らしいものはいくらもなかった。水害と干はつば、しばしば連続的に、または同時にあらわれて、飢え死にするものは数百万、家を失い、あてもなくさまようものがいく千万人にものぼった。一部の帝国主義の予言者どもは、いい気味だといわんばかりに、新しい人民の国家も、歴代の政府が解決しえなかったあの自然災害のなかで、やがてつぶれるだろうと、期待していた。

 だが、政治上の解放をかちとった中国の勤労人民は、「水利は農業の命脈である」という毛主席の教えにしたがって、自分たちの手で、祖国の万里の山河を建てなおし、水を左右する主人公となった。帝国主義の予言者どもの期待も、はかない一場の夢に終わったのである。

 わたしたちが、かつて水害と干ばつで有名な長江、淮河、黄河、海河などの両岸をたずねたとき、無数の事実が、中国の水利建設にあらわれた大きな変化を教えてくれた。

 旧社会では、階級抑圧と自然災害はつねに並行していた。反動的な政治支配と思想統制は、人びとに水とたたかう客観的な条件をあたえないばかりか、水とたたかう主観的な力を見出すことさえ許さなかった。災害に見舞われると、反動支配者は水利をおこすという名目で、ほしいままに民衆から金をしぼりとる一方、「天命をおそれる」という孔孟の道をさかんに鼓吹して、民工に竜王廟(水神を祭るやしろ)を建てさせ、天を拝み神を祭るよう強要した。

 解放ご、毛沢東思想にみちぴかれた、社会主義革命の緯大なあらしは、勤労人民の手足を束縛していたカセを政治上、経済上からうちこわしたぱかりでなく、イデオロギーの分野でも、人民の主動性と創意牲に制約をくわえていた残滓や垢を洗い落とした。人びとは、天命にしたがい成りゆきにまかせる奴れい状態のふるい観念から解放され、大地をつかさどる主人公となったのである。

 早くも一九五一年に、「かならず淮河の治水をやりとげよう」という毛主席の偉大な呼びかけが発表されると、淮河流域の、先祖代々、洪水になやまされてきた人たちは、いちはやく、堂々たる治水大軍を組織して、淮河を治める工事現場へむかって出発した。淮河のはんらんで、なん十年も流浪をつづけた多くの老人や、夫を失い一家離散の浮き目にあった多くの婦人、水害のなかで生まれ水害のなかで成長した多くの青年が、みな毛主席の呼びかけの中から方向をみきわめ、力をくみとって、はじめて、自分たちの手で淮河の洪水を征服する自信がもてるようになり、その決意をかためたのである。かれらは、こんどこそわれわれが椎河の支配者になるのだ!といっている。二十数年らい、毎年、冬から春にかけて、数十万、数百万にのぼる治水大軍が、風雪をおかして、淮河の本流や支流地点で奮戦し、まれにみる大衆的治水の壮大な絵巻をくりひろげた。

 一九五四年の世界的な大水の季節に、長江のほとりにある武漢市の江西の水位は、漢口が浸水した一九三一年の洪水の時より一メートル以上も高く、水が市内の建物の二階を越えるようなところさえあった。このまれにみる大洪水とたたかう勇気があるかどうか。人民の新しい武漢市を守り通せるかどうか。武漢市の勤労人民は、実際の行動でこれに答えた。百いく日も不眠不休の日がつづいた。洪水にいどむ二十数万の戦士たちは、郊外にある陣家山を両手で掘りくずし、三五○万立方メートルの土と石で武漢市の提防をかためた。人はかならず天に勝つ、という思想で式奘された人間によって築かれた提防は、ついに、百年らいのまれにみる大水から武漢市を救ったのである。

 淮河流城の江蘇省北部垂下河地区にある興化県の解放前と解放ごの大きな変化は、中国の二つの異なる時代の縮図だといえよう。この県は地勢が低く、解放まえば、しばしば洪水に見舞われた。そのため、貧しい人びとの群れは、物乞いをしながら他郷を流れ歩いた。一九三一年の水害のときには、興南郷の一万一○○○余所帯から二六○○余名の餓死者を出し、夜逃げした世帯が六七○○余戸にたっした。解放ごの二十数年、淮河のはんらんによる脅威がなくなるにつれて興化県の人たちはたえず、知恵をよせあい、小さな力を集中して大きな仕事を完成する、いわゆる「蟻が骨をかじる」の戦術を展開して、施工体積一億七○○○余万立方メートルの土木工事をなしとげ、基本的に冠水をくいとめた。全県の食糧生産高は、一九四九年の一三・五万トンから一九七三年の七一・五万トンに上昇し、六倍あまりの増産をみせた。

 淮河北岸の安徽省懐遠県河溜人民公社で、わたしたちは、淮河の治水に二十数年も参加した労働模範で公社革命委員会の委員葛士陽さんをたずねた。今年五十六歳の葛さんは、旧社会で三十一年すごしたが、地主の搾取と淮河のはんらんで、いく度も、一家そろって故郷をのがれ、こじきをして歩いだものだった。そういうときに、かれはいつも考えた。――いつになったら淮河が冶められるだろうか? 百姓たちが二度と水害に苦しめられなくなったら、どんなにすばらしいだろう、と。だが、一年また一年と歳月は流れ、地主と洪水が、あいかわらず、かれの労働の果実をうぱいとっていった。葛さんは、これは「天命」だとばかり思っていた。そのうちに、中国が解放された。共産党が貧農と下層中農を指導して、地主を打倒し、土地改革をおこない、さらに大衆を組織して淮河の治水をやりだした。葛士陽さんもいく千いく万の民工たちといっしょに、一つの現場から次の現場へと移動し、淮河両岸でいくつもの冬と春を送った。間もなく、二○○余キロにおよぶがっちりとした椎北大堤防が築かれ、千にのぼる大小の貯水池が掘りあげられた。いく世紀にもわたってはんらんしつづけた淮河は、つい に治められたのだ。葛さんはその目でたしかめた。――この大工事を完成したのは、ほかでもなく、スコップと手押し車しかもたない、葛さんのような農民大乗であったということを。このことから、かれは大自然にいどむ人民大衆の能動的な力を感じとった。この力が、淮河を征服したばかりでなく、人びとの意識に存在する「天命観」をも一掃した。一九五四年、葛士陽さんは一農民から共産党員に成長した。いま、かれは依然として、淮河を治める新しい工事現場で活躍している。かれはつぎのように語っている。「わしらの先祖は、災害や苦しみの多い淮河をのこしたが、わしらは、子孫のために、幸福をもってくる新しい淮河を建設しなければならない!」と。

 資本主義諸国からおとずれる多くの友人たちは、中国のいろいろな水利建設工事を参観して、よくこんな質問をする。「なぜ、旧い中国では、いく千年も解決できなかった干・水害の問題が、新中国では、わずか二十数年で基本的に解決できたのか」

 この疑問は、中国の先進的な社会主義制度ならびにこの上もなく大きな社会主義的積極性をちつ人民大衆と切り離しては、到底理解できない問題である。

 各地のいろいろな水利工事の現場で、人びとが工事につかう主な道具といえば、大きなハンマー、尖った鉄棒、ツルハシ、手押し車などで、そのほかは、せいぜい民工たちの考案した簡単な機械類や発破用の火薬包が目につくくらいである。政府が直接投資・施工している、いくつかの規模の大きい工事をのぞいて、大衆みずからおこしている多くの水利工事の現場では、近代的な大型土木機械はほとんどみられない。

 社会主義を建設するために、自力更生、刻苦奮闘の精神を発揮して水利事業にはげむ戦士たちは、上にのべたような道具を用いて、いく世紀ものあいだ「中国の疾患」とよばれてきた、世界最大の災害の多い川――黄河を初歩的ながら社会主義の建設に奉仕する軌道に乗せたのである。かつて、華北平原に多くの悲劇をつくりだした海河をも、このような勤労人民がこのような道具をつかって、子孫代々に幸福をもたらす川に変えたのだった。

 解放前の中国には、二二○○万ヘクタールの冠水しやすい豊田があった。いま、そのうちの一六六○余万ヘクタールが徹底的に改造されている。あのころ、中国は農業大国でありながら、灌漑できる田畑はわずかぱかりで、それも雨水にたよるだけであった。いまでは、干ぱつや水害に見舞われても豊作を保障できる、安定した高収穫田がどしどし建設されている。二十五年らい、大・中型の貯水池が二○○○以上も建設され、排水・潅漑用の電機動力は三○○○余万馬力に達している。農業用の電力便用量は、解放まえの全国各地の電力便用量の総計を上回っている。歴代王朝や外国専門家も解決できなかった多くの難問題が、いまやこのような勤労大衆によって、つぎつぎに攻めおとされているのだ。

 国民党反動派が旧中国を支配していた時代、かれらが帝国主義の「専門家」と「権威者」に頭をさげて立ててもらった、「揚子江の水利開発」とか、「淮河の補強計画」とかの治水プランが、いち時新聞紙面をにぎわせた。だが、結局、それも失敗を宣告する報告書として資料保存室にのこされただけで、利用価値のある水利施設はなにひとつつくれなかった。長江がたぴたぴはんらんすると、国民党反動政府はようやく、武漢付近に三つ扉の排水用水門をこしらえた。いまなら、人民公社の一生産大隊で完成できるような小さな工事であるが、国民党は、なんと五ヵ国の「援助」にすがり、たっぷり三年もかかってやっとけりをつけた。ところが、新中国成立ご間もなく、人びとは自力でいちはやく長江で大規模な水利施設――荊江放水工事の施工に着手した。この工事には、荊江大堤防の補強、二○八キロにおよぶ新しい堰堤の構築、八六の弧型鋼板水門をもつ治水ダムと調節ダムの建設、および一七万にのぼる地元住民の住宅区の設置がふくまれていた。これらの工事は、毛主席の書かれた「広はんな人民の利益をはかるため、荊江の放水工事の勝利をかちとろう」という題辞にはげまされて、 わずか七五日で全面的に完成された。

 さいきん、わたしたちは、南中国海のほとりにある広東省汕頭地区の潮陽県をたずね、海面干拓の成果をみて大いに啓発されるところがあった。

 プロレタリア文化大革命のさなかのことである。潮陽県の人民は、いく世紀もつづいていた海水の逆流現象を徹底的に治めると同時に、大海を田畑にかえて食糧を増産するため、まったくの自力で、わずか九ヵ月のうちに海水をせきとめる巨大なダムをつくりあげた。全長一五○○余メートルにおよぶダムの水田の上部には、二台の大型トラックが並んで走れる道路があり、下には重さ九トンの水門の扉が七二コ掘え付けられて、二万ヘクタールにのぼる農田を海水の侵入からまもっている。そればかりではない。ダム完成によって、海面に二三○○余ヘクタールの良田が造成された。このダムの構築に必要な資材は、すべて手軽な方法で地元でととのえられた。たとえば、水門につかう三○○余万塊にのぼる大きな石材は、一○キロ離れた石切り場から取ってきたものだ。それを工事現場まで運ぶには、のべ七万台のトラックを必要とする。だが、潮陽県の人民は、国家から一台のトラックー滴のガソリンももらわず、主として三○○○台の自転車や手押し車などの簡単な運搬用具を用い、わずか八ヵ月で石材の運搬作業をなしとげた。改装した自転車が三○○キロもある重い石材を乗せて、昼夜の別なく海 浜のまがりくねった小道を往来する
さまは、まったく想像もつかないだろう。潮陽県のある老貧農は、「水門は自転車に乗せてきたもの、堤防は肩で担いできたものだ!」と感慨深げにいった。

 旧社会では、地主、資本家、官僚政客たちが、水利建設を利用して私腹を肥やしたものである。そのため、水争いの訴訟事件や暴力沙汰が頻発し、財産をつかい果たした者、死にいたった者が数えきれぬほどだった。今日は、生産手段の社会主義的所有制が基礎となっており、局部よりも全局のことを、個人よりも集団のことを、自己よりも他人のことを重んずる新しい人間関係がうまれたので、水利建設の統一的按配、全面的企画、総合的開発が保障され、工事は多く、はやく、りっぱに、むだなくすすめられるようになった。

 文化大革命の時期に、山東省済寧地区の人たちが、潅漑と航運をいっそう発展させるため、水利工事を始めたときのことだった。山東省の三万をこえる水利開発の戦士たちは、工事の必要から、隣省にあたる江蘇省の沛県にはいって、堤防沿いに川を掘ることになったが、それには三三○○余ヘクタールにおよぶ沛県の耕地をつぶさねばならなかった。このことは、沛県の耕地の少ない人民公社や生産大隊にとって、生産と生活の面に困難をもたらすものであった。だが、沛県の貧農と下層中農は工事計画にしたがって、代々耕してきた土地をすすんで譲りわたした。かれらはつぎのようにいった。「沛県では耕地が三三○○ヘクタール減っても、済寧では食糧が五万トンもふえる。わしらは、全国のことを考えて、革命のソロバンをはじくのだ!」と。

 ここ数年、江蘇省の人たちは、山東省内の水利工事が順調にすすむようにと、すべての水利施設を利用して、山東省からの放水をうけいれる態勢をととのえた。ところが、山東省の人たちは大水の季節になると、主動的に省内の微山湖の水門をとざし、江蘇省への水の放流をさえぎった。安徽省の人たちは、河南省の大水にはけ口をあたえるため、省内に人造河の開さくをひきうけた。河南省の人たちは豪雨期にはいると、自分たちのところが浸水しても、安徽省の安全をはかる築堤作業をいそいだ……。こんにち、わたしたちは、全国いたるところの水利工事現場で、中国の水利建設事業の前進をうながす社会主義制度の優越件を感じとり、その威力にふれることができる。

 新中国が成立して二十五年このかた、とりわけ、プロレタリア文化大革命がはじまって今日にいたる八年間、毛主席の唯物論と弁証法の輝かしい思想は、いく債という人民大衆のなかに今までになく広まり、中国の水利建設事業の目ざましい発展を大いにうながした。

 数年らい、いく億いく千万の人民大衆は、水利の開発に力をいれるとともに、水と土との弁証法的関係を正しく処理することに注意をはらって、整地、深耕、土壌改良などの大がかりな農地建設をはじめた。一九七三年の冬から一九七四年の春にかけての数ヵ月間に、かれらは、全国で約三三三万ヘクタールの灌漑面積を拡大し、五二○万ヘクタールの農地を整理し、ほぼ一三三三万ヘクタールの田畑を深耕した。そのほか、約九三万ヘクタールの段々畑をつくり、七三万ヘクタールにのぼる低収穫田の土壌改良をおこなった。この年は、農出水利建設の実際の効果からみて、解散いらい最高の年であった。

 ひろびろとした中国の北部地区において、農業生産の発展をさまたげる主な矛盾は干ばつである。年間の降水量が少なく、河川も涸れがちなので、この地区の広はんな人民大衆は、地下水の大量開発に大きな期待をかけていた。旧社会の多くの農村では、「易者」にたのんで陰陽をうらない、水脈をさがしてもらったが、いつも無駄骨折りだった。解放ご、人びとは地下水の開発と利用の面で、かなり大きな成果をおさめた。しかし、反革命の修正主義路線と観念論的先験論の害毒によって、かなりの地区が、「井戸掘り不可能」と宣告されたため、長いあいだ、地下水の法則をつかむことができずにいた。

 文化大革命の中で、北部地区の広はんな幹部と人民大衆は、唯物主義の認識論から出発して、客観世界がどんなに複雑で入りくんだものであろうと、それは認識できるものであって、地下水が客観的な存在である以上、かならず、それ自身の法則があるはずだ、とかたく信じた。かれらは実践、認識、ふたたび実践、ふたたび認識という科学的方法をつらぬいて、調査研究と科学分析をくりかえし、ついに「貧水区」、「井戸掘り不適地区」と宣告された甘粛省東部、陝西省北部、山西省西北部の多くの丘陵地帯と高原に、おびただしい電動ポンプ井戸を掘りあげた。いま、全国に一三○余万の電動ポンプ井戸があり、井戸水による潅漑面積はほぼ七三三万ヘクタールにたっしている。

 中国西南部の変化の多いカルスト地区で、水利事業の担当者と各民族の勤労人民は、さかんに地下時流の開発に力をそそいでいる。

 カルスト地形は、雨水や地下水によって、石灰岩が溶解・侵食されてできた特殊な地形である。このような地区で水利開発をするのは、なかなか容易なことではない。乾燥期になると、どこを探しても一滴の水跡さえ見あたらず、地面には亀裂が生じ、作物の苗は枯れてしまう。だが、地下の深いところには、さらさらと流れる水の音が聞こえる。文化大革命中、広西チワン(壮)族自治区の水文・地質調査隊の水源探査組は、カルスト地区の地下水開発問題にたいして、大胆な探査をこころみた。かれらは二二○○平方キロにおよぶ谷合いで、四二八ヵ所の地下水の地点を調査し、四四の洞窟を踏査した。そして、地元民の積極的な協力のもとで、ついに一九本の地下河をさがしだし、山地にある約二七○○ヘクタールの農山の潅漑と一万余人にのぼる住民の飲用水の問題を解決した。

 水利建設の面で中国人民がおさめた数々の成果から、わたしたちは、「社会主義は旧社会から勤労人民と生産手段を解放したばかりでなく、旧社会では利用する方法のなかった広大な自然界をも解放した」という毛主席の偉大なことばを、いっそう深く理解できたのである。

 もしも、二十五年まえに、中国人民は、ただ各自の村をまもるために洪水とたたかい、生きるために干ばつとたたかったというのなら、今日、かれらはもはや、ひとつの公社ひとつの生産大隊、ひとつの地区ひとつの県、あるいはひとつの省ひとつの流域に目をむけるのでなく、もっと広い視野に立って、全中国大陸の水利化の実現に目をむけ、人類のために、水をよりいっそう役立てたいと考えているのだ。

 江蘇省北部の揚州市東南方にある江都揚水ステーションは、中国最大の電力排水・潅漑ステーションである。三つの大型排水・潅漑設備をふくむ十いくつの設備からなるこの水利センターは、すでに長江と淮河の抗れをひとつにつないだ。渇水期がおとずれると、長江の水はこの水利センターを通って江蘇省北部の垂下河地区へ流れこみ、洪水に見舞われると、里下河の大水はこの水利センターから長江に排出される。目下、いっそう大きな効率をもつ新しい排水・潅漑ステーションの建設が、昼夜兼行ですすめられている。工事現場で働く大勢の技術者や労働者はつぎのようにのべている。――長江の水はいく百万年ものあいだ、ただ東中国海へそそぐだけだった。わたしたちは、これから川を北流させて、川水が坂道をのぼり、山々を越え、祖国の北部の広大な土地をうるおすように仕向けるのだ、と。

 偉大な理想と全般的な計画から出発して、数債万年かかって形成された古い山河に、大規模な改造の手をくわえて、中国人民と世界人民によりいっそう役立たせること、これがわれわれの時代における水利建設のもっとも著しい特色である。

 一九七三年の夏、中国の北部地区が干ばつに見舞われ、重要な工業都市である天津市は断水の脅威にさらされた。そのとき、濃々と流れる黄河の水が河南省の人民勝利用水路を通って、衛河、衛運河、南運河へと流れこみ、河南、山東、河北の三省をふくむ九つの地区、三○の県と市を貫流し、機を逸せずに天津の海河と北大港にそそぎこんだ。数千年らいの歴史をひもといて、このような奇跡がどの時代かにみられただろうか? また、このような偉業をなしとげた政府が一つとしてあっただろうか?

 もちろん、南方から北方へ大量の水をまわして、雨量の多い南部と水不足になやまされる北部との不均衡な状態を徹底的にあらため、中国の九六○万平方キロにおよぶ大地に水路網をめぐらし、中国の農村を緑につつまれた、ゆたかな米と魚の里にかえることは、まだ人びとの理想にすぎない。だが、それはけっして遠い将来のことではなく、いま人びとの手によって、しだいに実現されつつあるのだ。

 四川省中部にある仁寿県のある山村で、わたしたちは袁沢川さんという貧農出身の公社員をたずねた。この五十五歳になる衰さんは、ずっと生産隊の飼育係をしてきたが、代々、水不足になやむ仁寿県の水利建設にも力をつくした人である。一九六七年いらい、かれは業余の時間と休日を利用して、自主的に全県の水利資源にたいする全面的な調査と実地調査をおこなった。かれはおおよそ一年の月日をついやして、全県十いくつの人民公社をあまねく見てまわり、百にのぼる山を踏査し、往復のべ千余キロの道のりを歩いた。そのご、さらにいく晩も徹夜で、みずから調査した水脈データをもとに図面をえがき、水利建設に関するかれの意見書を県の指導機関に提出した。袁さんは、読み書きの能力が低く、年も年なので、ペンを握ると手がぷるえ、目もかすんでくる。そのため、書きまちがえることがよくあるが、かれは、そこに紙をはりつけて、もう一回書きなおす。このようにして、六十数力所も紙を切りぱりしたすえ、ついに、テーブル大の水利建設の見取り図を書きあげた。この略図が、はたして仁寿県の水利建設にどれだけの実用価値があったかは別として、一枚のありふれた水利の青写真でな いことは確かである。それは、人民に奉仕したいと願う一老貧農のまごころの結晶なのだ。

 祖国の水利事業を発展させるため、施恩久さんという古参労働者は、工事現場から工事現場へと、二十三年間も転戦しつづけてきた。いま、かれは淮河の北岸に新しく開さくされる運河の工事現場で、枢軸となる大型施設の据え付け作業に没頭している。かれはいつも口ぐせのようにいっている。「おれたちは小さなわが家にぱかりしがみついていちやだめだ。おれたちは社会主義という大きな山河を支配しなければなちない!」と。

 こんにち、中国の広大な国土には、このように英雄的な水利建設者がいく千いく万もいるのだ。かれらの顔に、自然災害のまえでどうにもならないという、旧社会の奴れいの面影が、わずかでも残っているだろうか? いや、まったくない。まさに、毛主席がはやくも大躍進の時期に指摘されたように、「中華人民共和国の九百六十万平方キロメートルの土地に住む勤労人民は、いま、ほんとうにこの土地を支配しはじめたのである」。


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