勝利の航海


 中華人民共和国成立二十五周年の前夜、長江の広い河口で、汽笛の音が高らかにひびきわたった。祝日の装いをこらした一万トン級の汽船が陽光をあび、波をけたててすすんできた。やがて、船体にしるされた力づよい「風慶」の二字が、人びとの目に映った。とたんに、色とりどりの放がひるがえる黄浦江の両岸で、「毛主席万歳!」「独立自主、自力更生の方針万歳!」の叫ぴがおこり、天までひびけとばかりうち鳴らすドラと太鼓の音がとどろきわたった。

 中国が自力で設計・建造し、すべて国産の設備を採用したこの遠洋航路に就航する貨物船「風慶」号が、勝利のうちに航海を終えて帰港したのだ。

 中国ではこのクラスの貨物船をいくつも建造しているが、その中で、すべて国産の設備を採用した汽船が完成とともに遠洋航海に出たのは「風慶」号が最初である。

 この「風慶」号が初の航海を無事に終えて帰港したのは、ありふれた出来事ではない。それは、中国が自力で建造した遠洋航路の貨物船が、大洋のはげしい風波にうちかてることを示したばかりでなく、それにもまして重要なのは、この事実が外国崇拝の思想を一掃して、毛主席の独立自主、自力更生の方針のたぐいない正しさをあらためて立証し、二つの路線、二つの思想の闘争というあらしのなかで、毛主席のプロレタリア革命路線を守ったことである。

 「風慶」号は、完成後の初航海で、太平洋、インド洋、大西洋を通過し、アジア、アフリカ、ヨーロッパの三大州を経、困難をのりこえて勇敢に三万二○○○海里を航行した。この航程は赤道をひとまわり半するのとおなじだ。この遠洋航海の成功は中国の造船史および海運史に新たな一章をつけくわえた。

成功した航海

 一九七四年五月四日、上海港をあとにした「風慶」号は、大洋をつっきり、海峡をぬい、赤道を越え、喜望峰をまわり、八ヵ国の八つの港に寄港し、一五○日ぶりの九月三十日に凱旋した。

 「風慶」号はゆく先さきで心からの称賛をうけ、高い栄誉をかちとった。

 「風慶」号が東アフリカのケニアの港モンバサで給油をうけて出航しようとしたとき、五十歳をこえている白人のパイロットが、
「すばらしい船だ!イギリスで建造したのですか、それともドイツで建造したのですか」と船長にたずねた。

 「中国が自力で建造したものです」
と船長がこたえた。

 それを聞いてパイロットは警き、中国製造というプレートのついているエンジンや航行設備をくわしく眺めていたが、その顔には感嘆の色が浮かんだ。そして船長に別れをつげるさい、「これはりっぱな船だ。初航海の成功をいのります」
といった。

 黒海にのぞむある港で、パイロットが船に乗り込んできたが、暗い表情をうかべていた。「風慶」号が係留しようとしている埠頭には、多くの船が停泊しており、航路も狭かったので、パイロットはエンジンとかじ取機の性能のことが気がかりだったのである。事実はそれにもっともよい回答をあたえた。「風慶」号は、熟練した乗組員の手によって、左右、前進、後退のすべての動作を号令が機関室にだされてから数秒間で正確におこなった。「風慶」号が無事に埠頭に横づけになると、パイロットは満足の笑みをたたえて、「船もりっぱだが、乗組員の腕も大したものだ」、としきりにほめた。

 「ブナ!ブナ!」(すばらしい!)という素朴な、親しみのこもる賛辞を、ルーマニアのコンスタンッァ港に寄港している「風慶」号の船上でよく耳にした。ルーマニアの年輩の港湾労働者は、船倉におりる手すりのついたタラップを指して「ブナ」といい、甲板でカーゴ・ウィンチを受け持つ労働者のために設けられている日よけ・風よけ用の詰所を指して「ブナ」といった。それから、船全体を指さして親指を立て、「ブナ、フアンポ」(なんてすぱらしい船だ!)といった。かれの目にしたことはは短いが、中国人民にたいするルーマニア人民の友情をよくあらわしていた。ルーマニアの友人は中国造船業の発展につよい関心をもっており、多くの造船技師が遠路をいとわず「風慶」号を見学しにきた。別れるとき、かれらは船長と政治委員にたいして、「われわれは、中国で建造した船の質のよさを忘れることができない。こんごもこうした友誼に根ざす技術交流がたえずおこなわれることをのぞんでやみません」と心から語った。

 「風慶」号がモーリシャスに寄港したのは、ちょうど初春のころだった。華僑たちは「風慶」号が入港したのを「最初にとんできた春のツバメ」にたとえ、老人や子どもをひきつれて続々参観にきて、五星紅旗の下で記念写真をとった。八十歳をこえている華僑の老人は、「風慶」号には外国製の機械設備がまったくないと聞かされてうれし涙にくれていた。

 「『風慶』号の甲板に立つと、祖国の土をぷんだようななつかしさを感じる。毛主席にお礼を申しあげなけれぱならん」
と老人はいった。

 地もとの華僑新聞は、トップに大見出しをかかげて、「風慶」号の遠洋航海についての報道と文章をのせた。出港寸前になっても、華僑の同胞がつめかけてきた。国産の船に手をふれるだけでもかれらはうれしいのだ。「祖国の船よ、いつもきてください!」とかれらは目に涙をうかべて叫んでいた。

 七月三十日、「風慶」号は船積みのためにイタリアのブリンジジ港に入港した。「風慶」号の雄姿は、恥じらずなデタラメを目にして、中国の造船業をけなした反中国のピエロ――アントニオーニにびんたをくらわした。広はんなイタリア人民は心から「風慶」号をよろこび迎えた。多くの友人は遠路をものともせずにかけつけ、花束や花かごをおくって「風慶」号の初航海の戦功を祝ってくれた。多くの友人は乗組員の手をかたく握りしめていった。

 「中国はすばらしい!毛沢東はすばらしい!」

遠洋航海に出る権利をかちとる

 「風慶」号の遠洋航海の成功を祝っているとき、人びとは「風慶」号が遠洋航海に出る権利をかちとるためにたたかわれたはげしい闘争を思いおこしていた。

解放ご、中国の造船業の内部には二つの路線のはげしい闘争がつねにみられた。立脚点を自力更生におき、自力で造船をすすめるか、それとも外国を崇拝・盲信して輸入にたよるかが、闘争の焦点であった。上海で一万トン級の船舶の建造に手をつけたのは、プロレタリア文化大革命のさなかであった。この偉大な革命運動は、劉少奇、林彪がおしすすめた外国崇拝・盲信、投降・売国の修正主義路線をつっこんで批判した。広はんな造船労働者は、自力更生の革命精神をふるいおこして、小さな船台(三千トン)をつかって一万トン級の船を建造し、アンペラ小屋のなかで一万馬力のエンジンをつくり、わずか八年間に一万トン級の船舶を数十集建造した。だが、それで闘争は終わったわけではない。すでに批判された一部のふるい思想は、一定の条件のもとでは、ふたたび頭をもたげるものである。国産の船や国産のエンジンは「たよりにならない」、国産の船は近海区域しか航行させず、遠洋航海を禁じるべきだ、と考えている者が一部にいた。遠洋航海をするには輸入したエンジンをとりつけるべきだ、とかれらは主張した。そのため「風慶」号の船舶証唄書の航行州の欄には「航行制限なし」、つまり 世界のあらゆる港へ航行してもよいと明記されているにもかかわらず、修正主義路線の影響によってもたらされたさまざまな妨害によって、「風慶」号は遠洋航海に出る権利をもたなかったのである。

 批林批孔運動のなかで、造船労働者は社会主義的積極性を大いに発揮した。その自力更生をめざす革命精神は、さかまく怒瀞のように、あたるべからざる勢いをしめした。かれらは「国産の船は遠洋航海に出ることができない」というデタラメなロジックをみとめることができなかった。革命的な大字報が江南造船所の労働者によってはりだされた。この大字報は「風慶」号が遠洋航海に出ることができるかどうかをめぐる論争が、国産の船とエンジンに欠点があるために遠洋航海にでられないのではなくて、いちぶの者の外国かぶれに問題があるほか、思想、路線に問題があるということ、つまり造船業内部の二つの路線、二つの思想のはげしい闘争であることをするどくぱくろした。

 外国かぶれとはどういうことをさすのか。それを江南造船所の労働者はよく知っている。江南造船所は一八六五年に大の外国かぶれ、外国人の下僕――李鴻章が創設した。この売国奴は「中国で船をつくる費用は外国から船を買い入れる額の倍だ」と宣伝して、売国・投降路線をおしすすめた。蒋介石反動政府は、アメリカから輸入した鋼材と機械をつかって「伯仙号」を建造しようとした。だが、数年たっても成功しなかった。解放前夜までの八十年間に、この「造船所」は船らしい船は一隻もつくっていないのである。解放後、毛主席と共産党のすぐれた指導のもとに、江南造船所の労働者は、燃えさかる大躍進の年代に、わが国最初の一万トン級の汽船「東風」号をつくりあげた。だが、劉少奇一味は「建造するよりも買ったほうがよいし、買うよりもチャーターしたほうがよい」という修正主義路線をやっきになっておしすすめた。江南造船所には、一万トン級の大きな船台が二つもあるのに、その「大きな船台で小さなはしけをつくり、大型クレーンをつかって小さなものをつりあげる」という不思議なことがおこなわれていたのである。この大字報は大きな反響をまきおこした。革命の渡は「風慶 」号の航行テストを強力に推進した。英雄的な「風慶」号は、一万一○○○トンの貨物をつみ、一二○時間にわたる航行をおこない、風速二○メートルをこえる烈風と激浪にうちかった。これによって、国産の船の設備、性能ともにすぐれていることが立証された。

 航行テスト成功という動かしがたい事実は、「風塵」号の遠洋航海を許さないさまざまなまやかし論に力づよく反ばくした。「風慶」号は、上級党組織の支持のもとに、遠洋航海に出る権利をかちとった。

あえて逆風にいどむ

 「風慶」号の建造にあたった労働者は、独立自主、自力更生の方針を貫徹する勇将であった。「風慶」号の乗組員はすべて逆風にいどんで船をすすめる英雄たちであった。毛主席の革命路線を守るため、乗組員は造船労働者とともに、外国かぶれに猛攻をくわえ、「国産の船は遠洋航海ができない」という外国に膝を屈する下僕哲学のワクを突破し、怒涛をおかして、国産の設備で装備した「風慶」号を大洋へすすめたのである。

 五十過きのある甲板員は、解放前に数集の外国船で働いたことがあり、帝国主義者からいやというほど搾取され、侮辱された。

 「長いあいだ、われわれは国産の船で大海原を航行できる日をどんなに待ちのぞんでいたか知れない。いま、造船労働者は意地のほどをしめして船をつくりあげた。だから、われわれは、この船をりっぱに乗りこなさないといかん」とかれはいった。

 すべての設備が国産である「風慶」号の初航海は、ヨーロッパ行きだった。それは「見えを張る」ことだなどという連中もいたし、ひどく気をもむ連中もいた。そうした連中とはまったく反対に、「風慶」号の乗組員は盛大な祝日を迎えるように、喜びにわきたっていた。「風慶」号の遠洋航海は、中国のプロレタリア階級と中国人民のために気を吐くものだ、とかれらは考えていた。

 出港に先立って、乗組員は真剣に準備をすすめ、船内の各設備の性能をいっそう理解するよう努力した。二等航海士は小組をひきいて航海用の計器の整備にあたった。かれらは些細なこともおろそかにせず、技術を学んだ。船上には各種の配線がクモの巣のようにはりめぐらされている。電気機械を受け持つ朱恒福さんは、若い労働者三名をひきつれて、設計図を見ながら、船内の配線をくまなくしらべあげた。江南造船所をはじめ、それに協力した各工場の労働者も、つぎつぎに船を訪れ、乗組員が設備の性能に精通するようなにかと援助した。乗組員と労働者は、中国が自力で建造したこの船を心から愛していた。ボルドー本にもパイプやバルブにも、どの部品にもかれらは愛情をもっていた。そうした感情は、中国の労働者階級の民族的自信と民族的な誇りをはっきりとしめすものであった。かれらは「風慶」号を世界の遠洋航路に就航する船の中にくわえ、中国人民と世界各国人民をつなぐ友誼のかけ橋にしよう、と決意をかためた。

 「気概を示す船を運転し、気概を示す人間になろう!」というのが、「風塵」号の乗組員が遠洋航海にさいして高らかにかかげたスローガンだった。かれらは、崇高な愛国主義と国際主義精神を体して、うまずたゆまず困難にみちた仕事に挺身し、設備、部品の維持と貨物の管理につとめた。「風塵」号は、米一万一○○○余トンをつんでルーマニアに向かった。米はひじょうに輸送しにくい貨物だ。船倉に二ヵ月も入れておくと、航行海域の緯度のちがいから、春夏秋冬、の気節的な変化に見舞われるからである。さまざまな悪環境のなかで、一等航海士の周釣庭さんは、食糧保管組の全員をひきい、五つの船倉を毎日三回点検し、気温、船倉内の温度、米の温度を適当に調節した。かれらは、船倉のなかをはうようにして往来し、大洋をかいた。赤道を二回通過したが、そのさいには船倉の温度が摂氏四十度にたっした。食糧保管組の人びとは日夜通風に心をくだいた。船の水密性能、空気調節装置も最新型であったから、米の温度はつねに摂氏三十度を越えることがなかった。一万一○○○余トンの米は最良の保管状態で相手側にひき渡された。

事実こそ強力な批判だ

 毛主席は中国農村における社会主義の高まりが到来したさい、つぎのようにのぺた。「大衆のなかには、きわめて大きな社会主義的積極性がひそんでいる。革命の時期にも決まりきった道しか歩けない人間には、こうした積極性がまったく見えない。かれちはめくらであって、その目の前にあるのばただ一面の暗やみである。かれらは、ときにはまったく是非を転倒し、黒白を混同するほどである。」国産の船が遠洋航海に出るのに反対した運中は、つまりそうした人間なのである。かれらは、労働者階級の偉大な力を信じないし、立場もまちがっており、実行する路線もまちがっているから、物事がすべて反対に見え、転倒させてしまうのだ。

 こうした連中は、自分のことを卑下し、外国人の前に出ると卑屈になるのである。最初、「風慶」号の遠洋航海の可否についての論争は二つの問題にしばられていた。その一つはエンジンである。「牛を乗用として馬のかわりにつかうわけにはゆかないし、条件がないのに大型のエンジンはつくれない」という者がいた。江南造船所の労働者は、「エンジンは船の心臓だから、どうしても自分でつくるべきだ。輸入にたよっていては、建造の速度が自由にならない。他人に首をしめつけられるようなことを、中国の労働者階級はすべきではない」と、まっ向から反対した。かれらはおどろくべき気力を発揮して、つぎつぎに困難をのりこえ、一万馬力のエンジンを自力でつくりあげ、「風慶」号にとりつけた。そして、このエンジンを「気概を示すエンジン」と命名した。いま一つは船の「五大」設備であった。レーダー、電子羅針盤など国産の五大計器をとりかえようと主張する者がいた。「風慶」号の乗組員はそれをぜったいに承知しなかった。かれらは、江南造船所や関連設備をつくった工場といっしょに、そうした外国かぶれの思想を批判した。

 「国産のエンジンはたよりにならない」などといった連中がいた。だが、事実はどうか。遠洋航海の途中、「風塵」号はスコールにおそわれ、風速二○メートルをこえる烈風と大波の試練にたえ、暴風雨とたたかいながら、安全に三万二○○○海里を航行したが、エンジンはつねに好調だった。帰航中、「風塵」号は大西洋のラスパルマス港から喜望峰をまわり、インド洋のモーリシャスヘと直行した。この航海は一万馬力のエンジンにとってきぴしい試練であった。そのとき、エンジンは十八日半ぶっつづけに運転され、喜望峰をまわるさいにはまたしても風速二○メートルをこえる烈風と大波におそわれた。青から喜望峰は天候の変化がはげしいため「眺めるにはよいが、通過するのがむずかしい」ところといわれている。その日は烈風で海ははげしく波立っていた。風と波が互いに力をそえあい、雷鳴がとどろき稲妻が定り、雨と霧が視野をさえぎり、大海原がはげしくゆれつづける。船は大波につきあげられたかとおもうと、波の深い谷間につき落とされた。だが「気概を示すエンジン」は正常な回転をつづけた。「風塵」号は烈風と大波とたたかいながら、はやい速度で前進をつづけた。銀色のとぴ 魚が波とともに甲板にうちあげられる。「これは竜王が新しい船と新しい主人にまみえるためにとどけた贈り物だからいただいておこう」と乗組員はユーモアたっぷりにいった。

 かつて「国産の船には輸入したレーダーをとりつけなけれぱ、遠洋航海に出てはならない」という掟を定めた者がいた。「国産のレーダーは三海里以内の映像しかキャッチしないから、役に立たない」などという者もいた。事実はかれらにもっともよい回答をあたえた。波の起伏する太平洋でのことだった。ある日の夕方、五○海里以上はなれたところにいくつか島がある、と推測された。国産のレーダーのブラウン管にはいくつかの点がはっきりとあらわれた。四八海里はなれたところはちょうど某島だった。船長がブラウン管の掃引輝点を移動させると、五○海里以上はなれたところにある目標もあらわれた。五ヵ月間も使用したが、国産のレーダーの性能はつねに良好で、遠洋航海での要求を完全にみたした。

 電子羅針盤は方向をしめす重要な計器である。国産の電子羅針盤は赤道の高温に耐えられないから、遠洋航海用には適しないと断定する者がいた。だが、上海航海計器工場の労働者は、工夫をかさねて製品の質を高め、電子羅針盤の使用可能な温度を摂氏四十五度から五十五度にひきあげた。このたびの航海では、電子羅針盤を一二○日間使用したが、つねに良好な状態を保った。

 国産の無線機は感度が悪いと心配した者がいた。事実はどうかというと、国産の無線機は周波数がつねに安定し、感度もよく、選択性もよかった。

 世界の造船と船舶用ディーゼル・エンジンの歴史をひもとくと、二千馬力のディーゼル・エンジンから最初の増圧一万馬力のディーゼル・エンジンをつくるまでに、資本主義国は四十年の歳月をついやしているのだが、中国は十三年しかかからなかった。小型の船舶の修理から大型船舶を自力で設計、建造するまでに中国はわずか十数年を要したにすぎない。つまり資本主義国が半世紀以上もかかって走破した道を中国は十数年間で走破したのである。

 「風塵」号が勝利のうちに遠洋航海を終えたという事実は、毛沢東思想で武装する中国の英雄的な造船労働者と乗組員が、「自力更生を基礎として失われたものを回復する決意をもち、世界の諸民族のあいだに自立する能力をもっている」ことを立証するものだ。


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