数十年らいの願いがかなったーー湘黔鉄道の建設


 中国の湖南、貴州両省のけわしい山岳地帯に、大西南地区に通じる鋼鉄の道――湘黔(湖南省株州=貴州省貴陽)鉄道が敷設された。

 この鉄道は、一九七○年に着工され、一九七二年十月に完成をみた。その間わずか二年の歳月をついやしたにすぎない。この鉄道の東端は浙ニB(gan4)(浙江省杭州=湖南省株州)鉄道、西端は貴昆(貴陽=昆明)鉄道とつらなり、中国を東西につらぬく第二の大幹線である。

湘黔鉄道の建設者

 「毛主席の命令だ!」

 「党中央が湘黔鉄道の建設を決定したぞ!」

 一九七○年の秋、党中央は湘黔鉄道の建設を決定した。この吉報は完成をみたばかりの成昆(成都=昆明)鉄道の建設現場にすぐさま伝わった。湘江の沿岸、苗嶺山間地帯の村々に伝わった。鉄道建設にたずさわる広はんな労働者と湖南、貴州両省に住む各民族の人民は喜ぴにわきたった。「貴州省東部と湖南省西部のけわしい山岳地帯を切りひらいて鉄道を敷設して、湖南省の株殊州と貴州省の貴陽を結び、物産ゆたかな大西南地区と首都北京、華東、中南地区をこれまで以上にしっかり結びつける、それはひじょうに大切なことであり、まことに結構なことだ」とひとりがいうと、「これは大西南地区にもう一つの大きな門をひらくものだ。これからは、大西南地区の物資、華東、中南地区の工業設備、技術者の交流がいっそう便利になる」といまひとりがおうじるといっだ具合である。貧農・下層中農はといえば、「この鉄道の建設をわれわれは数十年間まちのぞんでいた。いぜん、国民党反動政府は人民をしばりとるばかりで鉄道を建設しようとしなかった。解放ご、劉少奇の修正主義路線にさまたげられて、鉄道の建設ははじまったとたんに山止になった。プロレタリア文化大革命が律大な勝利をお さめたいま、毛主席と党中央は湘黔鉄道の建設を決定した。この決定をわれわれはあくまで支持する」と言った。

 「湘黔鉄道建設に、われわれは応戦する!」

 「湘黔鉄道の建設に、われわれはすすんで参加する!」

 革命的熱情にあふれる決意書がどっと各級の党委員会に舞い込んだ。

 成渝(成都=軍慶)、宝成(宝鶏=成都)、川黔(重慶=貴陽)、貴昆(貴陽=昆明)など西南地区の鉄道大幹線の建設に、あいついで参加した交通部第二鉄道工程局の労働者は、困難をきわめる建設の中で鍛えられて成長をとげ、そのつど建設任務をりっぱに遂行してきた。こんど成昆鉄道を完成したぱかりのかれらは、またしても湘踏鉄道の建設にすぐ参加するよう上級から呼びかけられた。熱情にあふれる労働者たちは、「全中国をあまねく踏破して鉄道を敷設するわれわれだが、毛主席の故郷にいって鉄道を敷設するのはなによりも仕合わせだ」といった。広はんな労働者と幹部は、休養・整備をあとまわしにして、建設現場の工事用道路や宿泊所ができあがるのもまたず、それまでの編成のままですぐさま旅装をととのえて出発した。どの作業隊の編成替えもぱく進する列車のなかでおこなわれた。労働者たちは、列車が家族の住む町や村を通過しても下車しなかった。かれらは沿線の駅で家族と二言三言ことばをかわすか、走る列車の窓から首を出して、線路のかたわらで待っている家族に手をふって別れをつげた。十余万の労働者とおびただしい設備、資材を満載する数百本の列車が南北から湖 南、貴州両省の新しい建設現場へとすすんだ。トラック隊は長蛇の列をつくってすすんだ。人びとの意気は天をつくばかりだった。

 「党中央のよびかけにこたえて、湘黔鉄道の建設に参加する!」というのが湖南、貴州両省の広はんな貧農・下層中農の共通の願いだった。かれらはかってわが子を人民解放軍に入隊させたときのように、優秀な民兵をえらんでこの鉄道の建設に参加させた。洞庭湖畔、湘江沿岸から苗嶺山間地帯にかけて、数十万の民兵が、車や船にゆられて鉄道建設現場へ向かった。だが、それは一部分であって、多くの民兵は、赤旗をおしたて、背のうを背にして、歌声も高らかに四方八方から徒歩で建設現場へとすすんだ。

 韶山地区の民兵は、出発を前にして、韶山駅にある毛主席の像の前で決起大会をひらいた。韶山生産大隊の党支部書記毛迪秋さんは、この地区の人民を代表して、社会主義建設に貢献するよう民兵たちにもとめた。民兵はつぎつぎに立って、「毛主席の故郷のために名誉をかちとり、湘黔鉄道の建設を完成するまでがんばります」と誓った。

 貴州省遵義の民兵は、偉大な歴史的意義をもつ遵義会議のかつての会場に集まり、党内における二つの路線の闘争史をあらためて学んだ。そして、道義の息子と娘であるわれわれは毛主席の革命路線をあくまでつらぬく、と誓った。遵義地区は、中国労農赤軍の革命的伝統を発揚して、湘黔鉄道を建設するなかで人民のために新しい功績をたてるよう教育するため、かつて天険の名をもつ烏江を強行渡河した中国労農赤軍の道案内であった革命的な老人――石揚光さんを民兵中隊の指導員として派遣した。

 湖南省部県からこの鉄道建設にくわわった民兵のなかに、謝太告という老いた石工がいた。解放前、かれは国民党反動派にだまされて湘黔鉄道の建設現場へつれてゆかれ、いやというほど苦しめられた。あげくのはて、かれは綿入れやふとんを売りはらって旅費をつくり、たりない分は物乞いをしながらやっとのことで故郷にかえりついた。こんど、湘黔鉄道を建設しようという党中央のよびかけを聞いたがれは、まず生産大隊に、ついで人民公社、区労委員会にでかけてゆき、建設に参加させてほしいと希望をのべた。幹部たちは、老人の志につよく心をうたれ、その希望をいれて、工事現場で若い民工に石工の仕事を教えさせることにした。老人は大よろこびで、三五キロの道を歩いて県城までゆき、先発隊といっしょに工事現場へ向かった。

 貴州省西部の高原に位する納雍県治昆区に七人の娘がいた。そのうちの三人はイー(彜)族、一人がチン(京)族、のこりの三人は漢族で、一番年上が十九歳、一番年下が十五歳。党中央が湘黔鉄道を建設することになったといううれしい知らせを耳にすると、かの女たちは、この祖国の建設事業に力をささげようと決意し、さっそく人民公社へいって申し込んだ。あまりのうれしさにねむれない夜がつづいた。だが、指導郡は、女の子だということで許可しなかった。七人の娘たちはすっかり腹を立てた。「婦人は天の半分をささえることができるのです。それなのにあなたたちは、なぜわずかばかりの仕事さえわたしたちにさせてくれないのですか?わたしたちをぜひ行かせてください」とかの女たちはいった。一九七○年十月二十日、鉄道建設に参加する治昆区の民兵は出発した。七人の娘は山をこえ、近道を二日間「急行軍」して、ついに民兵隊に迫いつき、大隊のなかに「まぎれこみ」、列車に乗って工事現場についた。指導部はかの女たちを発見すると、家に帰るようにといくどもすすめた。だが、かの女たちはきっぱり答えた。「毛主席のおいでになる北京へ通じるこの幸福な鉄道を建設するた めに働こうとあたしたちは決心を固めています。鉄道が完成するまで家には帰りません。汽車が走るまでは戦場から身を退きません」その決意の固さを知って、指導部はかの女たちを現場にのこすほかなかった。この娘たちは、そのご、湘黔鉄道の建設にめざましい個きをしめし、「鋼鉄七姉妹」の名をえた。

 数十万をかぞえる鉄道建設者の大軍は、一日も早く浦踏鉄道を完成したいという強い願いを胸にして、わずか一ヵ月余りで全員が工事現場に到着した。そのときを境に、鉄道の通過する河川の沿岸、人跡未踏の雪峰山脈、苗嶺山間地帯は人びとの叫び声でわき立ち、機械の音がひびきわたり、赤旗がひるがえった。夜になると、工事現場には灯火がかがやき、山も密林も立ちのぼる熱気につつまれた。数十万の建設者による鉄道建設の大会戦がすみやかに展開された。

急テンポですすむ大幹線の建設

 時間を短縮するため、多くの労働者と民兵は、工事現場に到着すると、自分たちの宿泊所を建てるのをあとまわしにして、野原、河辺、耕地のかたわらに竹で編んだむしろや木の枝で一時しのぎの小屋をつくると、すぐタガネやハンマーを手にして工事現場へでかけていった。電灯のとりつけが間にあわないときには、ちょうちんをともしたり、たいまつをもやし、かがり火をたいたりして、トンネルを掘り、工事用の道路をつくった。設備・資材が工事現場に近い駅や埠頭に山積みされていると、多くの作業隊の人びとはそれを人力で高い山の上まで連んだ。

 湘黔鉄道の東部区間に位する雪峰山脈と西部区間に位する貴州高原は、橋梁とトンネルがとくに多い。とりわけ、貴州省内の区間は、いたるところに高山渓谷、断崖絶壁がみられる。そのため、この鉄道のトンネルと橋梁の三分の二が貴州省の区間に集中しており、最長・最高の橋梁、最長のトンネルがあるのもこの区間だ。一日も早く、この区間の建設を完成することが、湘黔鉄道を予定よりはやく開通させる鍵であった。多くの施工機械は千メートルをこえる長いトンネルと大きく高い橋梁の建設現場にまわされた。そのため、短いトンネルなどのBクラスの工事を担当する作業隊は、機械設備不足という困難をすすんでひきうけた。交通部の第二鉄道工程局第二工程処にぞくする作業隊は、貴州省麻江県骨内の長さ六○○メートルをこえる格河トンネルを掘るさい、わずか数台のエア・ドリルと十数台のトロッコしかなく、材料も不足がちだった。そうした困難な条件のもとでも、労働者たちは全体の必要を考えることに徹した。「われわれのところには機械が少ないが、意欲は旺盛だ、材料が不足していても確信にもえている」とかれらはいった。工事を始めたとき、現場にはまだ電灯がづいていなか った。かれらは竹筒や杯、瓦、茶碗などを利用してランプをつくった。バラスを積む機械がなく、トロッコをひく牽引車がないので、労働者たちは、バラスや木材を人力で運んだ。「われわれには、手さげ式のバラス積込機(手)、11式の牽引車(足)があるから、心配することはない。かつての八路軍の足は自動車よりもはやかった。われわれの足も機械にひけはとらんさ」とかれらはユーモアたっぷりにいった。

 トンネル工事は山場を迎えた。貴州省の苗嶺大トンネル工事をうけもつ交通部の第二鉄道工程局第十工程処にぞくする労働者は、時間とあらそい、速度をはやめるためにはげしいたたかいをくりひろげた。このトンネル現場は水の少ないところだった。工事に着手すると、まずトンネルの出口にある大渓谷の上に長さ三○メートルの大きなコンクリート・パイプを架設する必要があった。だが、それをつくるにはコンクリートを攪拌する水が三○○トン必要だ。ポンプをすえつけてから仕事にかかると、トンネル工事がおくれる。「待つわけにはいかん。われわれは、山の上に水がなければ山のふもとから汲んでくる。どんなことがあっても川の水を山の上にひきあげてみせる」と労働者たちはいった。そこで労働者、民兵、幹部はもとより、夫のもとに訪ねてきていた婦人たちもたちあがった。かれらは、細く、けわしい山道をぬうようにして、水をかつぎあげた。大動トンネルが貫通すると、労働者たちはトンネルの大きな入り口の両側に、「汗水溶化千層岩」(したたる汗で岩をとかし)、「鉄臂打開万重山」(鉄の腕で山をくりぬく)と赤ペンキで大書した。この 文字は、湘黔鉄道の建設者たちの革命的な豪放さを記録し、いかに堅固なものでもうちくだき、攻むればかならず勝つという、毛沢東思想で武装する中国労働者階級の英雄的気概をしめすものである。

 架橋とトンネル掘り、前者は高いところで作業をしなければならず、後者はひじょうに体力を消耗する。そのため、婦人の参加は許されなかった。だが、湘黔鉄道の建設現場で働く多くの女子民兵は、一日もはやく鉄道を完成しようと、そうした古いならわしを打破するようつよく要求した。この鉄道の湖南省内の区間に「三・八」鉄橋、貴州省内の区間に「三・八」トンネルがある。その架設と掘さくにあたったのは主として女子民兵である。貴州省麻江県の高山を掘りぬいた「三・八」トンネルは、延長二五六メートル。このトンネルを掘さくしたのは丹寨県の女子民兵二一六名で、平均年齢わずか十九歳である。その半数はミャオ(宙)族、ショイ(水)族、プイ(布依)族の娘である。はじめ、指導部はかの女たちがトンネル工事に参加するのを許さなかった。そのため、かの女たちはこっそりと掘さく現場にもぐりこみ、掘さく法を学んだ。のちに指導部は、かの女たちの参加をみとめ、かの女たちの指導にあたる技術労働者を派遣した。少数民族の娘たちはそれまで以上にはりきった。髪を結い、スカート姿で作業するのは不便だとわかると、かの女たちは生まれてはじめて髪を短く切り、スカー トをズボンにはきかえた。重さが三五キロもあるエア・ドリルを使うのだから、その振動で腕や腹が痛くなり、目まいがする。それにもかかわらずかの女たちは、「どんなに岩が固くても、うちくだいてみせます。エア・ドリルの振動がどんなにはげしくても、かならず先頭に立ってつっこんでゆきます」と胸をはった。ハッパ孔をあけるさい、その位置が高く、エア・ドリルをささえるものがないと、かの女たちはエア・ドリルを肩でかついで掘った。したたる汗とトンネルの上部からにじみでる地下水で体がびしょぬれになるのだが、誰ひとりとして退却する者はいなかった。

 一九七一年二月二十七日の午後、一分一秒を争って掘りすすめられていた白約一号トンネルで落盤事故が発生した。大音響とともに、おびただしい石と土砂がどっと落下し、導坑の口をふさいでしまった。ちょうどそこでいっしょに作業していた交通部第二鉄道工程局第十三工程処第十五隊の労働者と貴州省息崎県の民兵連隊の民兵あわせて一七人は、トンネルのなかに閉じこめられた。せまい導坑内の空気は稀薄になり、みんな呼吸困難になった。だが、生死のせとぎわに立たされた労働者も民兵も、まず頭にうかべたのは自分のことではなく、掘さく作業を停止してはならないということだった。いのちのあるかぎり作業をつづけよう、とみんながいった。革命のために戦いをつづけようというのである。落盤が発生する直前に、かれらはコンクリートの攪拌を終えていたのだった。かれらは懐中電灯の光をたよりに、スコップでコンクリートをすくい、アーチ部分の石工作業をおこなった。ついで、土砂のなかにうずもれている工具を掘りだし、落盤の処理にとりかかった。一時間あまりたって、トンネルの外にいた同志たちの努力によって、ついに小さな穴があけられた。危険からのがれるときがきた 。だが、一七人は、生きるチャンスを他人にゆずって、自分が危険をひきうけることをのぞんだ。労働者も民兵も先に穴から出ようとはしなかった。やむなく指導員は、「民兵は先に出よ、労働者はそのあとから出る、幹部は最後に出るように」と命じた。一七人の勇敢な戦士たちは、感激の涙にむせびながらつぎつぎに危険区域から脱出した。翌日、かれらはまたみんなといっしょに落盤箇所の石や土を運び出して、トンネルを掘りすすめた。

 湘黔鉄道の各建設現場では、「鉄道の建設に要する時間は短いが、鉄道を使用する期間はひじょうに長いのだから、汗の流れるのはいとわず、あとに災いの根をのこさないようにしよう」ということばがよく聞かれた。このことばは、子孫の代まで責任を負う広はんな建設労働者の革命的精神をしめすものである。多くの作業隊や民兵中隊では、工事の出来ばえをしらべる大衆運動をくりひろげて、問題を発見し、ただちにそれを解決するための手をうった。コンクリート用のバラスで水洗いしていないものはそれがモッコひとつ分でも見のがさない。また盛土の石張りの中で、ひとつでも落ちつきの悪い石があったり、つき固めが不十分なところがあると、すぐに手なおしをする。労働者と農民が手をたずさえて奮闘した結果、わずか二年という速さで鉄道敷設のこの難工事を完成した。しかも工事の出来ぱえもよく、建設費もわりあいに安くあがった。それは、社会主義建設についての党の総路線の精神を具現したものといえる。

七千万の人民が後循

 鉄道建設の大軍が四方八方から建設現場へといそいでいたとき、沿線の都市と農村には、戦争のころに前線を支援したときのような感動的な場面がいたるところでみられた。湖南、貴州両省の七千万を数える人民は、鉄道建設の大軍の強固な後循であり、この鉄道の建設を順調にすすめるよりどころでもあった。

 湖南省の冷水江市では、通過する鉄道建設者をもてなすため、全市民が立ちあがった。小さな町だが、市民は二一○○ヘや以上も都合して、通過する労働者と民兵を泊めた。冷水江市の川沿いの一五キロあまりの自動車道路の両側には、接待所、お茶のみ場、医療ステーションが各所に設けられた。鉄道労働考や民兵が到着すると、紅小兵と市民は熱いお茶を入れて心からもてなす。仕事を終えて工場から帰ってきた労働者は、洗面や着替えもせずに、鉄道建設者の食事と宿泊所の手配にとび出してゆく。白髪の老人も鉄道建設者の道案内をひきうける。ここを通過する労働者と民兵は、そうした市民の暖かいもてなしに深く感動して、「冷水江が『熱水江』にかわった」といった。

 湖南、貴州両省の広はんな貧農・下層中農は、鉄道建設にいく民兵を励まして送る一方、鉄道建設大軍の支持に日夜心をくばった。湖南省黔陽県江市人民公社の六十の坂をこえる姚兆秀というおぱあさんは、湘黔鉄道を建設しようという毛主席と党中央のよびかけを聞くと、うれしさのあまり夜もねむれなかった。おぱあさんのひとり息子は抗米援朝の戦争のなかで命をささげた。

 「わたしのところには鉄道建設にゆかせたくても息子がおらんが、鉄道建設の支援には人におくれはとらん」とおぱあさんはいった。おばあさんは、近く出発する民兵におくろうと、灯火の下で毎晩夜のふけるのも忘れてわらじを三○足あまりあみあげ、それにわが家で飼っている大きなフター頭、自分がつくった野菜一五○余キロをそえて生産隊にもってゆき、鉄道建設労働者のもとにとどけて欲しいと幹部にたのんだ。そして家に帰ると、それだけではまだたりないと思ったおばあさんは、若鶏数羽を市へもっていって大きいニワトリととりかえ、それに娘のとどけてきたニワトリとアヒルをくわえて鉄道建設者のもとにおくることにした。生産隊の幹部は、自家用にとっておくようにとおばあさんにいくどもすすめたが、ことわられた。「毛主席、共産党がわたしの一家を苦しみのどん底から散いだしてくださらなかったら、どうして支援できるだろう。受けとってくれないとわたしは帰らない」と、おばあさんはいった。

 鉄道建設大軍が建設現場についたら、わらじ、むしろ、スコップやツルハシの柄がたくさん必要だし、それに野菜もたっぷり用意しておかなければならない、と貴州省竜里県麻芝人民公社の社員たちは考えた。そこで、鉄道建設の大軍が必要とするそれらのものを用意すべく公社の全員が立ちあがった。五里生産大隊の革命委員会副主任である共産党員の李華堂さんは、「われわれミャオ族が解放されて幸福に暮らせるのも、毛主席の指導のたまものだ。いま、毛主席は鉄道をわれわれの住むこの苗家寨まで放談することを決定された。この建設をわれわれは支援しなければならない」と家族に言い聞かせた。一家の者は夜どおしで働いた。六十歳をこえている父親はシャベルやツルハシの柄をつくった。母親はわらじをあんだ。李華堂さんは妻といっしょにむしろをあんだ。子どもたちはワラをはこんだ。こうして一家三代の者は、一夜のうちにわらじ九品、むしろ四枚、柄六本をつくりあげ、翌日、自家用の二十数キロもある大きなカボチャといっしょにそれを生産大隊の本部にとどけた。

 一九七○年の冬、貧農・下層中農出の社員二四名は、よく肥えたヒツジ万百数匹を追って貴州省東北部の沿河県をあとに、鉄道建設現場へ向かった。その途中、かれらは吹雪をついて、厳寒とたたかい、山中に露営し、答をこえてすすんだ。どんなことをしてもこのヒツジを一日も早くとどけるというのが、かれらの決意だった。ある日、とつぜん気温がさがり、雪が舞いだした。寒さにたえかねてヒツジが鳴きだした。社員たちも飢えと寒さにふるえた。だが、かれらは吹雪をさける場所をさがそうとはしなかった。そのときかれらが考えていたのは、雪におおわれた山奥で鉄道建設のため懸命に勘いている労働者と民兵のことだった。労働者と民兵のことを思うと勇気づけられた。かれらはふたたぴ吹雪をついて道をいそいだ。このようにして、かれらはヒツジの郡れを追って二十一日間、山を越え、川を渡り、七つの県を踏破した。行程四○○キロ、ついにすべてのヒツジを無事建設現場に送りとどけた。

 湘黔鉄道の建設がすすめられた二年間、建設にたずさわる人びとの身を気づかったのは、人民公社の貧農・下層中農だけではない。この二つの省の各業種の労働者と職員も、それにおとらず気をつかった。鉄道建設の大軍のゆく先々には、商業部門の移動販売部、銀行、郵便電報サービス・ステーションが出現した。

  * * *

 この二つの省の人民と鉄道建設にたずさわる労働者が団結してたたかった結果、湘黔鉄道は山山をうがち、峰を越え、急流をまたぎ、一九七二年十月十ご一日、勝利のうちに完成をみた。湖南省と貴州省の人民の数十年らいの願いは、ついに実現されたのである。


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