困難にめげない英雄たち――成昆鉄道の建設


 偉大なプロレタリア文化大革命のなかで、中国の広大な西南地区に、一本の鋼鉄の大道が出現し、雲南、貴州、四川の三省を結びつけ、西南辺境と中国の奥地との距離を大いに縮めた。

 これはほかでもなく、西南鉄道網のなかでの主要幹線――成昆(成都=昆明)鉄道である。



 成昆鉄道の建設は、中国鉄道建設史上、空前の壮挙である。鉄道沿線地区には、高山あり、峡谷あり、流れの急な大河ありで、地質が複雑なうえに、気候も変化きわまりない。早くも鉄道敷設に着手した当初から、一部の外国の「専門家」は、ここに鉄道を敷設することはとてもむずかしい、とはっきり言っていた。しかし、マルクス主義・レーニン主義・毛沢東思想で武装した中国の鉄道労働者、鉄道兵部隊の戦士、鉄道建設に参加した広はんな大衆は、あらゆる困難を圧倒する英雄的気概をもって、ついに、困難と危険にみちた鉄道幹線を勝利のうちに建設したのである。

 成昆鉄道の建設は、一九五八年七月に着手されたのであるが、劉少奇の反革命修正主義路線の妨害と破壊により、工事は、一九六二年になってほとんどストップしてしまった。一九六四年八月、偉大な指導者毛主席は、「成昆鉄道をはやく建設しよう」という戦闘的な呼びかけをおこなった。英雄的な鉄道建設の大軍は、祖国の四方八方から、津波のように建設現場へおしよせてきた。こうして、鉄道建設の大会戦がくりひろげられたのである。

 そびえ立つ大涼山、小涼山、とうとうと流れる大渡河、金沙江。これらは、長征のさい、毛主席が労農赤軍をひきいて通過したところである。鉄道建設の大軍は、毛主席がみずからそだてた刻苦奮闘の革命精神をうけつぎ、発揚して、赤軍の足跡の残された道にそって勇敢に前進した。かれらは、川辺の砂地にアンペラづくりの小屋をかけ、荒涼たる山野や谷に石をつんでかまどを築き、高山の頂には宙に浮かぶ施工用の臨時橋をかけ、大河の上には空中運輸索道を設けた。だれもかれもが、雄大な壮志をいだいて、道路開発の前衛になろうと争った。

 「頭をあげれぱかすかな空、頭をさげればさかまく流れ」という大渡河のほとりで、あるいは高くけわしい連山のあいだで、鉄道労働者たちは旅装をとくなり、ただちに戦いに身を投じたのである。

 鉄道第二設計院から派遣された人びとは、自分たちの手でじゃまな石を運び去り、山が高く、道のけわしいヤーロン江の川口に、ずらりとテントを張って、「革命村」と名づけた。

 工事現場には、自動車道路はもちろん歩道さえない。鉄道建設労働者と鉄道真たちは、多くの機械や器材を、肩でかつぎ、馬に乗せ、川を利用して、やっとの思いでトンネルの入り・目や橋脚のそばまで運んでいった。だが、大型の機械は運ぶことができない。そこで「集中したものを分散させる」方法をとり、機械を解体して、小さい部品のひとつひとつを、人煙まれな高山の上までかつぎあげた。通信兵と電気労働者は、雲霧をつきぬけ山河をこえて、高圧送電線を架設し、通信連絡の道をつけ、大規模な機械化による施工のための案件をつくった。技術者たちは、山を越え、川をわたって、調査・測量し、入念に計算をして、工事の設計を改善し、国家投資の節約をはかった。

 英雄的な鉄道建設の大軍の手によって、すみやかに施工にかかる道がきりぴらかれた。人びとは、これは長征の途上に鉄道を敷設し、万水千山を戦場とし、千草万馬が大進軍をするのだ、といった。



一九六六年、偉大な指導者毛主席がみずからおこし指導したプロレタリア文化大革命は、疾風のような勢いで全国を席巻した。

 成昆鉄道の沿線には、いたるところに赤旗がはためき、工事現場は人の群れでわきたった。広はんな鉄道兵部隊の指揮員・戦闘員および鉄道建設労働者と民工(工事に参加する地元の人民公社々員)たちは、劉少奇の鼓吹した「外国崇拝哲学」、「牛歩主義」など修正主義の黒いしろものをこっぴどく批判し、闘志にもえ、大自然がつくり出している困難や障害に向かって、勇敢に実進した。

 鉄道敷設のたたかいははげしいものだった。困難は続出したが、勝利の吉報もしきりに伝わった。

 大・小涼山や横断山脈には、七カ所も大きな山をめぐって線路を敷かねばならない。ところによっては、駅にする場所さえなく、やむをえず、トンネル内に駅を設けた。大渡河畔の一区間、二四キロにわたる線路上には、大渡河畔の「地下鉄」と呼ばれている、長さ二一キロに達するトンネルがある。海抜二三○○メートルの大涼山にも、長さ六・五キロの大トンネルを掘りあげた。この区間の鉄道は、大きな山の中腹を、時には東、時には西と縦横に交錯して走り、上、中、下三層の線路が、山腹をめぐって「眼鏡形」をなしている。地勢のけわしい竜川江の峡谷では、石豪菁から大田菁までの直線距離はわずか一五キロにすぎないが、高低の差は三○○メートルに達する。勾配を少なくするため、ここでは、一二七キロの鉄路を敷設し、長さ一八キロにおよぶ二十カ所のトンネルを掘った。鉄路はいく度となくカーブし、あるトンネルなどでは、山のなかで数キロ円をえがいてのち、入り目と同じ方向にある出口に達するが、その高低の差はなお数十メートルもある。この一つ一つの長いトンネル、三線トンネル、ループトンネルをいっしょにつなげば、まさに地下の長城である。これからみても、工事が いかに複雑で、いかに困難をきわめたかは、想像するにあまりある。

 しかし、英雄たちは困難に打ちひしがれることはなかった。鉄道兵と鉄道建設労働者たちは豪語している。「天高くとも、われわれにはよじのばる勇気がある。地深くとも、われわれにはもぐりこむ勇気がある。陰山悪水といえども、われわれの移動命令にはしたがう。英雄の前には難関はないのだ」、と。

 つぎにいくつかの例をあげよう。

 鉄道兵部隊の指揮員・戦闘員が、千メートル近いあるトンネル工事の任務をうけた。かれらがはじめて工事現場にやってきたとき、そこにあるものといえば、いくつかのタガネとかなづちと二台のふるいコンプレッサーだけだった。自動車道路は開通しておらず、暫時大型機械は運びこめなかった。戦士たちは、「愚公、山を移す」精神を発揮して、大型機械の来るのを待たず、提灯やたいまつをつけて山洞にはいり、かなづちを振りあげてハッパ孔をあけた。せまい臨時の坑道は通風がわるく、温度はつねに三十五度以上である。作業面も小さく、砕石が運び出せない時には、高温をおかし、砕石の上によこになって仕事をつづけた。戦士たちは、全力あげて山をくりぬき、連続五ヵ月、人力によるトンネル開さくの好記録をつくりだした。しかも、八ポンドのかなづちだけで、約千メートルのトンネルをうがったのである。

 兵部隊第十一中隊の開さくしたトンネルは、人びとから「地質博物館」とよばれている。ここには、突くとすぐにくすれる「爛洞子」もあれば、鉄のようにかたい「特堅石」もあり、摂氏四十余度という高温の「火焙山」、湧き水がどっとぷきだす「水簾洞」もある。真夏になると、「火焔山」のそとは、焼けつくような署さでシャツを着ていても皮がむけるほどだ。「火焙山」のなかば熱気で息がつまりそうだし、トンネルにはいると、まるでせいろでむされているようだ。戦士たちは、暑さのために目まいがすれば水をかぶって仕事をつづけ、息がつまりそうになると、湯ざましをのんでがんぱった。温度がいかに高くても、ぐちをこぼす者は一人もいなかった。ある日、ハッパをかけたとたんに、石のすきまから突然、骨にしみるほどつめたい水が噴出した。これは、地下の時流にぶつかったためで、トンネル内の状況が一変した。頭上は盆をくつがえすような「大雨」、足もとは膝まで水に没するありさまで、一昼夜のうちに九○○○トンもの湧き水が流れ出て、「火焙山」が「水簾洞」に変わってしまった。戦士たちは、昨日は署さで目まいがし、今日は逆に寒さでふるえた。しかし、みんなはびく ともせずにがんばりつづけた。夏がすぎ冬になって、水はますます冷たくなったが、意気ごみはますます高まり、毎月任務を超過達成した。

 鉄道建設の大軍はその英雄的な労働によって、困難にうちかったばかりでなく、かれら自身をも鍛えたのであった。



 数百の架橋工事現場は、いま一つのきびしい戦闘の場所であった。

 ここでは、ひろい川のうえに、長く巨大な橋を架設しなければならなかった。深い谷間に、一五〜ー六階建ほどもある高い橋脚と「空中駅」を建設しなければならないのだ。鉄道兵と橋梁架設工事隊の人びとは、困難をおそれず、危険をかえりみず、酷熱をおかして高所作業をつづけ、厳寒にもめげず水中にはいって橋脚の土台工事をおこない、昼夜の別なく危険な瀬や急流でたたかいつづけた。

 大渡河河畔の老昌溝は、長さ数キロ、深さ三○○余メートルにおよぶ大きな谷あいの裂け目であって、構内には雲霧がたちこめ、一日のうち、せいぜい一時間ぐらいしか日がささない。この深い溝の両側の断崖絶壁のあいだに、五四メートルの石造アーチ橋を架設しなければならなかった。ブルジョア技術「権威者」は、「外国にも先例がない、架設は不可能だ」といった。第二鉄道工程局の労働者は、盲信をうち破り、思想を解放し、革命的批判のはたじるしを高くかかげて、ブルジョア思想を批判した。かれらはこういった。「外国にあるものはわれわれも持つべきだが、外国にないものもわれわれは持つべきである」、と。かれらは革命的精神と科学的態度とを結びつけて、自力で設計し、在来の方法で工事に着手し、わずか五十五日間で、中国最長の石造アーチ橋の架設に成功したのである。

 英雄の称号をおくられた楊連第の生前所属していた中隊が、橋の土台工事をしていたときのこと。川水は咆哮をあげ、水しぶきをたてて流れ、水中には暗礁が林立し、ごろごろした粟石がかさなりあっていた。戦士たちは、冷たさの骨身にしみる急流のなかへもぐっては、ひと包まだひと包と火薬を粟石の下におしこんでハッパをかけた。寒くはないか、と聞かれると、かれらは答えた。「さかまく急流は冷たいが、戦士の心は暖かい。革命のため橋をかけるのに、苦しみや困難に敗けてたまるものか!」、と。

 ある日のたそがれどきに、央部隊第一中隊が橋の上で工事を急いでいた。突然、黒雲があらわれ、電光がきらめき、雷鳴がとどろいて、狂風とともにしのつく雨とそら豆大の雹が猛然と襲ってきた。中隊長黄徳竜さんは、橋のたもとで緊急会議を開いて、作業を一時中止するかどうかをみんなと相談した。戦士たちは、「われわれは、分秒をあらそって、一日もはやく鉄道を開通させなければならない。暴風雨は、われわれの革命的意志を鍛えるのにちょうどいいチャンスだ」といった。そこで、みんなはただちに、暴風雨のなかでの橋梁架設の安全措置を研究し、ひきつづき作業をすすめることをきめた。

 このとき、風はいっそうはげしくなり、雨もますますひどくなった。架橋用のクレーンでつりさげられた重さ百トンの橋げたが、風に吹かれてたえずゆれ動く。この緊急のせとぎわに、共産党員で副小隊長の扶康業さんは、架橋用クレーンのジブに跳びあがり身の危険をもかえりみず、すばやくその先端にはいあがった。そして、ロープにつりさげられていた僑げたの上におりて、機敏にジャッキをとりつけ、逆のプーリーを据えつけた。橋げたおろしの責任をもつ戦士たちが、いっせいにやってきて、くさりをしっかりつかみ、ゆれていた巨大な橋げたをびたりとおさえて、すこしの狂いもなく橋脚の上におろした。

 このようにして、それまで、橋梁の架設は不可能とされていた風雨の夜に、戦士たちは一般の習慣をうち破って、寸秒を争い、わずかの工事時間で、大きな橋げたを四つも架設した。第一中隊の戦士は時間と競走して、つづけざまに架橋の新記録をつくりだしたのである。



 一九六九年四月、中国共産党第九回全国代表大会が勝利のうちに開かれた。党の九全大会の精神にはげまされた鉄道建設の大軍は、「団結して、いっそう大きな勝利をかちとろう」という毛主席の偉大なよびかけにこたえて、「革命にカをいれて、生産をうながし、仕事をうながし、戦争への備えをうながす」新たな高まりをまきおこした。

 レール敷設用のクレーンは夜を日についで、山をぬけ、川をわたって前進し、架橋用クレーンの鉄の腕は、大渡河から金沙江のほとりへと伸びていった。こうして千里の鉄道が、千山万水のあいだに出現したのである。

 一九七○年七月一日、全国人民は、偉大な、光栄ある、正しい中国共産党誕生四十九周年を心から祝った。この日、成昆鉄道は勝利のうちに完成し、開通したのだった。労・農・兵と兄弟民族の代表を満載した二本の飾り列車が、それぞれ成都と昆明面都市から出発し、山をぬけ、川をこえて、かつて赤軍が長征の途上通過した西昌についた。ここで、十万の軍民による盛大な祝賀大会が開かれた。

 中国共産党中央委員会は、鉄道建設にたずさわった人びとに祝電をおくり、かれらがあらゆる困難にうちかち、帝国主義、修正主義、反動派と時間をあらそい、速度をあらそう闘争のなかで、勝利をかちとり、党と人民に大きな貢献をしたことを祝った。

 人心を鼓舞するこの祝電は、鉄道建設の大軍が新たな征途につき、さらにはげしい戦いへ身を投じるのをはげました。

  ここの生活が苦しいかどうかたずねるのなら、
  心のなかには七億五千万の人民がいると答えよう。
  祖国の鉄道敷設のためだもの、
  困難であれぱあるほどしあわせだ。

 これはある鉄道兵の詩である。この詩は鉄道建設大軍全員の革命的精神と戦闘的な意気込みを遺憾なく表わしている。


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