大慶新採油区の開発


 一九七三年一月、大慶油田党委員会のある指導者が重要な決定を北京からたずさえてきた。その内容がつたわると、油田全体がわきかえった。新採油区の開発だ、新採油区の開発だ、と人びとはつげてまわった。

 この新採油区の地下状況は、一九六○年の大慶油田会戦のはじめに明らかになっていた。油層が厚く、圧力も大きく、産油量も多く、品質もよい。長い間、大慶の労働者階級は、祖国が必要とするときには、すぐその開発に手をつけよう、と心にきめていた。

 その日がついにきたのだ。かつての大慶会戦から十三年後に、新しい会戦がまたしても大慶油田ではじまったのである。

新しい速度

 冬の大慶は、気温が零下二○〜三○度に下がる。はてしない新採油区の表土は三メートルも凍結しており、白い雪でおおわれている。この新採油区を開発するのには、十三年前と同様、青天井のもとで、草原を寝床としてがんばらなければならないのだ。新採油区は二年以内に完成させなければならない。しかも、その生産能力を一九六○年から一九六五年までの六年間に大慶油田が実現した生産能力をしのぐものにするというのだから、任務はひじょうに重い。大慶の労働者と幹部は、「大慶の労働者階級は国家からあたえられた任務を完遂する伝統をもっているが、それを完遂しなかった記録はもっていない」といい放った。かれらは、他の地方から支援をうけるというはじめの計画を放棄して、自力で新採油区開発をすすめることにした。

 それは強行作戦であり、速攻戦であった。上級の決定がったえられてからニヵ月たらずで、新採油区開発のプランができあがった。ついで、数十のさく井隊が数十キロないし百キロはなれた旧い採油区から、長蛇の列をつくってぞくぞくと北上した。

 さく井をおこなうさいには、一四○の技術部門がそれに協力する必要がある。その隊伍が目移さえぎるもののないこの荒野にどっと進軍したのだ。戦闘準備にはもちろん、宿営の用意にも相当な時間を要する。それに現場のさく井隊が水を、電気を、泥水を、セメントを待っている。そのうちのどれが欠けても、さく井機は働かないのだ。労働者たちの眼は血走った。この新採油区を擁する荒野の重大なふたを一挙にあけたいと、あせっていた。「革命は歩みをとどめることができず、仕事は待つわけにはゆかない。社会主義を建設するには、むこうからやってくる餌をついぱむ水鳥のように、くびを長くして待っているわけにはゆかんのだ」とかれらはいった。そこで「待つ」という考えを否定する強行作戦が展開された。

 送電するには、二○キロにわたる高圧送電線路を架設する必要があった。いつもなら十五日間かかるのだが、架線工は八時間で架設した。早朝の新採油区南部の原野には、目をさえぎるものはなにもなかった。それが、午後になると、高さ八メートルの電柱四○○本が立ちならんだのである。強力な電流が各さく井隊に送られた。

 給水するには、給水管を一五キロ敷設しなければならなかった。さく井指揮部は午前一時に会議をひらき、三時にそれが終わると、五時には人員を召集した。東の空が白む七時には、電気溶接のできる者一四○余名が電気溶接機二三台をもって施工現場にかけつけた。それから三日目、各さく井隊に通じるパイプの敷設が終わって給水が開始された。工事は二十数日くりあげて完成をみたのである。

 さく井機にとって泥水は、人間の血液のように不可欠なものである。そのころは、凍てついた大地がよみがえりはじめたばかりで、粘土の層が顔をのぞかせてはいるものの、その下には硬軟とりまぜた層がつづいていた。泥水池を掘るのに、機械が使えず、ツルハシも役にただす、ダイナマイトを使っても水がめほどの穴があく程度だった。指導部がこの難問題の解決に頭を痛めていたとき、さく井労働者たちは「一枚一枚皮をはぐ」方法を考え出した。昼間は太陽熱で、夜になるとかがり火をたいて表土をすこしずつ溶かし、溶けたところを掘ってゆくのである。この方法を採用したので、油井が一本掘りあがったときにはもういくつかの泥水池が掘りあがっていた。

 新採油区の会戦の高速度は、「待つ」という考えを一掃する戦いによってかちとっだものであり、一分一秒をあらそってかちとったものであった。それはまた、大慶の労働者階級が革命プラスいのちがけ精神を発揮して風雪と厳寒を相手にたたかいとったものでもあった。

 一九七三年初冬のある日、新採油区を一刻もはやく開発しようと取組んでいる大慶の労働者・職員の意志と力を試すかのように、数年にいちどというはげしい吹雪がとつぜん襲ってきた。その日、風速二○メートルの烈風が雪をともなって吹き荒れ、大草原は厚い積雪でおおわれた。新操油区の工事現場で、人びとは、はげしい吹雪とねばり強くたたかいつづけた。

 「零下四十度をこえる厳寒のなかで、吹雪をついて作業をつづけるさく井労働者は寒さにやられはしないだろうか?」指揮者たちは、棒を手に、雪だるまのようになって、つぎつぎにさく井隊を訪ね、労働者を見舞った。かれらが一二○二さく井隊に着いたのはもう深夜だったが、全員が作業をつづけていた。烈風にあおられて立っているのも困難であり、眉毛にはつららがさがり、まつ毛も凍って白くなっている。それでもかれらはさく井機のブレーキをしっかり握りしめ、重さ五○キロ以上もあるプライヤーをふりまわして、ビットを地下へとおくりこんでいた指揮者はいくども作業をやめさせようとしたが、「一日でも早く新採油区を開発するには、雪はもちろんのこと、たとえ刀がぷってもがんばる!」とかれらは胸をはった。そびえ立つ鉄のやぐらが烈風にゆれる。高さ二四メートルの台上に立つ労働者は、小さい舟にのっているかのように体がゆれる。それでも、かれらは数時間立ったまま、鋼鉄でできた里人のように、おちつきはらって作業をつづけた。

 鋼鉄でも吹雪や厳寒の中では凍ってひぴ割れを生じる。だが、大慶の労働者は、吹雪や厳寒の中で、しりごみはしなかった。新採油区の石油を一日もはやく国家にささげようと、かれらがしめした、大自然とたたかう革命的意志は鋼鉄よりも固かった。

 会戦は急ピッチですすんだ。新採油区では一二六六隊の「三たびスタートをきる」美談が語り伝えられた。一二六六隊は、一九七三年に三○本の油井を掘る計画をたてていたが、九月二十二日までに、つまり百日間くりあげて任務を完遂したのである。かれらは、祝賀会をひらかず、二回目のスタートをきる動員大会をひらき、その日から年間平均一人あたり油井を一本掘るという第二の奮闘目標の完遂をめざして意進した。十二月十四日には、この第二の目標も実現した。全隊員四三人が油井をこの日までに四二一本掘りあげたのである。新採油区で活躍する数十のさく井隊のなかで、人力からいっても設備などからいっても、この一二六六隊は「末弟」だった。その「末弟」が「兄」たちを追いぬいたというニュースが、新採油区をゆるがした。このすばらしい成績をあげた一二六六隊の労働者たちは、「社会主義を建設するからには、駿馬にムチうってもっとがんばらなければならん」と言った。かれらは、こんども祝賀会をひらかず、息つぎもせずに、三回目のスタートをきり、さらに前進をつづけた。そして国家のために、年末までのあいだに二本の油井を余分に掘りあげたのである。

 さく井労働者は、多くの油井をはやく掘りあげ、一本掘りあげることにポンプ装置をとりつけて仕上げをする。それを採油労働者がりっぱに管理してゆくのだ。雄々しい大慶の労働者はいつも新採油区開発スケジュールの一足先をすすんだ。採油の開始が十月一日だったのを八月一日にくりあげ、さらにそれを七月十八日にくりあげた。最初の油井のさく井をはじめてから、採油するまでわずか九十八日間を要したにすぎない。このように大きな採油区の開発で、着手したその年にかなう高い生産水準にたっしたのは、中国の石油開発史上に例のない急速度の発展である。

新しい高峰

 新採油区の建設に参加した指導者と労働者の多くは、全国の大油田を転戦したベテランだ。だが、この新採油区のように複雑な地層にはあまり出会ったことがない。

 新採油区は油層の圧力が高く、そこには天然ガスが豊富に埋蔵されており、中国で開発された最初のガスキヤップ押し型油層である。採油区の油層全体がガスにおおわれており、地下数百メートルのところにも高圧の天然ガスの層がいく層もある。新採油区全体が「ガスのトラ」のようなものであり、さく井のさい、すこしでも措置をあやまると「ガスのトラ」が気嫌をそこねて噴出をはじめるのである。

 一九七三年四月、中国で最初の開発のたたかいがはじまった。一二六一さく井隊は命令をうけて新採油区の中部に直行じて、たたかいをばじめることになった。そこはこの採油区で天然ガスがもっとも集中し、もっとも活発な動きをしめじているところで、「トラの日」とよばれていた。さく井をはじめてまもないある日、とつぜん「ゴーッ」という大音響とともに数十メートルの黒いガスの柱が井戸の口からたちあがった。ガスが噴き出したのだ。地下に埋蔵されているガスと水が茶碗大の岩石や泥砂をともなって噴き出した。重大なガスの波がうなりをあげ、数キロ四方を震かんさせた。この噴出をはやくおさえないと、高さ四○メートルのやぐらとさく井現場のすべてが地下にのみこまれてしまうのだ。

 まさに危機一発である。そのときさく井隊の指導員ケイ大釣さんがやぐらの下の台の上にとび上がり、落着きはらって指揮をとった。数十名の労働者はつづけざまに泥水池にとびこみ、体で泥水をかきまぜた。その他の隊員と四方八方から援助にかけつけた人びとは、泥水池にセメントと重晶石粉を流し込んだり、器材を運搬したり、台上にあがって噴出をおさえる作業に従事した。最初にガス制圧に立ち向かった人びとはガスにやられて倒れた。二番手がつっこんでいった。かれらも噴出する岩石で負傷した。三番手がつっこんでいった。井戸を救うまでは絶対にあとには退かん!

 三時間にわたる雄々しいたたかいのすえ、噴出はついにおさえられた。ケイ大釣さんは、噴出によってさく井不能になった井戸を眺めて考えた。――「ガスのトラ」を征服するには、胸をはり、頭をあげ、困難を知りながらもそれと取り組む気概が必要だ、と。幹部にその意気ごみがあれば、隊員はそれとたたかう意欲をもやす。かれは全隊員をひきいてふたたぴ「トラのきばをぬく」ために立ちあがった。

 経験不足がもとで、二本目の井戸もガスが噴出した。一ヵ月のあいだに二回も噴出事故をおこせぱ、それはそのさく井隊にとって大きな圧力となる。指導部は、一二六一さく井隊にひと息入れさせようと、しばらく圧力の低い油井を掘らせようとした。そのニュースがケイ大約さんの耳に入った。かれは全隊員を代表しで指導部にかけつけ、「噴出させたから撤退するというのではなんとも意気地がない。この『ガスのトラ』を征服しなければ、死んでも死にきれない」と訴えた。

 二回の噴出事故は、このさく井隊をふきとぱさなかったばかりか、それとは反対に、噴出すればするほど、かれらは意欲をもやした。指導部は、なにものをもおそれないかれらの革命的な硬骨ぶりにつよく心をうたれ、ただちにかれらの要求をみとめた。全隊員は、戦略的には「ガスのトラ」をハリコのトラ、戦術的にはそれを鉄のトラとみなして、手ぬかりのない措置をこうじ、ついに最初の高圧油井を掘りあげた。

 新採油区開発の途上で、大慶の労働者はあえて困難にいどみ、さまざまな難関を突破してゆく、なにものをもおそれぬ英雄的気概をしめし、なにごともゆるがせにしない作風をもしめした。

 一二七四さく井隊が新採油区で掘りあげた最初の油井は、その角度が一・七度であった。二本目は一・八度で○・一度増であった。工事の質的標準からいうと、井戸の角度は三度以内であれぱ合格である。こんなに複雑な地層を相手にさく井するのだから、すこしぐらい斜めになっても大したことはない、と言う者がいるかも知れない。しかし、二本目の油井を掘りあげると、一二七四隊の指導員趙行忠さんは、「なぜ○・一度の差が生じたのか」をみんなに討議させた。

 「この○・一度を軽視してはいけない。実際、それは社会主義建設をすすめるさい、つねに高い目標をめざすべきかどうかを意味している。思想的な注意をおこたると、年末までには一八度にたっするものを掘るかも知れない」とかれはいった。

 思想的にこの「○・一度」をどう考えるかという闘争をへて、若い労働者が九五パーセントをしめるこのさく井隊は、複雑な地層を相手に数十本の油井を掘りあげたが、斜月一・八度を上回るものは一本もなく、もっともすぐれたものは斜角○・二度どまりという成績をあげた。

 大慶の労働者階級は高峰によじのぼるという大志を胸に、わずかご一カ月間で「ガスのトラ」を征服してしまった。

 六十年代に、大慶の労働者階級は自力更生の精神を発揮して、中国最初の大油田を開発した。七十年代にも、かれらは中国の最初のガスキヤップ押し型油層を高速度で開発したのである。大慶の労働者・職員は、にないきれないほどの重荷をにないつづけ、のぼりつめられないほどの高い峰をひたすらのぼりつづける。新採油区にオイル・ガス輸送施設をよりよいものにしようと、設計者と研究者は新旧採油区をあまねく踏破し、内外の先進的なフロー・システムの長所と短所を比較して、十数年にわたる大慶油田の開発・建設経験をしめくくり、新採油区の地質条件と原油の質とを結びつけて、七十年代の水準をゆく建設上の新しい操作法、新しいフロー・システムをまとめあげた。この新しいフロー・システムの採用によって、新採油区の長期にわたる安定した高い産量が確保されたばかりでなく、多くの人手をはぶくこともでき、今後の油田管理の自動化によい条件がもたらされた。いま、新採油区の油井のそぱには、忙しくゆききする採油労働者の姿は見られない。かれらは、同時に一五本の油井をコントロールするポンプ室の椅子に腰をおろしたままで、油井の生産管理ができるのである。

新しい世代

 わが国の石油事業の発展にともない、かつての会戦に参加した「古参の大慶人」は種子のように祖国各地の新油田に転じ、はつらつとした多くの若者が大慶にやってきた。新採油区開発に参加した者十人のうち七人までが若者である。六十年代におこなわれた会戦のさいには「赤いネッカチーフ」を首にまいており、プロレタリア文化大革命のさいには紅衛兵だった者が、こんどの新しい会戦では縦横無尽に活躍する勇将となった。

 たたえるに値する若い勇将はたくさんいるが、ここではそのうちの一人をとりあげよう。それは、新しい会戦がはじまる直前に、一二○五さく井隊の隊長に任命された高金穎さんだ。

 二十六歳の高金穎さんは、文化大革命がはじまってまもないころ、一二○五さく井隊の労働者になり、「鉄人」とよばれるもとの隊長三進喜さんから教えられ、なにかと助けてもらった。六十年代に、一二○五さく井隊の初代の隊長三進喜さんはみんなの先頭に立って、重さが数十トンもあるさく井機を鉄道の駅からさく井現場まで人力で運ぴ、大慶油田最初の油井を掘りあげ、大慶開発に功績を立てた。七十年代には、この英雄的なさく井隊の七代目の隊長高金穎さんは、時間を短縮するために、みんなの先頭に立って、クレーンのかわりに肩で重いクラウンブロックをやぐらのてっぺんにかつぎあげてとりつけ、革命プラス命がけの精神を発揮して、新採油区会戦の最初の油井を据りあげ、大慶の発展に貢献した。

 高金頴さんは腰椎間板ヘルニアという持病がある。一九七三年の夏のある夜、特殊な事情から、かれは十八時間もぷっつづけに働いた後で、帰路についた。過度な作業による疲労がたたって、腰がはげしく痛み、左足がしびれて知覚がほとんどなくなった。痛みをこらえながらかれは一五○メートルほど歩いたが、くさむらにぶっ倒れた。しばらく体んでから、かれは立ちあがって歩きだしたが、五○メートルほど歩くとまたぷっ倒れた。かれは歯をくいしばって立ちあがり、一歩一歩と強い意志を発揮してすすんだ。そのとき、かれはなにを考えていたのだろう。かれの思いは全国をかけめぐっていた。――わが国は、あちらでもこちらでも新しい油田の開発と建設をおこなわねばならない。それにはさく井機をあそばせておくわけにはいかないのだ。われわれ若い石油労働者は全国の油田をどしどし開発しなければならない、と。

 六十年代の会戦のさい、隊長の「鉄人」は、さく井機の作業台のかたわらに、隊とともに移動可能な「小屋」をたてた。こんどの新じい会戦では、その小さな「小屋」は、高金穎さんの住み家になった。小屋の窓、ドア、壁のすき間からは風がしのぴ込む。だが、そうした小屋に住んでいる高金穎さんの心はもえていた。

 「ここに住んでいると、朝から晩までさく井機の青が間けるし、ターン・テーブルの回転も見られる。事故が発生したら、すぐにかけつけてブレーキをかけることができる」とかれはいった。

 すこしでも時間を節約し、国家のために多くの油井を掘りあげること、それが高金頴さんにとってなによりの仕合わせなのだ。

 大慶の新採油区のどこにいっても高金穎さんのような若い後継者の姿がみられ、かれの話と同様に心をうつ話をよく耳にする。たとえば、この採油区の指導グループの中で青年労働者がもっとも多いのは一二七四隣だが、隊幹部五名のうち四名までが文化大革命のさなかにここへきた見習工で、新しくできた測量隊を指導しているのはかれらである。また、平均年齢が十九歳で、すべてのさく井隊のさく共用具の輸送を一手にひきうけている「小走虎班」(子トラ班)、というのがある。この班の者は、一年中、作業時間がきまっていない。昼でも夜でも、さく井隊から声がかかると、かれらはいつなんどきでも出動する。見習工一八名からなるあるグループは、溶接のスピードがはやく、しかも出来映えもよいというので、この会戦で名をとどろかせた。……

 大慶の若い世代は、客観世界を改造するうえではひじょうに勇敢であり、主観世界を改造する闘争でも自覚にとむ戦士だ。「われわれは、六十年代の会戦に参加する機会がなかったから、七十年代の会戦でその分をおぎなわなけれぱならない。若いわれわれは、苦じい環境のなかで自分をきたえあげて、たくましくならなければならない」と言っている。かれらは、マルクス、エンゲルス、レーニン、スターリンの著作と毛主席の著作を真剣に学び、先輩の労働者に謙虚に学ぴ、世界観の改造につとめているのである。

 ある日、青年労働者ノ殷学生サんは、小組のものをひきいて一日で五本の油井にポンプ装置をとりつけ、この採油区での新記録をつくった。ところが退勤するとき、パイプの溶接箇所にちょっとしたキズがあるのを発見した。その程度のものなら保温材でつつんで地下に埋めてもかまわないのだが、殷学生さんは「社会主義建設のために働く以上、いつどこででも革命事業に責任をおう態度であたるべきだ」といった。もう日暮れどきだったが、数名の若者はランプをともしてその部分の溶接をやりなおした。そして、キズのあった部分を切断してかついで帰り、人の目につきやすい食堂の入口にそれをつるし、自分たちをいましめる警鐘とじ、自己をむちうってたえず前進をつづけた。このようにして、大慶の若い世代は、自覚をもって革命のなかで成長をとげでいるのである。

新しい原動力

 大慶の新採油区の開発をめざす会戦は、プロレタリア文化大革命が偉大な勝利をおさめ、批林整風運動がつっこんですすめられる状況のもとでおこなわれた。毛主席が自ら発動し指導するプロレタリア文化大革命と批林整風運動は、大慶の労働者が新しい採油区を開発するうえでの大きな原動力となった。

 広大な新採油区は、大慶の労働者・職員が地球にたたかいをいどむ戦場であるとともに、林彪修正主義路線とたたかう第一線でもあった。林彪は、孔子にならって「生まれながらにしてこれを知る」という先験論と「上智下愚」の観念論的歴史観を宣伝し、反動的な「天才論」を鼓吹した。大慶の労働者は、十数年にわたる大慶油田開発の革命的実践でえたものを武器として、それに大反撃をくわえた。

 青天井をいただき、草原をふみしめて大慶油田を開発・建設したのは誰か。それは林彪、孔子といった「天才」、「聖人」ではなくて、われわれ大慶の労働者階級なのだ。大慶を開発・建設する知恵はどこからえられたのか。それは林彪が口からでまかせにまくしたてた、生まれながらのものでなく、われわれ大慶人が毛主席の『矛盾論』と『実践論』を指針として、実践のなかで身につけたものだ、と労働者たちは言った。

 批林批乱闘争は、大慶の労働者・職員の革命精神をいっそうふるいたたせた。かつて大慶油田の開発に貢献したふるい幹部は、いまの新しい会戦でも、青春をよみがえらせている。

 「だんだん年をとってゆくが、継続革命の精神はおとろえることを知らない」、とかれらは言っている。

 かれらのある者は髪に白いものがみられ、またある者は革命戦争の時期に人民のためにたたかって血を流したが、いまでもわれを忘れて会戦の第一線でたたかっている。また、ある婦人幹部は、慢性病に苦しんでいるが、それでも弁当をもってさく井隊をまわり、党の基本路線を宣伝し、きめのこまかな思想政治工作をおこなっている。多くの末端組織の幹部は、新しい会戦のなかで、それまで以上に大衆にたより、大衆に心をくぱり、昼間はみんなといっしょに働き、夜になるとみんなとおなじテントの申ですごす。夜がふけて人びとがねむりにつくと、かれらはそっと起きだして、テントをみてまわり、労働者にフトンをかけてゆくのである。

 文化大革命と批林整風運動を推進力として、後方にあって第一線を支持する人びとにも大きな変化が生じた。みんなが一丸となって前線に奉仕するようになった。会戦がおこなわれている草原には看板のかかった商店は一つもない。だが、そこには金属、化学工業、百貨、食糧・食用油、野菜、食料品など一二の店と書店、郵便局があり、理髪、靴の修繕、自転車の修理にあたる労働者が露天で仕事をしている。巡回医療班の医師は現場で労働者の治療にあたり、抜歯や簡単な手術をおこなっている。「戦争のさい、前線の戦士に後方まで弾薬を取りにこさせたり、給養物資をとりにくるようなことをさせてはならない。そうしたことは前線に奉仕する後方のなすべきことだ」と後方勤務の人びとは言っている。

 いま、大慶油田での新しい会戦ばまだ終わっていない。批林批乱闘争はいっそうつっこんでおこなわれている。この批林批乱闘争は新採油区の建設をいっそう急ピッチですすめる大きな推進力となっているのだ。毛主席の革命路線にみちびかれて、大慶の労働者階級がうみだした雄々しい業績は、六十年代における大慶開発のそれと同様に、中国の石油工業発展史に書きしるされるであろう。


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