鞍山鋼鉄公司の変化


 中国最大の鉄鋼コンビナート――鞍山鋼鉄公司は、毛主席が自ら指示した「鞍銅憲法」の輝かしい光に照らされて、社会主義の道を邁進し、わが国の社会主義革命と社会主義建設にますます大きな貢献をしている。

文化大革命いらい、鞍鋼の広はんな労働者、幹部は真剣に「鞍鋼憲法」を貫徹し、「工業は大慶に学ぶ」運動をくりひろげてきた。かれらはマルクス・レーニン主義、毛沢東思想を武器とし、ブルジョア階級を批判し、修正主義を批判し、すべての搾取階級のイデオロギーを批判して、革命精神を大いにふるいおこし、企業の様相を大きく変え、生産技術水準をたえず高めてきた。一九七三年、鞍鋼の鋼材、鋼、銑鉄、鉄鉱石の生産は、一九六五年にくらべ三七〜九○パーセント増、一九四九年の五七〜ー二四倍になった。一九七四年の生産能力はさらに新たな伸びをみせた。数年らい、軟鋼はまた、百余種の鋼と千余種の新鋼材をふやし、中国の冶金工業の空白をうめた。鞍鋼がこれまでに蓄積した資金は、鞍鋼のような鉄鋼コンビナートをもう一つつくれるほどである。

正しい方向を堅持

 文化大革命まえ、修正主義路線の影響をうけて、鞍鋼の一部の工場、鉱山の指導者が、生産だけに力をいれ、階級闘争、路線闘争をしっかりつかまなかったため、企業経営があやまった方向へそれたことがあった。文化大革命のなかで、革命的大批判と闘争の実践をへて、広はんな幹部、労働者が認識したことは、党の基本路線を指針とし、階級闘争と二つの路線の闘争をしっかりとつかみ、革命で生産を統帥してこそはじめて、企業を社会主義の方向にそって前進させ、生産を急速に発展させることができるということだった。

 とくに、中型圧延工場の労働者、職員は、この点で身にしみて忘れられない体験をもっている。この工場は四十年の歴史をもつ企業である。解放ご、生産はすみやかに回復されたが、そのご劉少奇反革命修正主義路線に影響されて、工場の一部の指導者が、「生産第一」「物質的刺激」を奨励し、「工場長制」などのワクをもうけて大衆の手足を束縛した。そのために、生産の発展は緩慢であった。一九五八年の大躍進のさい、毛主席の革命路線のみちぴきのもとに、この工場は、プロレタリア階級の政治による統帥を堅持し、党の指導を強化し、誠心誠意労働者階級に依拠し、広はんな労働者の社会主義的積極性と創意性をひき出した。その結果、鋼材の生産は年ごとにのび、企業はすぐれた成績をあげた。だが、そののち、またも劉少奇一味の妨害と破壊によって、企業は社会主義の方向からそれ、大衆の革命精神はくじかれ、鋼材の生産高は半分以下にへった。文化大革命いらい、広はんな大衆は、修正主義路線を批判し、劉少奇、林彪一味が「鞍銅憲法」に反対し、社会主義建設を破壊し、資本主義の復活をはかったその犯罪行為を批判した。そのことによって、生産はまたも新たな発展をみ 、一九七一年の鋼材生産高は、史上最高の記録を示し、一九六五年にくらべ二.四倍に伸びた。正反両面の事実によって深い教育をうけたこの工場の指導者は、生産を発展させるには、毛主席の革命路線にたより、プロレタリア階級の政治で統帥しなければならないことを理解するようになったのである。

 一時期、弓長嶺鉄鉱のある指導者は、鉱山に行くと、穿孔機械、電気シャベル、機関車という「三大機械」の能率だけに気をくぱり、山をおりると指揮室へかけこみ、作業図表をしらべて生産高をみるだけだった。結果として、生産はますます受動的になり、古参労働者からきびしく批判された。党委員会は会議をひらいて、これに関係ある毛主席の教えを学習し、文化大革命まえの、生産だけに力をいれて路線をつかまなかった教訓を総括した。認識がたかまると、党委員会のおもな指導メンバーは、それぞれ生産部門の末端に入って、一定期間そこで調査研究をおこない、たちおくれた部門の状態を改めることに力をそそいだ。選鉱工場と嶺東鉱は、この鉱山のなかでも、長いこと、解決しにくい問題をかかえた部門であった。党委員会の指導メンバーはここへくるとまず、階級闘争、路線闘争をつかむことから着手し、大衆をたちあがらせて革命的大批判をおこない、悪質分子や悪事を摘発し、階級敵との闘争をくりひろげた。それと同時に、あやまった路線に敢然と立ち向かう大衆の革命精神を支持して、革命に力をいれ、生産をうながす大衆の積極性をひき出し、この二つの部門のたちおくれた様相をあらためた。この経験はすぐ、鉱山党委員会によっておしひろめられ、鉱山全体にたちまち、「路線をつかみ、大いに意気ごむ」という活気にあふれる局面があらわれた。鉱山党委員会は、この二つのたちおくれた部門の変化から、路線をつかむことの重要性を身をもって感じたのである。それいらい、かれらはいっそう自覚的に路線をつかんで、思想・政治面の教育をおこなうことを、労委員会の重要な議事日程とし、つねに検討し、くりかえし路線をつかむために努力している。かれらはまた、定期的に整風運動をおこなって、大衆の意見をきき、大衆をたちあがらせて正しい路線を実行するためにその援助をうけた。こうして、全鉱山の革命と生産のたえまない発展をうながしたのである。

大きな成果をあげる大衆運動

 一九七○年、鞍鋼の広はんな労働者、幹部は、十分な調査研究をおこなって、鞍鋼を改造し、その生産を発展させる壮大な計画をうち出した。この計画の実現のために、鞍鋼の各級党組織は、大衆に依拠し、大々的に大衆運動をおこない、技術革新と技術改造をくりひろげ、一つまた一つと勝利をかちとっていった。

 第一分塊圧延工場は、五十余年のふるい歴史をもっている。いぜん、いちぶには、「型にはまったふるい工場だから、改造できない」と考えている者もいた。工場覚委員会は、大躍進のとき、大いに大衆運動をくりひろげて、設備を改造し、技術を革新し、生産をたえず発展させた経験を総括し、「型にはまったふるい工場」というあやまった論調を批判するとともに、大衆をひろく動員して意見をもとめ、生産発展に影響する灼熱炉、分塊圧延機、連続式圧延機などのおもな設備にたいして、一連の改革をおこなった。数年のあいだに、五一○種の技術革新を実現して、旧設備一三○余台を改造し、新設備五五台を自力で製造し、生産能力を飛躍的にひきあげた。一九七一年いらい、三年つづけて国家計画を超過達成し、一九七三年の生産能力はもとの設計能力の六倍となった。

 中国共産党鞍山市委員会は、大衆運動を大いにくりひろげて、古い企業の生産潜在力をほりおこした第一分塊圧延工場の経験を総括し、その経験を他の部門にもおしひろめた。こうして、鞍鋼を改造する大衆運動があらしのような勢いでまきおこった。第一製鋼工場の鋼生産高は、はやくも大躍進のとき、大きく設計水準を超過しだ。一九七一年、指導者のなかに、工場も設備もふるく、潜在力はほりつくした、これ以上増産するには同家の投資をあおいで、職場を増設し、設備をふやさなければならない、と考える者がいた。労働者たちは、大衆を信じないこのあやまった考えを批判した。工場党委員会は、大衆の意見をうけいれ、十余の「三結合」グループをつくり、大衆の積極性を発揮させて、装入量を多くし、精錬をはやくし、炉体を保護するなど、技術上の難関をめぐって、大会戦をくりひろげた。その結果、国からの投資をうけることなしに、ただ大惨埋費をもちいて、以前にやれなかった計画を実現し、銅の生産高をいちじるしくひきあげることかできた。そのあと、かれらはさらに一歩大衆をたちあがらせて、ふるい工場の改造にとりくんだ。いまではこの工場の鋼生産高は、もとの設計能力 の二倍になった。第二製鋼工場、東鞍山鉄鉱、焼結総工場、第二分塊圧延工場、スチール・ワイヤーロープ工場などでは、大衆をたちあがらせて大いに技術改造をおこない、生産能力を大幅にひきあげた。

 いぜん鞍鋼にも、外国製設備は絶対的なものだといって、労働者がそれを改革するのに反対するものがいた。大躍進の期間に、広はんな労働者は、盲信をうち破り、思想を解放しようという毛主席の偉大な呼びかけにはげまされて、技術革新をおしすすめ、多くの外国製設備の生産能率を数倍にひきあげたことがあった。文化大革命のなかでも、広はんな労働者、幹部は「外国崇拝哲学」「牛歩主義」など修正主義思想を深くつっこんで批判し、外国製設備改革の新しい高まりをひきおこした。第一次五ヵ年計面の期間に建設した継目なし鋼管工場では、ここ数年らい、労働者、職員がその主要設備にたいして改造をおこなったため、生産能力はもとの設計にくらべて、二倍半に高められた。製品の品種と規格も十数倍増加した。文化大革命いらい、東鞍山焼結工場遊浮選鉱職場は、砕解、球臼、遊浮選鉱など六つの工程について改革をおこない、生産を大幅にのばした。東鞍山焼結工場は、一九七一年いらい、毎年国家計画を超過達成し、一九七三年の焼結鉱生産量は一九六九年にくらべて三八パーセント増加した。

 鞍銅の各級党組織は、大衆をたちあがらせて、ふるい工場の生産潜在力をほりおこすとともに、新しいプロジェクトの建設においても大会戦の方法をとり、犬いに大衆運動をくりひろげている。斉大山の鉄鉱石の埋蔵量は豊富であるが、文化大革命まえは、劉少奇の修正主義路線の影響によって、数年間をついやし、何千万元も便ったが、鉱石のかけらさえも掘り出せなかった。鞍山市革命委員会が成立してのち、全市の各方面の力が動員され、さまざまな困難にうちかち、わずか一年でこの大型鉱山の基本的建設をなしとげた。つづいて、高炉、酸素発生機など一六項目の大型プロジェクトを完成させた。これらの成果は、大衆運動の偉大な力をはっきりと示している。

全国を支援し、重責をになう

 プロレタリア文化大革命をへて、鞍鋼の労働者はさらに自覚を高め、遠い見通しをたてることができるようになった。かれらは「鞍銅憲法」をだんこ貫徹し、目を全国にむけ、大局に気をくぱり、国家建設の必要にこたえることを自己の光栄な責務とし、たえず新しい貢献をしている。

 一九七四年ご一月、同家で、港湾用の鋼矢板がさし追って必要になった。腐食にたえ、強度の高いことが要求されるこの製品は、精錬も圧延もむずかしいものであった。だが、労働者たちは、国難がどれほど大きくても、品質、数量ともに予定どおりに完成してみせるといい切った。製鋼工場の労働者だちは、「大局に心をくばるよう提唱しなくてはならない」という毛主席の教えを学ぴ、この鋼の精錬の重責をすすんでひきうけた。かれらは造渣の粘度が強く、精錬時間が長く、炉体を腐食するなどの不利な要素を克服して、高温のなかで丹念に操作し、短時間で、良質のものをつくりあげた。分塊圧延工場の労働者は「三結合」の技術難関突破グループを組織して、研究をかさね、工程を改革じ、たえず圧延能率を高め、計画をくりあげて達成した。大型圧延工場は、この製品を生産する最終段階の工場である。労働者たちは使用箇所訪間グループをつくって、前後三回、遠く港まで出むいて意見を求めだ。工場にもどると、何度も鋼矢板を圧延する孔型や工程を改善し、ついに要求にかなった鋼矢板を圧延して、港湾労働者に喜ばれた。

 またあるとき、国家で、四本の極薄ステンレス鋼管を至急必要とした。その重さは、あわせてニキロである。継目なし鋼管工場は、計画外のこのごくわずかの鋼管をいそいで製造するために、計画を再調整した。一部の人は、孔型を設計・製造し、五つの職場の労働者と技術者が、十余の工程を増加し、七昼夜奮闘して、四本の極薄ステンレス鋼管をつくりあげた。そのうえ、わざわざ人を派遣して、それを使用部門におくりとどけ、国のさし追った必要をみたしたのである。

 鞍鋼の同志たちは、他の鉄鋼企業が困難にぶつかっだときくと、すすんで支援に出むいた。一九七○年、包館(包頭鋼鉄公司)焼結工場で、焼結機のブロワーがこわれたので、人を派遣して、鞍鋼焼結総工場に援助を求めてきた。当時、鞍鋼焼結総工場には、修理したばかりのブロワーが一台あるだけで、ちょうど四号焼結機に取りつけようとしていたところだった。どうすればよいか?労働者たちは口々に言った。「自分たちが苦労しても、兄弟の工場が困るのをほうっておけない。このブロワーを包鋼に送ろう」党委員会は労働者の意見を支持した。革命委員会の一指導者にひきいられた十数人の労働者が包鋼に急行し、ブロワーを取りつけた。このことに、包鋼の労働者は大きなはげましをうけた。

 十数年このかた、軟鋼では労働者、幹部、技術者を含む七万余名の人びとが各地の建設を支援にいっており、同時に多くの設備を他の企業に提供してきた。

成長する若い世代

 「鞍銅憲法」の輝かしい光に照らされ、プロレタリア文化大革命の鍛練をへて、若い世代の鉄鋼労働者が、鞍鋼でたくましく成長している。かれらは大胆に考え、大胆に意見をのべ、大胆に行動し、生気にみちあふれて、勇ましく前進している。

 第一製鋼工場平炉職場の青年先鋒炉の二四名の青年たちは、みな中華人民共和国成立ごの生まれである。新しく青年労働者が工場にくると、全国で有名な製鋼先進者、平炉職場副主任李紹奎さんが、つねに解放前の、自分の苦難にみちた体験と工場の二つの路線の闘争を話したものだ。さきごろ、李紹奎さんは製鋼工場を離れて他の職場にうつったが、そのとき、とくに精錬用のシャベルを先鋒炉の青年に贈って、先輩の革命的伝統を発揚するよう激励した。毛沢東思想のもとにはぐくまれた先鋒炉の青年たちは、生産のなかで重任をすすんでひきうけるだけでなく、国家の大事に関心をよせ、指導者が正しい路線を実行するよう積極的に協力している。一九七三年八月、平炉職場の製鋼第一生産区の生産が一時低下したことがあった。そのとき、ある指導者は、炉がぷるく、条件も悪いから、計画を達成するには、少しぐらい「物質的刺激」をやってもいいだろう、と考えた。しかし、青年先鋒炉の青年たちは、この考えに賛成しなかった。炉長の李徳増さんは、みんなといっしょに、生産状況について調査研究をおこない、生産の低下は炉の問題ではなく、思想問題であると指摘した。党委員会はかれらの 見方を支持した。生産区の党支部は、党委員会の援助をうけて、経験を総括し、批林整風運動を深くくりひろげ、大衆をひきいて、「唯生産力論」「大衆落後論」を徹底的に批判した。革命的大批判は、大衆の社会主義的積極性をひき出した。その結果、どのような「物質的刺激」もなしに、人も炉もまえと同じでありながら、計画は超過達成されたのである。

 かれらは、革命に力を入れて生産をうながすことを堅持し、一心同体となって、大型平炉酸素吹き付けの新技術を開発して、炉の精錬時間を半時間短縮させた。

 鞍銅の広はんな青年労働者は、遠大な革命理想をいだいている。かれらにどんな仕事をやらせても、その仕事を愛し、それに専心し、平凡な持ち場ですぐれた事績をつくり出そうとする。焼結総工場の王輝さんはそのよい例である。

 王輝さんは、五年まえはまだ紅衛兵だった。工場に入ってから、党と共産主義青年団の教育のもとに、かれは真剣にマルクス、エンゲルス、レーニン、スターリンの著作と毛主席の著作を読み、世界観の改造に努力し、積極的に仕事にとりくみ、鞍山市の労働模範にえらぱれた。

 製鉄工場配管生産区の青年労働者たちは、かつて先輩が、骨を刺す北風のなかで、雪におおわれた廃墟のなかから、三動弁、いきぶじ、曲り継手などを一つひとつ掘り出し、刻苦奮闘して高炉の建設に献身した事績を学んで、数年らい古い物や廃物の修理・利用を重視し、各種の曲り継手、活嘴、骨材など計数十トン(時価二十余万元)の廃品を回収して、修理した。古参労働者はそれをみて、「自覚が高くて、苦労もいとわない若いものがいるから、わしらも安心だ」とうれしそうに語っている。


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