一変した中国の食糧事情


 中国人民は、この四分の一世紀のあいだに、史上長期にわたって残されていた食糧不足の問題を解決した。

 一九七三年の中国の食糧総生産高は二億五○○○万トンをこえ、一九四九年の二倍余となった。八億近い中国の人口によって計算すれば、平均一人当りの食糧は、一九四九年の解放当初より百キロ余増えたことになる。国家の備蓄食糧はしだいに増加して、人民公社、生産隊などにも集団の備蓄食糧があり、多くの公社員の家にも余剰食糧のたくわえがある。

 旧中国で、広はんな勤労人民は、つねに貧困と飢えに苦しんでいた。反動的支配者のむごい搾取によって、農業生産はふるわず、おとろえる一方だった。災害にみまわれた年には、いく百万もの餓死体が道端にころがっていた。人民にとって大切な食の問題が、長期にわたってどうにも解決できなかったのである。

 かつて、帝国主義の予言者たちは、新中国も、何億という人民の食の問題を解決する方法は持たないだろう、と気違いじみて断言したものである。社会帝国主義者も、中国人民は、「野草をたべている」としきりに中傷した。こうした恥しらずのデタラメは、中国における食糧事情の発展という事実によって、こっぱみじんに粉砕されてしまった。

 新中国は、毛主席と中国共産党の指導下にあって、人民が主人公となっている国である。毛主席のプロレタリア革命路線、すぐれた社会主義制度および五万余の人民公社の集団の力があってはじめて、中国は、徐々に食糧問題を解決することができたのである。

 人民大衆の集団の力にたより、国内の農業資源を十分に利用して、農業生産を発展させることが、食糧問題を解決するための中国の根本的な方針である。中国は何億もの農民の力を動員し、全国それぞれの異なった、複雑な自然条件にもとづいて、山河を改造し、農業の発展をはかる雄大な計画をたてている。災害が多く収穫の少ない地区の食糧生産のたちおくれを改めることは、この大きな計画のなかの重要な一環である。

 中国史上に有名な、つねにはんらんして災害をもたらしていた川――黄河、淮河、海河などの流域にある河北、山東、河南の三省と江蘇、安静両省の北部地区では、過去、長期にわたって、ひんぱんに襲う自然災害のために、農作物の収量は極度に低く、食糧の自給ができようはずはなかった。しかし、この三つの川の流域に住む何億もの人民大衆は、自力更生、刻苦奮闘の精神をもって、土壌を改良し、治水にとりくみ、井戸をほり、逐次生産条件を改善して、これらの地区でも食糧の自給ができるようにしたのである。河北、河南、山東三省の一九七三年の食糧総生産高は、いずれも一九四九年の二倍ないし二倍以上にのび、食糧の自給ができただけでなく、さらに、余剰食糧を国家に売りわたしている。中国史上、長期にわたって、南の長江流域地区の食糧を北方地区にまわすしきたりは、初歩的に改められた。このことは、中国の八億近くの人口の食糧問題を解決するうえで、ひじょうに大きな意義をもっている。

 海抜一○○○メートル以上もある太行山脈地区に位置する大寨生産大隊は、毛沢東思想にみちびかれて、なにものをも恐れぬ英雄的な気概にもえ、農村の様相を改めるために戦っている新中国農民の、先進的な典型である。大寨生産大隊の農民たちは社会主義の道をかたく守り、集団の力で山を切りくずして畑を造成し、岩石を切りひらいて石垣をきずき、傾斜地を水平なだんだん畑に作りかえた。こうして、土地の大部分が安定した高収穫田にかわり、ムー(約六・六六七アール)当りの食糧生産高は、以前の約五○キロから現在の五○○余キロにひきあげられた。

 毛主席の呼びかけによって、「農業は大寨に学ぶ」という大衆運動が、全国農村のいたるところでくりひろげられた。大規模な農地の水利基本建設は前にも増して、いっそう広はん囲にわたって展開された。相当数の大型工事は国家の投資でおこされ、数えきれぬほどの小型工事は、それぞれの人民公社や生産大隊の手でおこなわれている。

 これらの水利建設工事によって、中国の耕地灌漑面積はいちじるしく増加し、河川のはんらんによる大洪水も基本的に制御され、水源も利用されるようになった。中国の森林の植生面積は、解放当初にくらべて二倍余に拡大され、多くの砂漠、荒れ地、アルカリ分を含む大面積の沼沢、やせた耕地も良田にかわった。こうして、短期間に収量倍増の県が、中国全土に数多く現われてきた。

 自然条件にめぐまれた一部の地区、とくに南の長江流域地区では、多収穫のうえにも多収穫をかちとるために、人民公社の社員たちの積極性を大いに発揮させた。かれらは、集団の経済力にたより、さらに国家の援助も受けて、水、肥料、土壌などの諸条件を計画的、重点的に改善し、農業の機械化をおしすすめ、科学的な耕作方法を実施し、たえず生産面の潜在力を掘りおこし、干、水害に見舞われても収穫の確実な安定した高収穫の食糧生産基地をつくりあげたのである。このなかには、中国東部地区の長江デルタ、中国南部地区の珠江デルタが含まれている。これらの地区は、全国人民の食糧供給を保証し、国家建設の需要を満たすうえで、ひじょうに大きな役割をはたしている。現在、毎年五万トンないし一二五万トンの商品食糧を国家に提供している県、市は二○○余にふえた。

 中国の人民公社の社員たちは、単位面積当りの収量をたかめるため、農業の「八字憲法」を全面的につらぬき、ていねいに土地を耕し、作物の栽培・管理に細心の注意をはらっている。多くの地区では、地元の状況に応じて耕作制度を改革し、地ならしから取入れにいたるまで一連の科学的な管理方法を採用している。また、耕地を十分に利用するために、合理的な密植をおこなうと同時に、多くの地区では、多毛作によって土地の利用率をたかめたり、間作をおこなったりしている。目下、北方地区では、ほとんどが一期作を二期作にきりかえており、南方地区では三期作のところがますますふえてきている。各地の単位面積当りの収量も普遍的に高まり、南方地区には、単位面積の収量が七○○余キロに達する県や市も少なくない。

 中国は、「農業を基礎とし、工業を導き手とする」方針をつらぬいており、全党はもちろん、全国の各産業部門も、全国人民も、こぞって農業を支援している。各級の幹部は、つねに農村へいって労働に従事するかたわら、農業の発展途上でおこった問題の解決に協力している。

 ここ数年らい、農業機械、化学肥料、農薬などの生産はかなり急速な伸びを示している。トラクター、排水・潅漑用ディーゼルエンジンなどの一九七三年の生産昔同は、それぞれ一九六五年の六倍ないし七倍余になり、化学肥料、農薬などの生産高もふえ、農業用電気の使用量も増加してきた。これらの工業やその他の産業の農業にたいする支援が、農業の発展にきわめて太きな力となっていることは言うまでもない。

 国家は、また、財政の而でも農業にたいする援助を強めている。一九七三年の農業にたいする国家の投資は、一九五八年の二倍近くになった。税収の面では、増産しても増税せず、農民の負担を軽くし、安定させる政策をとっている。農業税と農業生産高との比例は解放初期の一二パーセントから五パーセントに下がった。商業と価格政策の面についていえば、国家は、いく度も農・副業生産物の買い付け価格をひきあげ、農業用工業製品の販売価格をひきさげて、農民の利益をはかっている。

 毛主席は、「革命プラス生産によって貧の問題は解決できる」と指摘した。解放ご、中国農村では、土地改革の実施、互助組、農業生産協同組合、人民公社の設立など一連の社会改革がおこなわれ、農村は社会主義の道にそって勝利のうちに前進をつづけている。毛主席のプロレタリア革命路線にみちぴかれて、広はんな農民はだんことして、修正主義を批判し、資本主義の傾向を批判し、逐次、農村における社会主義の陣地をうち固め、農業生産の発展を促してきた。こうして、一九六五年から一九七三年までの八年間の食糧総生産高は、プロレタリア文化大革命前の、一九五○年から一九六五年にいたる十五年間の食糧総生産高をはるかに上回っている。

 社会主義の中国は発展途上国であって、農業生産のレベルが高くないとはいえ、潜在力は無限に蔵されている。目下、中国人民はいっそう大きな意気込みにもえて、さらに、農業生産の発展をはかるために努力をつづけている。


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