上海市における工業の改造と発展


 中国最大の工業都市である上海は、二十五年間にわたる社会主義的改造と建設をへて、生産部門の種類が比較的完備した総合的な工業と科学技術の基地に発展している。

 二十五年らい、上海市の工業生産の発展はめざましい。一九七三年の工業総生産額は解放初期の一九四九年の一七倍、一九六五年の二倍に相当する。工業全体のなかでの重工業の占める割合は一九四九年の一二一・六パーセントから一九七三年の五四パーセント以上に上昇している。鋼の生産高は年々増加し、現在、全市で半日に生産される鋼の量は、一九四九年の一年間の生産高に匹敵する。鋼の種類は一二○○余、鋼材の品種・規格は二万近くにたっしている。機械工業の面では、三○万キロワット大型二重内部水冷式蒸気タービン発電ユニット、大型精密ねじ研削盤、一万トン級汽船および年産二○万トンの鉄、一二○万トンの鋼、七○万トンの甲板・薄板および年間精油能力二五○万トンのプラントが製造できるようになった。新型の金属材料、トラクター、自動車、化学肥料、農薬、石油化学工業、重型機械、精密工作機械、発電設備、腕時計、写真機、テレビ、化学繊維、電子機素、電子設備など四○余の新しい工業部門も増設された。

 旧上海の工業は、一九四九年解放までに、すでに百余年の歴史をもってはいたが、その発展はひじょうに緩慢で濃厚な植民地経済の性質をおびていた。電気、ガス、水道、交通などの重要な企業は、すべて帝国主義の手に握られており、工業の主要設備、原材料、燃料はいずれも輸入にたよっていた。工業部門といえば、おもに紡績工業と若干の軽工業で、まことに不完全なものであった。ごくわずかしかなかっだ重工業も、帝国主義国から輸入した機械設備を組み立て、修理するために建てられたもので、独立して機械を製造する能力はまったくなかった。紡績工業と軽工業の基礎はいくらかあったとしても、設備の大部分がふるく、技術もたちおくれており、労働条件がひじょうにわるかった。帝国主義と国民党反動派は互いに結託して、中国の資源を略奪し、中国のやすい労働力を搾取じ、余剰商品を大量に売りさばいたため、民族工業は破産にひんした。当時、上海の工業生産能力はきわめて抵く、年間の総生産額は、こんにちの二十日間の生産水準にもたっしていなかった。

 上海工業の様相にみられる大きな変化は、社会主義革命が、たえず深化、発展するにつれてなしとげられたものである。

 一九四九年、上海解放ご、人民の断固とした支持をうけて、プロレタリア階級独裁の革命的政権がうちたてられた。政府は、帝国主義の経済勢力をおい払い、官僚資本主義の企業を没収し、生産手段の国家所有制にもとづく国営経済をうちたてたのである。毛主席の提起された過渡期の総路線にしたがって、民族商工業にたいしては、利用・制限・改造の政策をとり、代理販売、加工、発注、公私共営をへて、計画的に、段取りをおって、資本主義所有制を社会主義所有制にあらためていった。それと同時に、単独経営の手工業にたいしても社会主義的改造をおこない、かれらを組織して、協同組合の道をあゆませた。こうして、生産手段所有制の面における社会主義的改造を基本的になしとげ、旧上海の半植民地・半封建的経済の性質をあらためたのである。

 生産手段所有制の面での社会主義的改造が基本的になしとげられたのち、ひきつづき、政治戦線と思想戦線における、深くほりさげた社会主義革命運動が展開された。一九五八年の整風運動と右派に反対する闘争が勝利をえ、「大いに意気ごみ、つねに高い目標をめざし、多く、はやく、りっばに、むだなく社会主義を建設する」という社会主義建設の総路線にみちびかれて、上海には大躍進の高まりがまきおこった。この年の工業総生産額は一九五七年にくらべて五○パーセントふえ、一九四九年より四・七億も増加した。プロレタリア文化大革命は、広はんな労働者にその社会主義的積極性と創意性を大いに発揮させた。その結果、工業生産に新たな躍進の局面がみられるようになった。一九六六年から一九七○年にかけて、国民経済の発展をうながす第三次五力年計画の期間に、全市の工業総生産額は文化大軍命前の五年間にくらべて六八パーセント増加した。いま、ふかくすすめられている批林批孔運動は、文化大革命の勝利の成果をさらにかため、発展させ、生産のいっそう大きな発展をうながしている。一九七三年の上海の工業総生産額は、一九六五年にくらべて二倍になった。一九七四 年の九月までの工業総生産額も一九七三年よりいちじるしく高まっている。

 解放いらい、この沿海の旧い工業基地上海では、「十分に利用し、合理的に発展させる」という方針にもとづいて、計画的にいちぷの企業を合併させ、集中しすぎ、奇形的に発展していた企業の一部を、国家がさしせまって必要とする新しい工業部門に改造じ発展させた。そのほか、新しい工業基地支援のために、いちぶの企業を奥地に移じた。いま、上海の計器、電子、プラスチック、化学繊維などの工業は、ほとんど軽工業と紡績工業の一部の工場設備を改造して生産をおこなっている。冶金、鉱山などの重型機械を生産する工場も、いくつかの小型工場を改造したものが少なくない。こうすれば、国家の投資をできるだけ減らし、もとの工業基礎を有効に使用し、生産面の潜在力を最大限にほりおこすことができるのである。

 もとの企業の旧設備の技術改造をおこなう過程で、どこの工場でも、広はんな労働者、幹部、技術者は、その積極性と創意性を十分に発揮し、旧い設備を積極的に改造し、新しい加工工程、新しい技術、新じい設備および新しい材料を発展させた。いま、各工業部門では程度の差こそあれ、電子、射流、レーザー、切削を少なくするかあるいは全然しない、などのすぐれた加工工程と先進的な技術を採用している。冶金工業は酸素製鋼法、連続鋳塊法、真空鋳造法、精密鍛造、鋳造・引抜き法などの新しい技術を採用している。綿紡績工業の紡錘は高速度紡錘の方法を採用しているために、一千個紡錘の一時間あたりの綿糸の生産高が、解放当初の平均一八キロから四二一キロにたかまった。

 社会主義的大協業を展開することは、上海の工業を発展させる重要な道である。上海で、千台の旧ボイラーを改造した事実は、この大協業の威力を生きいきと物語っている。二十〜三十年代のこの千台のボイラーは、設計が旧式で、莫大な石炭を喰う。プロレタリア文化大革命の前、少数の専門家は、門をとざして計画を立て、十年がかりでこれを改造しよう、という予定であった。ところが、一九六九年、上海市革命委員会は大衆を動員して積極性を発揮させ、業種のワクを打ちやぶって、専門の工場が主要な設備をつくり、他の工場が部品を生産するようにし、各部門の二○万の人びとをこの大作戦に参加させた。その結果、わずか八十日間で、国家の要求にかなった、質のたかい、石炭も節約できる千台のボイラーをつくりあげて、もとの旧いボイラーと取りかえたのである。

 一九七二年、上海市ではまた、医療器械工業の発展をはかるために、三○○余部門の協業を組織して、一年のうちに、水準の高い、八九種の精密医療器械の試作に成功した。さらに、超音波、レーザー、電子、アイソトープなどの新技術を製品に応用して、一つの部門ではやれなかったことを可能にし、新たな生産力を生みだした。上海における多くの重要な建設の成果は、すべて、全国の多くの部門の協力によってかちとられたものである。上海市工業の発展は、新しい工場を数多く新設することによるのではなく、主として、従来のものを利用して、企業内部の潜在力を掘りおこし、たえず新しい生産能力を形成し、蓄積をふやすことによって得られたものである。解放いらい、上海は大量の資金を蓄積した。一九四九年から一九七三年までに、全市の基本建設への投資額は、全市の資金の蓄積総額のわずか六・七パーセントを占めているにすぎない。

 上海の工業は、その発展過程で、全国各地の支援をうけたが、同時に、上海もまた、大量の工業製品、技術方面の人材、資金の蓄積をもって国家の社会主義建設を支援している。解放いらい、上海は、全国各地へ、大量の機械設備やその他の工業製品を提供しているばかりでなく、数百の工場を他の地区へ移した。そのほか、全国各地へ百万近くの技術労働者と技術者を送っており、さらに、各地からきた多くの技術者の養成にも力をつくしている。


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