北京――消費都市から工業都市へ


 解放いらい、中国の首都、北京市は歴史的な大変化をとげた。いま、首都北京は、全国の政治・文化の中心であるばかりでなく、市国の社会主義工業基地の一つになりつつある。一九七三年、北京市の工業総生産額は一九四九年にくらべて百十倍ふえ、二十五年前の全国年間工業総生産額を上回っている。

 北京の近代工業の歴史は、一八七二年の門頭溝炭鉱開設からかぞえて、百年を経過している。しかし、解放前の七十五年間における北京の工業の発展は、きわめて緩慢であった。北京は、解放直前まで、ずっと立ちおくれた消費都市であった。そこには官僚、買弁、地主、封建的な遣老(清朝の遺臣)、遺少(若年でぷるいものの守護者)などの寄生階級がむらがっていた。当時、市場に出まわっていた押しピン、ガラスのコップ、歯みがきといった物まで、すべて他の地方から送られてきたものか舶来品かであった。工場、鉱山と呼ばれていたものも、その実、大多数が手工業的なものにすぎなかった。人ぴとはつるはしで石炭を据り、ふいごと小さな炉を使って鉄をきたえ、足踏み機で布を織った。

 解放ご、毛主席の革命路線に導かれ、全国各地からの力強い支援と北京の労働者階級の刻苦奮闘によって、北京には、比較的ととのった各種の工業部門が確立されるにいたった。現在、北京の産業労働者はすでに一○○万に達し、都市人口の四人に一人が産業労働者である。古い城壁は取りはらわれて、市内区が拡大された。かつてはきたないどぷ川の流れていたところや、墓の点在していた郊外などに、いまでは大きな工場の建物がそびえている。遠く離れた郊外の山々の間にさえも工場群があらわれた。よその土地からもどってきた「ふるい北京っ子」は、まったく昔の面影をとどめぬ北京の変化に、一様に目を見張っている。

 古都北京は、どれだけの、二十五年という年月を重ねてきたことか。だが、北京の工業は、解放ごの二十五年間にはじめて、奇跡的な変化をとげたのである。

 解放前の北京は、銑鉄をわずかばかり生産できただけで、鋼はつくれなかった。いまでは、年間の鋼生産高は一九四九年の全国銅生産高の一○倍に相当しており、毛髪より細い鋼線、新聞紙よりも薄い帯鋼など高水準の合金鋼材も生産することができるようになった。

 解放前の北京では、自転車タイヤの小さなバルブ・コアさえも作ることができず、まして、機械の製造などは思いもよらなかった。しかしいまでは、三万トン油圧プレスや誤差が千分の三ミリをこえない高精度ボブ研削盤のような、さまざまの大型、精密、自動化設備が生産できるようになった。

 解放前の北京では、もっとも簡単な真空管ラジオすら作られなかったが、いまは、出力の大きな放送設備一式の生産も可能であり、毎秒百万回演算できる集積回路計算機をも製作している。

 解放前、北京の化学工業といえば、ちょっとしたカプセル錠剤を作ったり、手作業で爆竹用の硝酸カリウムをつくることだった。現在北京には、酸、アルカリ、コークス化学工業から石油化学工業にいたるまで、すべてそなわっている。北京の年間の石油加工量は、解放前の全国五十年間の総産出量を上回っている。

 軽工業の面で、解放前の北京は、シート地や質のよくない石けんなどしか生産できなかったものだが、いま、市場で見られる豊富多彩な日用品は、八○パーセント以上が北京製である。

 北京で製造される自動車、工作機械、カツラ、電気冷蔵庫、ピアノなど四○○種余りの製品は、すでに九○余の国家や地域に輸出されている。

 北京の工業の飛躍的な発展は、毛主席のプロレタリア革命路線が、劉少奇、林彪の修正主義路線にうち勝って得られたものである。二十五年らい、北京の工業生産建設は、四たび大発展をとげた。毎回の大発展が、「思想面、政治面での路線が正しいかどうかがすべてを決定する」ということを生きいきと証明している。一回目の大発展は一九五二年であった。当時、「三反五反」(汚職、浪費、官僚主義に反対し、贈賄、脱税、国家資材の窃取、手抜きと材料のごまかし、国家の経済情報の窃取に反対する)運動が勝利のうちにすすめられており、ブルジョア階級の気違いじみた攻撃をしりぞけて、全市の工業総生産額は、一九四九年の四倍余りに増加した。二回目の大発展は一九五六年で、資本主義商工業、単独経営の工業・農業にたいして社会主義的改造をおこない、古い生産関係を変革することによって、工業総生産額はさらに一九五二年の二倍余に高められた。一二回目の大発展は一九五八年である。ブルジョア右派に反対する闘争をへて、党の社会主義建設の総路線の導きのもとに、工業の大躍進が実現され、全市の工業総生産額は一九五六年の倍以上になった。

 北京の工業の四回目の大発展は、ことのほかめざましかった。プロレタリア文化大革命によって、劉少奇、林彪の二つのブルジョア階級司令部が粉砕され、毛主席の革命路線がよりりっぱに貫徹されると、北京の工業はいっそう大きな発展をとげた。市の現有工業生産能力のうち、一二分の二以上は文化大革命いらいのものである。一九七ご一年には、全市の工業総生産額は、文化大革命前の一九六五年の一二倍にのび、一九七四年になると、桃林批孔運動にうながされて、工業生産はまたもいちじるしい伸びをみせている。

 文化大革命前、北京の工業生産建設は、劉少奇修正主義路線のために、大きな損害をこうむった。鉄鋼工業をとってみても、その必要とする鉄鉱石は海南島から運び、精錬した鋼はまた他の地方へ運んで加工した。こうした奇形的な状態は、文化大革命のなかでようやく改善された。広はんな労働者・職員は鉱山の開発に力を入れ、その付属工業の発展に努力した。わずか数年のうちに、鉄鉱石の自給が可能となり、同時に加工と圧延能力が拡大されて、鉄鋼工業は新たな段階に発展したのである。現在、北京市の鋼生産高は文化大革命前の四倍余りにふえ、鉄鉱石、銑鉄および鋼材の生産も大幅にのびており、品種・規格は一万余りにふえている。北京の他の工業も鉄鋼工業と同様に、文化大革命のなかで大きな発展をとげた。発電機、自動車、工作機械、鉱山設備、化学工業設備、ハンド・トラクター、化学肥料、農薬、腕時計、トランジスタ・ラジオ、テトロンなどの生産高は、それぞれ文化大革命前の数倍ないし数十倍に増加している。同時に製品の質も次第に昔同まり、品種もいっそう豊富になってきた。文化大革命前の北京では、生産できる工作機械は二○種にすぎなかったが、いまでは、二○○ 種余りにぷえた。また電子製品も従来の八○余種から現在の六○○余種に増加した。文化大革命いらい、北京市の労働者階級は、世界の先進的水準に追いつき、追いこすという雄大な志をいだいて、十数万件の技術革新をなしとげ、北京の工業の様相をたえず改善している。最近またも、四○本の刃具をもつ自動刃具交換横型数値制御中ぐりフライス盤や一平方ミリのガラスの上にレーザーで一八○○本の線条を刻む光格子およびカラーテレビ中継車など、多くの新製品の試作に成功している。

 「人民、ただ人民のみが世界の歴史を創造する原動力である。」北京の工業のこうした巨大な変化は、党の指導のもとに、社会主義革命を堅持し、最大限に大衆の社会主義的積極性を発揮させた結果である。

 北京の工業生産建設の巨大な成果の前に立って、北京の労働者階級は、あふれるばかりの革命的情熱をいだき、おごりを戒め、ひきつづき前進している。


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