ゆるぎない社会主義経済


 二十五年このかた、中国人民は、毛主席と中国共産党の指導のもとに、貧しく立ちおくれた旧中国を、初歩的ではあるが繁栄する社会主義の新中国にかえた。

 三つの五ヵ年計画と第四次五ヵ年計画の三年半にわたる建設によって、中国における社会主義の経済的基礎は一歩一歩強固になり発展している。農業の生産条件は改善され、災害に抗する力も強化されたため、小さな災害にみまわれても大増産ができ、大きな災害にみまわれてもわずかな減産にとどめることができる。この約十二年間、農業は連年豊作で、食糧と工芸作物の収穫高は人民の生活と工業発展の需要を初歩的にみたせるまでになった。中国の工業は初歩的ではあるが、農業、国民経済その他の部門の発展のために必要な原料、燃料、技術設備を提供し、国内市場の需要をみたすほか、輸出をも拡大している。経済的な分布は合理的なものになり、一群の大型プロジェクトが内陸部で一応建設され、工業が沿海地方にかたよっている状態はあらためられつつある。中国の物価は安定し、市場は繁栄し、国内の債務も国外の債務もない国となった。こうしたことがらは、中国が社会主義農業を基礎とする、独立した、比較的に完備した工業体系と国民経済体系を形づくっていることを示すものである。

 帝国主義、封建主義、官僚資本主義の残酷な抑圧のもとにあった旧中国の経済はひじょうに立ちおくれていた。食糧も綿花も自給できず、一九世紀の中期以後は毎年食糧を輸入しなければならなかった。当時は、インフレ、物価の暴騰、本況によって、広はんな勤労者はきわめて貧しい生活をしていた。中華人民共和国が成立したぱかりのころ、工業総生産額は工農業総生産額の三○パーセント前後を占めるにすぎなかったし、工業総生産額の七割以上をしめる軽工業も、その生産技術はひじょうに低いものであった。新中国の人民は、そうしたみじめな基礎の上に、社会主義経済建設というきわめて困難な任務に取り組んだのである。

 中国は、自国の具体的な状況から出発して、その資源を十分に活用し、国内の蓄積にたより、全国人民の知恵と力に依拠し、自力更生の方針にしたがって建設をすすめ、経済を発展させていった。

 新中国成立後、政府は帝国主義、官僚資本主義の企業を没収し、土地改革、民主的改革など一連の革命運動をおしすすめ、労働者・農民の労働意欲をもえあがらせて、工農業の回復と発展をうながした。一九五二年、中国の主な工業製品と農産物の生産量は歴史最高の年をしのいだ。国民経済の回復、発展は、帝国主義による封鎖を粉砕し、中国が計画的に社会主義経済建設をすすめるうえでの必要な条件をつくり上げた。一九五六年になると、中国は農業、手工業、資本主義的工商業にたいする社会主義的改造を基本的になしとげた。生産関係の大変革は、生産力の発展をもたらした。協同化の道を歩みはじめた集団経営の農民は、かつてないほどの生産意欲を発揮して、大いに農地、水利の建設をおこし、高収穫をかちとった。労働者階級は、国家の主人公としての革命的精神を発揮して、工業の生産記録をたえず更新した。一九五七年、中国は第一次五ヵ年計画の指標を完遂または超過完遂した。いらい、中国人民は、航空機、自動車、新型工作機械、発電設備、冶金設備、鉱山設備などを製造する一連の新しい工業部門をもつようになった。

 一九五八年、毛主席がみずから制定した「大いに意気ごみ、つねに高い目標をめざし、多く、はやく、りっばに、むだなく社会主義を建設する」という総路線のみちびきのもとに、中国の国民経済は大躍進をとげ、全国の農村は人民公社化を実現した。この年の工農業総生産額は、一九五七年度の五五パーセント増であった。一九五八年以降、全国の工農業はいっそう大幅の伸びをしめし、中国人民は第二次五ヵ年計画の主な工農業生産指標を二年くりあげて達成した。

 一九六○年、ソ修フルシチョフ裏切り者集団は、信義にそむき、とつぜんすべての専門家を中国からひきあげ、数百件にものぼる協定と契約を一方的に破棄し、重要な設備の供給を停止して、わが国の社会主義建設を破壊しようとした。毛主席の指導のもとに、申国人民は、富強をめざして奮起し、自力更生、刻苦奮闘によって、破壊をたくらむソ修の陰謀にうちかち、中国の工業、科学・技術を独立自主の道にそってひきつづき前進させていった。

 中国の国民経済発展のための第三次、第四次五ヵ年計画は、プロレタリア文化大革命のさなかに実施された。プロレタリア文化大革命は、劉少奇、林彪の二つのブルジョア階級司令部をあいついで粉砕し、プロレタリア階級独裁と社会主義の経済的基礎をさらに強固なものにし、人民大衆の革命的精神をいっそうふるいたたせ、社会的生産力を急速に発展させ、中国の国民経済を比較的はやい速度でひきつづき前進させた。一九七○年、第三次五ヵ年計画に規定された工農業の主な指標は完遂または超過完遂された。一九六五年から一九七三年にいたる八年間の穀物の絶対増加量は、プロレタリア文化大革命前の一九五○年から一九六五年にいたる十五年問のそれをはるかにうわまわっている。一九七三年度の工業総生産額は一九六五年度の倍以上である。

 中国が社会主義経済建設をすすめるさいの資源、資金、設備、人材はどこからえているのか。中国の経験を総括すれば、自力更生によってえられたものである。

 中国は自国の石油資源を開発して、大慶、大港、勝利などの油田を開発し、現代的な精油所、石油化学コンビナートを建設した。石油製品は種類、数量のいずれにおいても自給でき、わずかではあるが原油およびその製品を輸出するようになった。長江以南に位する九つの省の広はんな人民は、多くの炭田をさがしあて、多くのたて坑を建設して、大量の石炭を採掘した。そのため、北方の石炭を南方にまわすという長期にわたってつづいた局面はあらためられることになった。鉱山の開発につとめ、鉱石・原科基地が数多く建設された結果、中国の鉄鋼業が必要とする鉱石・原料のすべてを国内でまかなえるようになった。

 中国の建設に必要な機械、設備は、主として国産品にたよっている。いまある設備はすべてが最新のものではない。しかし、中国の労働者階級は知恵と創造力にめぐまれ、普通の設備をつかって現代的な標準の新しい設備をつくることができる。若干のふるい機械は技術改造によって、その性能を大いに向上させた。二十数年にわたる努力により、中国の機械工業は、自力で国民経済の各分野にプラントを供給できるまでになった。

 中国における社会主義経済建設に要する資金は、外国からの借款にたよらず、また人民の負担を増やすことにもよらず、まったく自国の内部蓄積にたよっている。社会主義的自覚をもつ人民が生産意欲を発揮しさえすれぱ、巨大な富をつくりだすことができる。国営企業では、大衆的な増産節約運動をくりひろげて、増産と蓄積の増大をおこなっている。いまの中国の財政収入(年間)は建国当初の十数倍になり、工業の基本建設にたいする投資額(年間)は、新中国成立当初の財政収入の数倍をこえている。中国人民はまた、勤倹建国、勤倹を旨とした家の切り盛り、勤倹を旨としたあらゆる事業の経営方針をつらぬき、節約できるものはすべて節約して国家建設にまわしている。

 中国の技術人材は、その一部を学校で養成するほか、より多くの者を工場で生産にたずさわるなかで養成している。生産、建設の面では指導的幹部・技術者・労働者の三者を結びつける方法が実施されており、これによって科学・技術の進歩が大いにはやめられているだけでなく、労働者出の科学・技術専門家が多数養成されている。

 中国は、社会主義経済建設の中で、平等互恵を基礎として各国と互いに協力し、有無あい通ずるよう注意している。だが、外国にたよることはしない。中国の経験が証明しているように、自国をよりどころにすることによってのみ、その経済をわりあいにはやく発展させることができるのである。それとは逆に、外国にたよれぱ、自国人民の手足をしばりつけ、経済建設のすみやかな発展をさまたげるだけで、政治・経済上の独立自主をつらぬくのに不利である。

 中国は、社会主義経済建設の中で、毛主席が提起した「農業を基礎とし、工業を導き手とする」という国民経済発展の総方針を堅持し、農業、軽工業、重工業の順序で計画を按配して、この三者を全面的に発展させるようにしている。

 一九七三年度の穀物収穫高は一九四九年度の倍以上になった。各種の工芸作物もわりあいに大きな発展をしめした。農業の発展は軽工業に原料と市場を提供し、それにふさわしい発展を軽工業にもたらす。一九七三年度の軽工業生産額は、一九四九年度の十数倍に達した。農業と軽工業が発展すれば、重工業は市場と資金を入手し、その発展をいっそうはやめる。重工業の急速な発展はまた、農業の現代化の実現およぴ軽工業の発展のために、ますます多くの技術設備を提供することになる。したがって、国民経済の中における工業の指導的な役割がいよいよ発揮されることになるのである。

 中国における社会主義経済建設の成果は、数億の人民が、中国共産党の指導と毛主席のプロレタリア革命路線にみちびかれて、奮闘努力したたまものである。「工業は大慶に学ぶ」、「農業は大寨に学ぶ」という二つの革命的な大衆運動の中で、中国の労働者と農民は、大慶油田の労働者と大寨生産大隊の農民に学び、刻苦奪闘、自力更生の精神を発揮して、中国の国民経済をわりあいにはやく、確実に発展させているのである。


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