チベットにおける叛乱を徹底的に平定せよ

1959年3月28日『人民日報』社説


 チベット地方政府と上層の反動一味は、帝国主義、蒋介石匪賊一味および外国の反動派と結託して、チベットの平和解放についての17ヵ条の協定を公然とふみにじり、ダライ・ラマを拉致し、武装叛乱をおこした。祖国にそむき、統一をやぶり、民族の団結を破壊するこうした由々しい犯罪行為は、チベットの愛国的な人民をもふくめて、全国各民族人民のだんじて許すことのできないところである。チベットにいる人民解放軍部隊は、叛乱を徹底的に平定するよう命ぜられた。国家の統一と民族の団結をまもるため、周恩来国務院総理は、こんどの反乱の組織者であるチベット地方政府を解散するとともに、チベット自治区準備委員会にチベット地方政府の職権を行使させることを決定した。現在、人民解放軍は、チベットの愛国的な僧俗人民の積極的な協力のもとに、迅速にラサ地区の叛乱を平定したし、また、チベットの他の一部の地区の叛逆匪賊を粛清中である。チベットの僧俗各界の愛国的な人びとは、中央の措置を熱烈に擁護し、叛逆者一味を糾弾している。われわれは、叛逆匪賊にふみにじられたチベット各界の同胞にたいして、ねんごろに慰問の意を表明するとともに、叛乱を平定するにあた って功をたてたチベットにいる人民解放軍部隊にたいして、崇高な敬意を表するものである。

 チベット族は、中国の国内でながい歴史をもつ民族の1つである。チベット族は、国内のほかの民族と同様、わが偉大な祖国の形成と発展にたいし、それ自身貢献するところがあった。しかし、近代においては、帝国主義の侵入により、清朝および国民党反動政府のとった民族的圧迫と民族離間政策により、そしてまた、チベットの反動支配グループが内にあっては人民を奴隷化し、外にたいしては帝国主義に依存したことによって、チベット人民は、長い年月のあいだ、暗黒、貧苦、立ちおくれのどん底におとしいれられていた。中華人民共和国の成立いご、チベットは平和裏に解放され、祖国の大家庭にたちかえった。そのときいらい、中央人民政府は、チベットにたいして、祖国の統一、民族の団結、民族の平等およびしだいに民族の地域的自治を実現し、徐々に民主改革を実現するという政策を一貫してとってきた。中央は、一連の措置をこうじて、漢族、チベット族の相互の理解と団結をうながすために努力してきた。中央はまた、チベット族内部、まず第1にダライ・ラマとパンチェンとのあいだの団結をうながすために尽力してきた。1956年4月には、チベット地方政府と十分協議したうえで、チ ベット自治区準備委員会をつくり、ダライ・ラマが主任委員に、パンチェンが第1副主任委員になり、そしてまた、チベット族各階層の人びとをひろく吸収、参加させた。チベットに入った人民解放軍部隊は、一貫して規律を遵守し、人民を愛護し、現地の宗教信仰と習俗習慣を尊重し、大衆からは針1本、糸1すじもとらず、さらに、農場をつくり、工場、病院、学校をたて、橋をかけ、道路をきずき、現地の経済、文化の発展に力をそえてきた。こうしたことによって、中央人民政府と人民解放軍は、チベット各界の広はんな大衆から熱烈に愛され尊敬されている。

 チベット人民は、民主改革を差し迫って要求している。それは、改革をおこなわずしてはチベットの繁栄と進歩は不可能であることをかれらが知っているからである。チベットの平和解放についての協定中には、チベット地方政府は自発的に改革をおこなうべきこと、チベット軍はしだいに人民解放軍に改編すべきことを規定している。それにもかかわらず、チベット地方の特殊な歴史的状況にかんがみ、中央の一貫した方針は、民族団結の強化につとめ、チベットの上層分子の自覚を辛抱づよくまつことにしている。チベットが平和裏に解放されたのち、チベットの元来の政治制度、ダライ・ラマの固有の地位、寺院の収入にたいしては、中央はすべてこれを変更せず、各級の僧俗官員も従来どおりその職にとどまらせた。いぜん帝国主義とちかしかった官員や国民党とちかしかった官員にたいしては、かれらが帝国主義や国民党反動派との関係をたつことを表明しさえすれば、中央は過去のことはとがめないで、やはりひきつづきその職にとどめた。それどころか、解放後なお反革命活動をおこなった反革命分子にたいしてさえも、中央は、チベット地方政府にその懲罰を指示しただけで、直接これを逮捕 し、法によって懲罰するということはしなかった。中央がこういうふうに、待つ政策、寛大政策をとったのは、ひとえに祖国の統一を重んじ、民族の団結を重んじ、チベット地方政府と上層の人びとに十分考慮する時間をあたえるがためであった。1956年末には、中央はさらに、チベット地方政府にたいし、6年内、すなわち1962年いぜんには、チベットで民主改革をおこなわなくてもよいこと、その後どういう時期に改革をおこなうかは、やはり将来の状況にもとづき、チベット族の指導者、上層の人びとおよび人民大衆がいっしょに協議したうえで解決すべきことを宣言したのであった。

 しかし、チベットの反動一味は、まったく地域的自治を望まず、かれらの欲するのは帝国主義侵略者が多年画策していた、いわゆる「チベットの独立」であった。かれらは、国内にあるカリンポンを、帝国主義、蒋介石匪賊一味および外国の反動派と結託する中心として利用し、さかんに叛逆匪賊をかきあつめ、これらの叛逆匪賊に放火、殺人、略奪をやらせて、人民に危害をくわえ、人民解放軍のいるところと交通線を襲撃させたほか、非法の「人民会議」なるものを組織し、ひとたび相当の力をかきあつめたうえは、ただちにチベットの平和解放についての協定をふみにじり、チベット自治区準備委員会を撤廃する用意をすすめていた。この反動一味は、宗教上の迷信を利用して長期にわたりチベット人民をあざむくことができると考え、帝国主義、蒋介石匪賊一味および外国の反動派が有力な援助をあたえてくれるものと思いこみ、インドなどの隣国がかれらの後盾になるものとみなし、中央が辛抱づよく待ち、寛大な態度をとっているのを軟弱無能の現れだと見た。このため、かれらは、おそれることを知らず、叛乱活動を秘密裏のものから公開的なものへ、小規模なものから大規模なものへとおしす すめ、ついに全面的な武装叛乱をおこすにいたったのである。

 長いあいだにわたるさまざまな事実は、チベットの反動一味が、祖国の統一と漢族、チベット族の2大民族の団結の破壊者であるばかりでなく、チベット族の繁栄と進歩の障害物であることを示している。中央ははやくから、チベット地方政府のさまざまな破壊活動を察知していたが、それでもやはり至れり尽せりの態度を持し、しばしばかれらに責任をもってこれを制止するよう注意をあたえ、かれらが最後には翻然と悔悟するのを期待していた。3月10日には、ラサで叛乱がおこってのちでさえも、中央はやはり最後の努力をかさね、かれらが最後の一線でふみとどまるようにすすめた。だが、チベット地方政府と上層の反動一味は、頑としてその態度をあらためず、こともあろうにダライ・ラマを拉致し、チベットにいる人民解放軍部隊にたいして全面的な武力攻撃をくわえて、平和解決の希望をうちこわし、みずから滅亡の道をすすんだ。こうした、忍ぶにも忍びきれない状況になってはじめて、中央は、チベットにいる人民解放軍部隊に、チベットの叛徒一味を討伐し、叛乱を徹底的に平定するよう命じたのである。これによって、チベット各界の愛国的な人びとは、中央人民政府が民族の団結をまも るためたしかに最大の努力をはらってきたこと、そして今となっては叛乱を討伐平定し、極悪非道の叛徒一味を徹底的に粉砕することこそ、ひきつづき民族の団結を守る唯一の道であることを十分認識しているのである。

 チベットにおける当面のおもな任務は、いっさいの叛乱分子を徹底的に粛清し、平和な秩序をうちたてることである。その過程で政府のとる各種の政策については、人民解放軍チベット軍区の布告およびチベットにおける叛乱事件についての新華社の広報がいずれもはっきりとこれを説明している。チベット自治区準備委員会と人民解放軍チベット軍区は、全チベットの、叛乱に参加しなかったいっさいの僧俗人民とあくまで団結し、叛乱分子にたいしてさえも寛大政策にもとづき、それぞれ区別して対処し、帰順してきたものは既往をとがめず、功をたてたものには賞をあたえ、捕虜は殺さず、ただ頑としてさからうもののみを厳罰に処する。チベットにいる人民解放軍部隊は、大衆の宗教信仰と風俗習慣を尊重し、ラマ寺院を保護し、文化財、古跡を保護するという一貫した方針をひきつづき堅持する。チベット自治区準備委員会は、地方政府の職権を行使するとともに、チベット地方の民族自治の実現を積極的に促進する。ダライ・ラマが拉致されているあいだは、パンチェン・ゴルトニが主任委員の職務を代行する。チベットの叛徒一味の叛乱は、当然、チベットで民主改革をおこなう必要があること を立証しているが、改革をおこなう時期、段取、方法については、中央はやはり、チベットの上層、中層の愛国者および各界人民大衆と十分協議することによる。われわれは、叛徒一味を粉砕したのちは、漢族、チベット族の両民族の団結とチベット族人民内部の団結のいずれをとわず、かならずや大々的につよめられ、これを土台として、チベットがかならずやしだいに繁栄と進歩の光明にみちた大道をすすむにちがいないことを信じている。

 チベットの反動一味の叛逆活動は、ずっと帝国主義者の支持のもとにおこなわれてきたものである。3月10日、ラサで叛乱が勃発したのち、帝国主義者は、かれらが久しく夢みていた、いわゆる「チベット独立」がこれで事実になると考えた。ここで、かれらは、チベットの叛徒一味を景気づけるため、さかんにわめきたてた。ところが、そうは問屋がおろさず、人民解放軍はたちまちラサ地区の叛乱を平定してしまった。そこで、帝国主義と外国の反動派は、宣伝の火力を集中して人民中国を攻撃した。アメリカ国務省はつづけざまに数回声明を発表し、中国政府はチベットの平和解放の方法についての協定を破壊したと中傷し、中国は「宗教と政治上の自治をふみにじ」ろうとしているといい、「こうした野蛮な干渉下にあるチベット人民にたいし」「ふかい同情をよせる」などとまことしやかにのべたてた。8年前、中国の中央人民政府とチベット地方政府が、チベットの平和解放の協定をとりむすんだとき、アメリカをはじめほかの国々の反動派がこの協定をさかんに攻撃したことを人びとは今なおおぼえている。ところが、こんどは、かれらはがらりと態度をかえて、この協定の防衛者になっているの である。これはなんと大した風刺であることか! アメリカ国務省の中傷は反駁に値しないものである。なぜなら、チベットの平和解放についての協定を破壊し、チベットでの民族自治の実施を欲しないのは、中央人民政府ではなくて、アメリカ帝国主義と外国の反動派に支持され、そそのかされているチベットの反動一味にほかならないからである。チベットの叛乱と叛乱の平定はまったく中国の内政であって、いずれの外国といえども、まったく中国の内政に属するチベットの叛乱事件に干渉することはできない。アメリカ国務省のスポークスマンでさえ、アメリカはこれまでチベットが独立国であるとはみとめていない、といわないわけにはいかなかった。周知のように、有名な5原則、すなわち主権と領土保全の相互尊重、相互の不可侵、相互の内政不干渉、平等互恵、平和共存は、わが国とわが国の偉大な友好的な隣邦であるインドが、1954年4月29日に、中国のチベット地方とインドとのあいだの通商および交通についての協定のなかでまっさきにうち出されたものである。同年6月には、わが国の周恩来総理とインドのネール首相は、また共同声明を発表し、この5原則こそ中国、インド両国の関係を指 導する根本であることをおごそかに宣言した。そのときいらい、この5原則は、中国とアジア・アフリカ諸国、とりわけ西南の隣国と平和に生活する共同原則ともなっているのである。われわれは、チベットでの叛乱がおこったのち、インドのネール首相が、3月23日に、中国の内政に干渉しないという声明を発表したことにひじょうな喜びを感じている。われわれは、中国、インド両国政府がひきつづき5原則を忠実にまもり、われわれ両国の友好関係をそこなうのを許さないことを信じてやまないものである。


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