解放された農奴は毛主席を永遠に忘れない

チベット族 ルンチェンワムジ


 各民族人民の救いの星であった毛主席が、われわれのもとから永遠に去ってゆかれてもう一年になる。この一年間、チベットの解放された百万の農奴 は、毛主席のことを忘れたことはない。解放前の苦しみをなめつくした奴隷こそ、毛主席のご恩を絶対に忘れない。毛主席は解放された農奴の胸にいつまでも生 きつづけられることであろう。

 わが国の西南辺境によるチベットは、解放前には、最も反動で、暗黒で、残酷で、野蛮な封建領主農奴制度の支配下にあった。毒ヘビのような三大領主 (チベットの地方政府、寺院、貴族)のあくことのない抑圧と搾取のもとで、農奴はその血と汗を吸いあげられた。たびかさなる労役は農奴の体をむしばんだ。 空は高いが農奴を腰を伸ばす権利を持っていなく、土地は広いが、農奴には一寸の土地ももてなかった。口をきく道具としての百万の農奴は、牛馬のようにこき 使われ、鞭うたれ、売買され、殺害された。そればかりか、年中飢餓・死線をさまよっていたのだ。私の故郷であるヒマラヤ山脈の北のふもとにある貧しい村を 例にとろう。解放前の四、五十年の間に、この村の貧しい住民―― 一八三戸のうち五十五人が村をにげ出し、十八人が三大領主のために殺され、二十八人が馬小屋や道端で餓死した。わたしの一家は先祖代代奴隷だったから、人 間らしい生活をおくったためしがなかった。チベットの農奴が強いられていた境遇は、世界でもまれにみるものであった。

 待ちに待った救いの星――毛主席と共産党が、私たちを解放してくださった。毛沢東思想にみちびかれて、わたしたち百万の農奴は立ちあがった。奴隷 の首カセをうちくだき、三大領主をうち倒し、封建農奴制度をくちがえして、幸福な社会主義社会への道を踏み出したのである。祖国のチベットはすっかり変 わった。かつて、われわれチベット族の政治、経済、文化は長い年月にわたり、停滞と衰退の状態にあった。農業も畜産業も衰退の一途をたどり、衣食の需給さ え不可能であった。工場は皆無にひとしく、資源にめぐまれる百二十余万平方`にのぼるチベット高原では、ネジ釘もマッチもつくることができなかった。しか し、いまはちがう。農業、畜産業を営む人民公社がチベット高原にあまねくでき、農業は年々豊作をおさめている。かつて作物はつくれないといわれていた海抜 四、五千bをこえているのである。工業も発展し、人跡まれな雪山のところに近代的な工場がつぎつぎに新設され、しかも、タカも巣をつくらない谷間に、公路 や橋が新設されている。渓流をはさむへんぴな谷間にも水力発電所が建設された……。

 ほかのところさておき、われわれのレーマイについてのべてみよう。三大領主にさげすまされていたわれわれは、いまでは、自分たちの運命を自分たち で左右し、大自然を改造する巨人にかわったのである。「世界の屋根」に用水路をほり、霧につつまれる山々には公路をつくった。「そびえる雪山は美しい帯を つけ、ヤクはトラクターにとってかわった」のである。断崖絶壁には段々畑をつくり、「石ころだけの荒れ地もいまは、すっかりかわって穀倉」となった。家畜 の数も解放前の三倍となった。生産は年ごとに伸びて、人民公社の社員の生活も向上の一途をたどっている。「毛主席の指導のおかげで、解放をかちとったわし ら農奴は、極楽にのぼった」と、みんな大よろこびである。

 いまのチベットのすばらしさは枚挙にいとまがないが、それをもたらしたのは毛主席のりっぱな指導である。毛主席なしに新しいチベットはありえない し、われわれ農奴も自由な今日をもちえないのだ。わたしは、毛主席にお目にかかったことがないが、毛主席の面影はわたしの心にきざみつけられており、毛主 席からうけけたご恩を決して忘れない。われわれ農奴は、われわれの党が修正主義にならず、われわれの国が変質せず、農奴制度の首カセもうとするふたたびわ れわれの首にかけられないようにするため、いつまでも毛主席も偉大な思想をまもり、毛主席がきりひらかれた革命事業を最後までおしすすめ、決してそれを中 途でやめてはならないことをよく知っている。

 救いの星を失ったわれわれの悲しみはたとえようもない。だが、われわれ各民族人民は、毛主席が生前にはぐくみ、選び、按配した最も理想的な後継者 である華国鋒同志という英名の指導者をもっている。解放されたわれわれ農奴は、毛主席を心から愛したように、華主席を心から愛している。われわれは華主席 をはじめとする党中央にしたがい、毛主席はきりひらかれた革命の道をいつまでも前進するだろう。

(筆者はチベット自治区ルンズェ県レーマイ人民公社の党支部書記)

(1977/09『人民中国』)

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