1.プロレタリア文化大革命の準備について


 わが国のプロレタリア文化大革命は、大規模な、真のプロレタリア階級の革命である。

 毛主席は、この大革命の必要牲について、「こんどのプロレタリア文化大革命は、プロレタリア階級独裁をうちかため、資本主義の復活を防ぎ、社会主義を建設するうえで、まったく必要なものであり、きわめて時宜にかなったものである」と簡潔なことばで説明したことがある。毛主席のこの科学的論断を十分に認識するためには、われわれは、プロレタリア階級独裁のもとでひきつづき革命をおこなうことについての毛主席の学説を深く理解すぺきである。

 党の第八回全国代表大会がおわってまもなく、一九五七年に、毛主席は「人民内部の矛盾を正しく処理する問題について」という偉大な著作を発表し、「中国共産党第七期中央委員会第二回総会での報告』につづいて、全面的に、プロレタリア階級独裁の条件のもとでの矛盾、階級、階級間争を提起し、社会主義社会に敵味方の矛盾と人民内部の矛盾という性質の異なる二種類の矛盾が存在するという学説を提起し、プロレタリア階級独裁のもとでひきつづき革命をおこなうという偉大な理論を提起した。この偉大な著作は、さんぜんたる光をはなつ灯台のように、わが国の社会主義革命と社会主義建設の針路を照らしており、またこんどのプロレタリア文化大革命のために理論的基礎をきずいた。

 毛主席の偉大な歴史的貢献をいっそう深く認識するためには、国際共産主義運動の歴史的経験をひととおりふりかえってみる必要がある。

 一八五二年、マルクスは、「わたしよりもずっとまえに、ブルジョア歴史学者たちはこの階級闘争の歴史的発展をのぺていたし、ブルジョア接済学者たちは各階級にたいして経済的解剖をおこなっていた。わたしが新しくやったことは、つぎの点を証明したことである。(1)各階級の存在は、生産の特定の歴史的発展段階だけにむすびついたものであるということ、(2)階級闘争は、必然的にプロレタリア階級独裁へみちびくということ、(3)この独裁そのものは、いっさいの階級の廃絶と無階級社会とにいたる過渡をなすにすぎないということ、これである」とのべた。マルクスのプロレタリア階級独裁の学説によって、科学的社会主義は、空想的社会主義や種々さまざまのエセ「社会主義」と一線を画すことになった。マルクス、エンゲルスはこれらのことのために生涯奮闘した。

 マルクスとエンゲルスの死後、第二インターの諸党は、レーニンの指導するボリシェピキ党をのぞいて、ほとんどすぺてがマルクス主義を裏切った。レーニンは第ニインターの修正主義との闘争のなかで、マルクス主義をうけつぎ、守り、発展させた。聞争の焦点は、ほかでもなく、プロレタリア階級独裁の問題であった。レーニンは古株の修正主義者をきぴしく糾弾したとき、「階級闘争を承認するにすぎないものは、まだマルクス主義者ではない」、「階級闘争を承認し、同時にプロレタリア階級独裁をも承認するものだけが、マルクス主義者である」とくりかえし指摘した。

 レーニンは、ロシアのプロレタリア階級を指導して偉大な十月社会主義革命の勝利をたたかいとり、最初の社会主義国家を樹立した。レーニンは、プロレタリア階級独裁を指導した偉大な革命的実践にもとづいて、資本主義復活の危険性と階級闘争の長期性を見抜き、「資本主義から共産主義への移行は、歴史的一特代である。この特代が終わらないあいだは、搾取者には必然的に復活の望みがのこされていて、この望みは復活の行動に転化する」とのべている。

 レーニンは、「ブルジョア階級の反抗は、かれらが打倒される(たとえ一国内であれ)ことによって十倍にも狂暴になる。かれらの強大さは、国際資本の力、かれらのもつさまざまな国際的関係の力と強固さにあるばかりでなく、習慣の力小規模生産の力にもある。なぜなら、小親模生産は残念ながら、いまなお、この世におびただしくのこづていて、この小規模生産が資本主義とブルジョア階級を、たえす、毎日、毎時、自然発生的に、大規模に生み出しているからである」と指摘している。「すべてこういう理由からして、プロレタリア階級の独裁は必要である」というのがレーニンの結論である。

 レーニンはまた、「新しいプルジョア階級が」「われわれのソビエトの職員のなかから生まれ」つつある、と指摘した。

 レーニンは、復活の危険性は資本主義の包囲からもきていると指摘し、帝国主義国は「かれらのいわゆる軍享千渉、つまりソビエト権力絞殺のためには、どんな機会をものがすまいとしている」とのべた。

 ソ連修正主義裏切り者集団は、レーニンのこれらの輝かしい教えに徹底的にそむいた。フルシチョフからブレジネフにいたる手合はみな、はやくからソ連共産党の内部にひそんでいた資本主義の道をあゆむ実権派である。かれらは政権の座につくやいなや、ブルジョア階級の「復活の堂み」を「復活の行動」に変え、レーニン、スターリンの党をのっとり、世界最初のプロレタリア階級独裁の国家を、暗黒な、ファシズムの、プルジョア階級独裁の国家に「平和的に転化」させた。

 毛主席は、ソ連修正主義裏切り者集団を中心とする現代修正主義とまっこうから対決する闘争をおこなって、プロレタリア革命とプロレタリア階級独裁についてのマルクス・レーニン主義の理論をうけつぎ、守り、発展させた。毛主席は、プロレタリア階級独裁の正反両面の歴史的経験を全面的に総括し、資本主義の復活を防ぐために、プロレタリア階級独裁のもとでびきつづき革命をおこなう理論を提起した。

 毛主席は、はやくも中国革命が新民主主義革命から社会主義革命に転換する前夜、つまりー九四九年三月、党の第七期中央委員会第二回総会での報告のなかで、プロレタリア階級が全国の国家権力を奪取したあと、国内の主要な矛盾は「労働者暗級とブルジョア階級との矛盾」であり、闘争の中心は依然として国家権力の問題であることを明確に指摘した。毛主席は、「銃をもった敵が消滅されてからも、銃をもたない敵は依然として存在する。かれらはかならすわれわれに死にもの狂いのたたかいをいどんでくる。われわれはけっしてこれらの敵をみくびってはならない。現在、このように問題を提起し、問題を認識しないなら、われわれはきわめて大きなあやまりをおかすことになる」と、とくにわれわれの注意を喚起している。毛主席は、プロレタリア階級独裁樹立後の、プロレタリア階級とブルジョア階級とのあいだの階級闘争の長期性と複雑性を予見して、政治、思想、経済、文化、外交の領域で、帝国主義、国民党、プルジョア階級にたいして闘争をすすめるという戦闘任務を全党に提起した。

 わが党は、第七期中央委員会第二回総会の決議にもとづき、毛主席のさだめた過渡期における党の総路線にもとづいて、はりつめた戦闘をすすめた。そして、一九五六年には、農業、手工業、資本主義工商業にたいする生産手段所有制の面での社会主義的改造を基本的になしとげた。これは、社会主義革命がひきつづき前進できるかどうかの決定的瞬間であった。毛主席は、国際共産主義運動における修正主義の狂暴ぶりとわが国の階級闘争の新しい動向にかんがみ、『人民内部の矛盾を正しく処理する問題について』という偉大な著作のなかで、「わが国では、社会主義的改造が所有制の面では基本的になしとけちれたが」、「しかし、くつがえされた地主・買弁階級の残存分子はまだ存在しており、ブルジョア憎級もまだ存在しており、小プルジョア暗級はやっと改造されはじめたばかりである」と全党に注意をうながしている。一九五六年に劉少奇がもちだした「わが国で社会主義と資本主義との、どちらがどちらにうち勝つかという問題は、現在すでに解決された」などというでたらめな論調にまっこうから対決して、毛主席は「社会主義と資本主義とのあいだの、どちちが勝ち、 どちちが負けるかどいう問題は、まだぽんとうには解決されていない。」「プロレタリア暗級とブルジョア階級とのあいだの階級闘争、各政治勢力のあいだの階級闘争、ブロレタリア階級とブルジョア階級とのあいだのイデオロギー面での階級闘争は、なお長期にわたる、曲折したたたかいであり、ときにはひじょうに激しいものでさえある」ととくに指摘した。これは、生産手段所有制の社会主義的改造が基本的になしとげられたのちにも、階級と階級闘争がなお存在し、プロレタリア階級はなおひきつづき革命をおこなわなければならないということを、国際共産主義運動の理論と実践のなかではじめて明確に提起したものである。

 毛主席をはじめとするプロレタリア階級司令部は、広範な大衆をひきい、毛主席のさし示したこの方向にそって、ひきつづき偉大な闘争をすすめた。一九五七年ブルジョア右派分子に反対した闘争から一九五九年廬山会議で彰徳懐反党集団をあぱき出した闘争にいたるまで、また党の社会主義建設の総路線についての大弁論から社会主義教育運動における二つの路線の闘争にいたるまで、闘争の中心は、ほかでもなく、社会主義の道をあゆむか資本主義の道をあゆむかという問題であり、プロレタリア階級独裁を堅持するかブルジョア階級独裁を復活させるかという問題であった。

 毛主席のプロレタリア革命路線がおさめたどの勝利も、党がブルジョア階級に反対しておこしたどの重要な大戦役の勝利もみな、劉少奇に代表される右の、もしくは形は「左」だが実際は右の修正主義路線を粉砕して、はじめてかちとられたものである。

 すでに調査によって判明したように、劉少奇は、はやくも第一次国内革命戦争の時期から、裏切って敵に投降し、敵のまわし者、労働者階級の奸賊になりさがっており、かれはおびただしい犯罪行為をかさねた、帝国主義、現代修正主義、国民党反動派の手先であり、資本主義の道をあゆむ実権派の総代表であった。かれは、中国で資本主義を復活させて、中国を帝国主義、修正主義の植民地に変えようとたくらむ政治路線をもっていた。かれはさらに、その反革命の政治路線に奉仕する組織路線をもっていた。長年らい、劉少奇は、敵に投降しだものや変節者をかかえこみ、一群の裏切り者、特務、資本主義の道をあゆむ実権派をかきあつめてきた。かれらは、自分たちの反革命の政冶的経歴をひたかくしにかくし、互いにかばいあい、ぐるになって悪事をはたらき、党と国家の重要なポストをかすめとり、中央から地方にいたるまでの多くの単位の指導権をにぎり、地下のブルジョア階級司令部をつくって、毛主席をはじめとするプロレタリア階級司令部にたてついたのである。かれらは、帝国主義、現代修正主義、国民党反動派と結託して、アメリカ帝国主義、ソ連修正主義、各国反動派がはたしえない 破壊的役割をはたしたのである。

 一九三九年、毛主席の指導する抗日民族解放戦争がすさまじい勢いで発展しているまさにそのとき、劉少奇はかれの黒い『修養』をもちだした。この本の急所はプロレタリア階級独裁にそむくことにあった。『修養』は、目本帝国主義の打倒については何ひとつ語らず、国民党反動派といかにたたかうかについては何ひとつ語らず、武力で国家権力を奪取するというマルクス・レーニン主義の根本原理については何ひとつ語らず、逆に、共産党員が偉大な革命の実践から離れて観念論的な「修養」なるものをするようにしむけ、実際には、共産党員が「修養」をすることによって、帝国主義、国民党反動派の反革命独裁に膝を屈して投降する奴僕になりさがるようにしむけたのである。

 抗日戦争の勝利後、アメリカ帝国主義が蒋介石の反革命軍隊を武装し、解放区にたいして大挙攻撃をかける準備をしているそのとき、劉少奇はアメリカ・蒋介石反動派の必要にこたえて、「中国は平和と民主の新しい段階にはいった」などという投降主義路線をもちだし、毛主席のうちだした「思いきって大衆を立ちあがらせ、人民の力を強大にし、わが党の指導のもとに、侵略者をうちやぶり、新しい中国をきずきあける」という総路線と、アメリカ・蒋介石反動派の進攻にたいしては「まっこうから対決し、一寸の土地もかならず争う」という方針をとることに反対し、「中国革命のおもな闘争形態はいま、武装闘争から、非武装の大衆的議会闘争に転換した」などと鼓吹し、人民の軍隊にたいする党の指導を解消し、人民解放軍の前身である八路軍、新四軍を蒋介石の「国軍」に「統一」させようとし、さらには、党の指導する労働者・農民の子弟兵を大量に復員させようとし、こうして根本から人民の軍隊を解体して、中国革命を葬りさり、中国人民が血を流して奪いかえした勝利の果実を国民党にうやうやしくささげようとたくらんだのである。

 一九四九年四月、中国人民解放軍が長江渡河を準備し、中国の新民主主義革命が全国的勝利をかちとる前夜、劉少奇はこともあろうに天津にかけつけて、いきなり資本家のふところにくびをつっこんだ。かれは、閉会したぱかりの党の第七期中央委員会第二回総会が決議した、私的資本主義工業にだいする利用、制限、改造の方針に狂気のように対抗し、「こんにちの中国の資本主義はまだ青年時代にあり、無制限に「大いに発展させる」べきであり、「こんにち資本主義による搾取は、罪悪でないばかりか、功績がある」といって大いに吹きまくり、恥知らずにも、「搾取が多けれぱ多いほど、功績も大きい」などといってブルジョア階級をもちあげ、惨正主義の唯生産力論をきかんに吹聴し、中国を資本主義の道へひきいれようとたくらんだのである。

 要するに、新民主主義革命と社会主義革命の多くの重大な歴史的瞬間に、劉少奇一味はいつも、毛主席のプロレタリア革命路線に狂気のように反対し、反革命の陰謀破壊活動をおこなったのである。しかし、かれらが反革命である以上、かれらの陰謀は暴露せざるをえない。フルシチョフが登場して以後、とりわけソ連修正主義がアメリカ帝国主義、インドなどの国の反動派と結託して、大々的に反中国をおこなうようになると、かれらはいっそうたけり狂ってきたのである。

 毛主席はだれよりもはやく劉少奇一味の反革命の陰謀の危険性に気づいた。一九六二年一月の中央工作会議で、毛主席は、修正主義があらわれるのを警戒すべきであるという問題を提起した。一九六二年八月の北戴河の中央工作会議と九月の党の第八期中央委員会第十回総会で、毛主席はいっそう完ぺきに、社会主義の全歴史的段階におけるわが党の基本路線をうち出した。毛主席は、「社会主義社会は相当長期にわたる歴史的段階である。社会主義というこの歴史的段階においては、なお階級、階級矛盾と階級闘争が存在し、社会主義と資本主義とのニつの道の闘争が存在し、資本主義復活の危険性が存在している。このような闘争の長期性と複雑性を認識しなければならない。警戒心を高めなければならない。社会主義教育をおこなわなければならない。階級矛盾と階級闘争の問題を正しく理解し、処理し、敵味方の矛盾と人民内部の矛盾を正しく区別し、処理しなければならない。さもなければ、われわれのこのような社会主義国は、その反対の側に向かい、変質し、復活があらわれることになる。われわれはいまから、この問題について、毎年語り、毎月語り、毎日語って、われわれが比較的はっ きりした認識をもつようにし、マルクス・レーニン主義の路線をもたなければならない」と提起している。毛主席の提起したこのマルクス・レーニン主義の路線は、わが党の生命線である。

 つづいて、一九六三年五月、毛主席はみずから主宰して、『中国共産党中央の、当面の農村工作におけるいくつかの問題についての決定(草案)』(すなわち『十ヵ条』)を制定し、社会主義教育運動における党の路線、方針、政策を定めた。毛主席はさらに、全党にたいし、もし階級と階級闘争を忘れ、プロレタリア階級独裁を忘れるなら、「それほど長い期間がたたなくても、つまり、短くて数年、十数年、長くて数十年もたてば、不可避的に全国的規模の反革命の復活があらわれることになり、マルクス・レーニン主義の党はきっと修正主義の党にかわってしまい、ファシストの党にかわってしまい、中国全体が変色してしまうであろう。同志諸君に考えてもらいたい、これはなんと危険な情景であろうか!」と警告を発した。毛主席はその時すでに、資本主義復活の危険性をいっそうはっきりと全党と全国人民のまえに提起したのである!

 これらすべての警告と闘争によって、劉少奇一味の反動的な階級的本性は、いささかも改められることはなかったし、また改められるものでもなかった。一九六四年、偉大な社会主義教育運動のなかで、劉少奇はとびだしてきて、大衆を弾圧し、資本主義の道をあゆむ実権派をかばうとともに、毛主席が先頭にたって提唱した、社会の情況について調査研究をおこなうというマルクス主義の科学的方法を、すでに「時代おくれ」になったといって公然と攻撃し、劉少奇の路線を実行しないものは、もう「指導幹部になる資格はない」などとうそぷいた。かれらは、しびれを切らしてすぐにも資本主義を復活きせようとしだのである。一九六四年末に、毛主席は中央工作会議を召集し、みずから主宰して「農村の社会主義教育運動のなかで、当面提起されているいくつかの問題」(すなわち「二十三ヵ条」)を制定し、劉少奇の、形は「左」だが実際は右のブルジョア反動路線をきびしく糾弾し、劉少奇の「党内外の矛盾の交叉」、「四清と四不清の矛盾」などという奇怪な論調を批判し、「今回の通動の重点は、党内の例の資本主義の道をあゆむ実権派をたたくこどにある」ということをはじめて明確 に提起した。毛主席が国内、国際のブロレタリア階級独裁の歴史的経験を総括してえたこの新しい結論は、社会主義教育運動の針路を正し、まさにおとずれようとしていたプロレタリア文化大革命の方向をはっきりとさし示したのである。

 この間の歴史をふりかえってみると、幾億もの革命的大衆が参加したこんどのプロレタリア文化大革命は、けっして偶然におこったものでないことがわかる。これは、社会主義社会に存在する二つの階級、二つの道、二つの路線の長期にわたる鋭い闘争の必然的な結果である。これは、「プロレタリア賭級がブルジョア階級とすべての搾取階級に反対する政治大革命であり、中国共産党およびその指導下にある広範な革命的人民大衆と国民党反動派との長期にわたる闘争の継続であり、プロレタリア階級とブルジョア階級との階級闘争の継続である」。偉大な指導者毛主席にしっかりとしたがって社会主義の道をあゆむことを決意している英雄的な中国のプロレタリア階級、貧農・下層中農、人民解放軍、革命的幹部および革命的知識分子は、劉少奇一味の復活の策動にこれ以上がまんできなくなり、ついに階級の大格闘が不可避となったのである。

 まさに毛主席が一九六七年二月にある談話のなかで指摘したように、「これまで、われわれは農村での闘争、工場での闘争、文化界での闘争をおこない、社会主嚢教育通動をすすめてきたが、しかし、問題を解決することができなかった。なぜなら、公然と、全面的に、下から上へと広範な大衆をたち上がらせて、われわれの暗い面をあばきだすようなひとつの形態、ひとつの方式を見つけだせなかったからである。」いま、われわれはこのような形態を見つけた。それはほかでもなく、プロレタリア文化大革命である。幾憶もの大衆をたち上がらせて、大いに見解をのべ、思うぞんぶん意見を発表し、大字報をはり、大弁論をおこなうようにさせてこそ、はじめて党内にもぐりこんでいる裏切り者、特務、資本主義の道をあゆむ実権派をあぱきだし、かれらの資本主義復活の陰謀を粉砕することができるのである。劉少奇というこの裏切り者、敵のまわし者、労働者階級の奸賊の一貫した反革命の正体は、ほかでもなく、広範な大衆が審査に参加したことによって、はじめてあきらかにされたのである。党の第八期中央委員会第十二回拡大総会は、劉少奇の党内外におけるあらゆる職務を解任し、か れを永遠に党から除名することを決定した。これは幾億もの大衆の偉大な勝利である。われわれの偉大な教師毛主席が、プロレタリア階級独裁のもとでひきつづゴき革命をおこなう学説にもとづいて、こんどのプロレタリア文化大革命をみずからおこし指導したことは、まぎれもなく、「まったく必要なものであり、きわめて時宜にかなったものであって」、マルクス・レーニン主義の理論と実践にたいする偉大な新しい貢献である。


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