資本主義工商業の改造をめぐる二つの路線の闘争

国務院財貿弁公室プロレタリア革命派


 わが国でプロレタリア階級が全国の権力を奪取したのち、民族資本主義工商業にどう対処するかは、きわめて重要な、しかも複雑な問題であった。われわれの偉大な指導者毛主席はこの問題を天才的に解決し、資本主義工商業の社会主義的改造について世界的な意義をもつ成功した経験をつくり出して、マルクス・レーニン主義を大いに豊かにし、発展させた。

 わが国における資本主義工商業の社会主義的改造は、先鋭で複雑な階級闘争であった。この革命は、資本家のさまざまな反抗に出合ったばかりでなく、党内におけるブルジョア階級の総代表――中国のフルシチョフの血迷った反対にもぶつかった。事実、この問題をめぐって党内には、ずっと根本的に対立する二つの路線が存在してきた。一つは毛主席に代表されるプロレタリア革命路線であり、もう一つは中国のフルシチョフに代表されるブルジョア反動路線であった。新中国の成立いらい、この二つの路線はつぎの三つの問題をめぐって、はげしいつばぜりあいをつづけてきたのである。

改造はおこなうべきか それともおこなうべきでないか

 一九四九年に中華人民共和国が成立したことは、わが国の革命が新民主主義革命の段階から社会主義革命の段階に転化したことを示す標識であった。

 偉大な教師毛主席はマルクス・レーニン主義の普遍的真理を創遺的に運用して、中国の具体的情況を科学的に分析し、わが国の資本主義経済を官僚資本と民族資本とに区分した。官僚資本は反動支配の経済的基礎であり、官僚資本にたいしては、われわれは没収の方法をとって、それを社会主義的国営経済に変え、国民経済全体の指導的要素に変えなければならない。ところが、民族資本にたいしては、利用、制限、改造の政策を実行して、最後にはそれを消滅しなければならない。なぜなら、わが国の民族ブルジョア階級は二面性をもっているからである。ブルジョア民主主義革命の時期には、かれらは革命的な側面をもっていると同時に、妥協的な側面をももっていた。社会主義革命の峙朝には、かれらはよぎなく社会主義的改造をうけいれる可能性をもっていると同時に、資本主義を発展させることを強く要求する反動性をもっている。中華人民共和国成立後の一時期には、帝国主義の抑圧に対処するため、また工農業の生産を急速に回復、発展させるために、なお一定の範囲で都市、農村の私的資本主義の積極性を利用する必要があった。しかし、民族資本には制限をくわえるとともに、社会主義的改造――すなわち、国家資本主義の形態を通じて、社会主義経済に変えること――を一歩々々実行しなければならなかった。一九四九年三月五日、全国的な勝利を目のまえにして毛主席は『中国共産党第七期中央委員会第二回総会での報告』のなかで、土地問題が解決されたのち、国内の基本的矛盾は「労働者階級とブルジョア階級との矛盾」である、と強く指摘した。そして、「制限と反制限は、新民主主義の国家における階級闘争の主要な形態となるであろう。もしわれわれが、いまは資本主義を制限する必要はないと考えたり、『資本の節制』というスローガンをすててもよいと考えたりするなら、それは完全な誤りであり、それこそ右翼日和見主義の見方である」と明確に指摘した。その後、国民経済回復の段階が終わったとき、毛主席はまた、過渡期における党の総路線――すなわち、「かなり長い期間内に国家の社会主義的工業化を一歩々々実現し、農業、手工業、資本主義工商業にたいする社会主義的改造を一歩々々実現する」こと――をうち出した。

 ところが、中国のフルシチョフはおおっぴらに毛主席のプロレタリア革命路線に反対した。かれは、民族資本にたいして制限の政策をとるべきではなく、資本家の搾取を歓迎すべきだと考え、資本主義の「搾取には功績がある」という反革命の世論をつくりあげるのにやっきになった。かれはいたるところで「社会主義を建設するのは、まだなん十年もさきのことだ」とわめきたて、「新民主主義制度をうち固めるためにたたかおう」となんども公言した。これこそ中国で資本主義を発展させ、ブルジョア階級独裁をうち立てようとするものであって、実際には、中国を半植民地的、半封建的なみじめな状態へと後追させるものである。

 はやくも一九四九年、中国のフルシチョフは『新中国の経済建設の方針と問題点』という文章のなかで、私営企業には「平和的経済競争」をおこなわせ、「大体同じような条件のもとで、だれがうまく経営するかをみるのだ」といいふらした。この年、北京、天津の解放後、かれはこの反動的主張を一段と発展させた。そして、「私営企業の活動範囲はぴじょうに広く、国営企業と並行して発展していくことができる」といい、さらに「将来あるいは私営企業の生産が公営企業のそれを上回るかもしれない。しかし政府はそれを恐れない。われわれの主な目的は生産を発展させることであり、どちらの生産が大きく伸びようと、それには反対しない」などと放言した。かれのこれらの主張こそ、資本主義工商業にたいする制限と改造に公然とはむかうものであり、国営経済を国民経済の指導的要素にするという毛主席の指示に公然とはむかうものである。はっきりいえば、それは事実上、社会主義経済を否定して、資本主義経済を発展させ、プワレタリア階級独裁を香走して、ブルジョア階級独裁をうち立てようとするものである。中国のフルシチョフがうち出したこの反動路線は、資本主義を発展させることを強く要求する民族ブルジョア階級の反動性を集中的にあらわしている。ブルジョア階級の代理人としてのかれの正体が、ここでなんとあざやかに暴露されていることか。

 中国のフルシチョフをかしらとするひとにぎりの党内最大の実権派が死物狂いで妨害し、阻止したにもかかわらず、また、民族ブルジョア階級がくりかえして反抗し、破壊活動をおこなったにもかかわらず、わが国における資本主義工商業の社会主義的改造運動は、毛主席のプロレタリア革命路線にみちびかれて、なおも一波ごとに高まりながら、勝利のうちに発展していったのである。

真の改造か、それともニセの改造か

 一九五五年七月、毛主席は偉大な歴史的意義をもつ『農業協同化の問題について』という報告をおこなった。その結果、農業の社会主義的改造はすみやかに実現された。このとき、毛主席はまたも時をうつさず、「中国の手工業と資本主義工商業の社会主義的改造も農業の発展の必要に応じるには、時期をすこしくりあげてなしとけられなければならない」という偉大な呼びかけを発した。広範な革命的労働者・職員はすすんでこの呼びかけにこたえ、全国にわたって資本主義工商業の全業種公私共営化という社会主義的改造の高まりをもりあげた。

 このとき、公然と阻止することがもはやできないと考えた中国のフルシチョフは、大急ぎで反革命の手口を切りかえ、かれのかすめとっていた党、政府の権力を利用して、この世界をゆさぶる革命運動を修正主義の軌道にのせようとたくらんだ。かれは、一方では、この生死をかけた階級闘争を意識的に抹殺して、ブルジョア階級を極力美化し、全業種にわたる公私共営は「資本家自身がそれを望んだのだ」といいふらした。同時に他方では、必死になってブルジョア階級のために指導権を奪いとり、若干の表面的な改革を通じて、資本家にひきつづき企業の指導権をにぎらせ、それによって資本主義温存の目的をとげようとたくらんだ。

 中国のフルシチョフはすでに建国当初、ブルジョア階級に「内情を知らせる」ため、つぎのようなことをいっている。「きみはいまたった一つの工場しか経営していないが、将来、二つ、三つ……八つの工場を経営することができよう。社会主義になって、国家が命令をくだせば、きみは工場を国家に手渡すか、それとも国家がきみの工場を買い上げることになる……そののち、国家はその八つの工場を、やはりきみに渡して経営させる。きみはこれまで通り社長だ……きみにはさらに八つの工場をあたえ、あわせて十六の工場をきみにまかせる。きみの月給は滅らすどころかましてあげる……」、そうすれば「ブルジョア階級」は「時々とした笑顔」で、「平和的に社会主義にはいっていき」、名誉も利益もともに手にいれることができる、と。一九五五年から五六年にかけての社会主義的改造の高揚期にも、中国のフルシチョフは、相変わらずこうした調子でしゃべりまくっていたのである。

 事実は果たしてそのとおりだろうか。いや、そうではない。

 わが国における生産手段の資本主義的所有制の社会主義的改造は、労働者階級とブルジョア階級との生死をかけた深刻な階級闘争であった。民族ブルジョア階級が社会主義的改造の道を歩んだのは迫られてそうしたのであり、それにはつぎのような事情があった。

 第一に、われわれは二十二年間にわたる革命戦争を間断なくおこなって、国民党反動派の支配をくつがえし、プロレタリア階級独裁の国家権力をうち立てた。まさに毛主席が一九四九年六月三十日に発表した『人民民主主義独裁について』のなかでのべているように、「人民の手には強大な国家機構があるので、民族ブルジョア階級の謀反をおそれることはない」のである。

 第二に、われわれは資本主義経済全体の八〇パーセントを占める官僚資本を没収し、強大な社会主義国営経済をつくりあげた。そのため、国家は国民経済の命脈をにぎるようになり、また、残りの二○パーセントを占める民族資本にたいして平和的買戻しの方法で改造をすすめる有利な条件をもつようになった。

 第三に、われわれは農業協同化を一歩々々実現することによって、民族ブルジョア階級と農村とのつながりを断ち切り、かれらを、長期の革命闘争と農業協同化の基礎のうえに発展してきた強大な労農同盟からはさみうちにあう状態においこんだ。

 第四に、われわれは民族ブルジョア階級とくりかえし渡り合い、闘争してきた。たとえば、建国当初の、投機取引に打撃をあたえ、物価を安定させる闘争、贈賄、脱税、国家資材の横領、手間ぬきと原料のごまかし、国家の経済情報の窃取に反対する大規模で大衆的な「五反」運動などがそれであり、プロレタリア階級は、それらの闘争でつぎつぎと勝利をおさめた。

 第五に、われわれは原料、金融、市場を支配することによって、私営企業が生産から販売にいたるまで、国営経済を離れては一歩も動けないようにした。こうして、われわれは初級形態の国家資本主義(加工・発注、統一買付・一手販売、取次販売・代理販売)から高級形態の国家資本主義(個々の企業の公私共営から全業種にわたる公私共営まで)へと、互いにかみ合った段取りをおって、かれらに社会主義的改造の道を一歩々々歩ませたのである。

 その一方、われわれは民族ブルジョア階級にたいして買戻し政策をとり、経済の面でははじめに一定額の利潤を分配し、のちに定額利子支払い制度を実施した。また、憲法の面ではかれらの一人ひとりに、選挙権と生活の保証をあたえた。こうして、改造をうけいれる方が改造をこばむより有利だということを、かれらにわからせた。それと同時に、かれら自身とその子弟に必要と思われる政治教育をおこなったのである。

 まさに、こうした一連の重要な条件のもとで、闘争をくりかえしおこなうことによって、われわれははじめて資本主義工商業の社会主義的改造を勝利のうちにくりひろげることができたのである。

 ところが、中国のフルシチョフは、労働者階級が深刻で複雑な階級闘争を経てたたかいとったこの偉大な勝利を、資本家が「ひらけ」、「進歩した」結果だといいくろめた。そのねらいは、ひきつづきブルジョア階級のために人をだます政治的資本をかせいでやること、ブルジョア階級が「平和的転化」の方式で資本主義を復活させるのに世論をつくってやることにあったのである。われわれが私的資本主義企業を公私共営企業に変えたのは、実質的には、生産手段の資本主義的所有制を基本的に消滅して、プロレタリア階級に企業の指導権をにぎらせることにほかならない。

 しかし、中国のフルシチョフは百万手をつくして、ブルジョア階級にひきつづき企業の指導権をにぎらせようとした。この犯罪的目的をとげるために、かれは企業のなかで活動している共産党員や革命的幹部を戯画化し、同時にブルジョア分子を美化し、もちあげて、かれらを重く用いるよう主張した。そして、かれのこのようなやり方にしたがわぬものには、だれかれなしに「保守主義」「セクト主義」のレッテルをはりつけた。そればかりか、かれはまた社会主義企業の経営制度や仕事のスタイルを極力戯画化し、資本主義企業のそれをさかんにもちあげて、資本主義企業の系統だった一連の組織形態、制度、方法をそっくりそのままにしておこうとやっきになった。かれは一方では、「社会主義商業には硬直性や愚鈍さが存在する」などとデタラメをならべ、他方では「利潤が多いように経営する」という資本主義の商法を大いに宣伝し、はては「社会主義も資本主義を手本にしてやらなければならない」などとさえ公言した。

 しかし、歴史の潮流はさかまく怒清の勢いで前進しており、なにものもそれをはばむことはできない。まさに毛主席がのべているように、「潮流をはばもうとする日和見主義者は、ほとんどどこにでもいるが、潮流はどうしてもはばむことのできないものである。社会主義はいたるところで、あらゆる障害をのりこえて、勝利のうちに前進している」のである。

社会主義革命をあくまでやりぬくのか それとも資本主義を大いに復活させるのか

 生産手段所有制の社会主義的改造が基本的になしとげられたのち、われわれの偉大な指導者毛主席は、政治戦線と思想戦線で社会主義革命をあくまでやりぬくよう、呼びかけた。これは、中国でブルジョア階級を最終的、徹底的に消滅して、国家が永遠に変色しないよう保証する偉大な戦略的措置であり、毛主席によるマルクス・レーニン主義の重要な発展である。

 資本主義工商業の全業種にわたる公私共営は、労働者階級が資本家的所有制改造の面で基本的勝利をかちとったことを示している。しかし、ブルジョア階級は、けっしてそれに甘んぜず、機会さえあれば、なお資本主義復活の活動をおこなおうとしている。したがって、階級闘争は終わってはいず、資本主義復活の危険は依然として存在しており、社会主義的改造の任務はまだなしとげられてはいない。とりわけ、政治戦線と思想戦線の面でプロレタリア階級とブルジョア階級とのあいだの、どちらが勝ち、どちらが負けるかの闘争は、なおかなり長い期間を経なければ解決されない。

 ー九五七年、毛主席は『人民内部の矛盾を正しく処理する問題について』のなかで、「中国のブルジョア階級には、現在もう二面性はなく、一面性しかない、というものがいる。これは事実だろうか。事実ではない」、「たとえ、定額利子をとらず、ブルジョア階級というレソッテルをはがしてもらったとしても、なお、かなりの時間をかけて、ひきつづき思想改造をすすめていく必要がある」とはっきり指摘している。

 したがって、公私共営が実現されたのちも、かならず企業を基地とし、労働者大衆の監督のもとに、資本家個人にたいする長期の真剣な思想改造をおしすすめ、たえずブルジョア階級を批判し、最後に、政治戦線、思想戦線でブルジョア階級を徹底的にうち負かし、消滅しなければならない。この任務をなしとげるのは、所有制の社会主義的改造を実現することよりはるかに困難であり、より長い期間を必要とする。

 しかし、中国のフルシチョフは資本主義を復活させ、プロレタリア階級独裁をくつがえすために、毛主席の英明な指示に頑として反対した。全業種にわたる公私共営がおこなわれてまもなく、かれは「階級闘争消滅」論を必死に宣伝し、「こんにちの資本家は、もはや公私共営化した新しいタイフの資本家だ」とか、「かれらのうち九○数パーセントは政治的に信頼できる人たちだ」とか、「プロレタリア階級とブルジョア階級との主要な矛肩もすでに解決された」などとわめきちらした。

 かれはさらに、自分の見解を、「中国のブルジョア階級は当分もてはやされるであろう」という一句に概括した。その実、ブルジョア階級が「もてはやされる」ことは、とりもなおさず、資本主義が「もてはやされる」ことであり、また資本主義が復活することである。これこそ、かれが「階級闘争消滅」論をさかんにまきちらした真のねらいである。

 生産手段の資本主義的所有制の社会主義的改造が基本的になしとげられたのち、ブルジョア階級は三回にわたってわれわれに気違いじみた攻撃をかけた。第一回目は一九五七年、ブルジョア階級の右派によってしかけられた死物狂いの攻撃であり、第二回目は一九五九年、党内におけるかれらの代理人によっておこなわれた狂気のような攻撃であり、第三回目は国民経済が一時的に困難におちいった時期、またもくりひろげられたより気違いじみた攻撃である。そして、中国のフルシチョフその人こそ、くりかえし狂気の攻撃をおこなったブルジョア階級の舞台裏の大親分なのである。こうしたいくつかの動かせない事実は、「階級闘争消滅」論が攻撃をカムフラージュする敵の煙幕にすぎないことを如実に物語っている。

 中国のフルシチョフはふるいブルジョア階級を保護しようとしたばかりでなく、新しいブルジョア階級をも育成しようとたくらんだ。一九六一年から六二年にかけて、かれは内外の階級敵の気違いじみた攻撃に呼応して、自由市場の拡大をやっきになって鼓吹し、「なん人かの商人があらわれるのを許すこと、いくつかの自由市場をひらくこと、これらの商人に合法的地位をあたえることを考えてもよい」だの、「非合法の工場を開設するものがいてもよい」だの、「資本主義が氾濫するのを恐れてはならない」などと放言し、はては「新しいブルジョア階級をもういちど生みだすのだ」とさえ、おおっびらにわめきたてた。これはまた、なんというずうずうしさだろう。そればかりではない、かれはさらに社会主義の国営企業をも資本主義の企業に変えようとたくらんだ。かれはわれわれの偉大な指導者毛主席の教えにたいして、さかんに反対論をとなえ、社会主義の国営企業のなかに一連の反革命修正主義路線をおしすすめ、国営企業のなかに新しいブルジョア階級を育成しようとした。これは、かれが救うことのできない党内最大のブルジョア階級の代理人であることを示している。

 党をのっとり、国をのっとり、資本主義を復活させようとする中国のフルシチョフの犯罪行為がかつてない狂暴さを示した緊急なとき、すなわち一九六二年に、党の第八期中央委員会第十回総会が勝利のうちにひらかれ、その席上でわれわれの偉大な指導者毛主席が「絶対に階級闘争を忘れてはならない」という偉大な呼びかけをおこなったのである。春雷はとどろきわたった。

 「階級闘争の消滅」をうたう中国のフルシチョフの反革命的謬論は一掃され、資本主義の復活をねらうかれの犯罪的陰謀は粉砕された。さらに、毛主席がみずからおこし、指導しているプロレタリア文化大革命のなかで、この古狸の反革命分子の正体は、ついに白日のもとにさらされた。歴史の車輪を逆転させようと夢みたこの道化役者は、人に見むきもされない鼻つまみものになってしまったのである。

(『人民日報』1968年4月5日)

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