中国農村における二つの道の闘争

『人民日報』『紅旗』『解放軍報』編集郡(1967.11.23)


 いま、農村の情勢はたいへんすばらしい。何億という貧農・下層中農が都市の広範な革命的大衆と同じように、十分に立ちあがっている。かれらは毛主席のプロレタリア革命路線にみちびかれて、私心とたたかい、修正主義を批判し、社会主義的自覚を大いに高めている。偉大な革命運動は生産に新たな高まりをもたらし、ことしの農業生産は大豊作をかちとった。農村はいたるところ、いきいきとした気運にみちている。

 中国のフルシチョフの農村での反革命修正主義路線をいっそう深く批判し、その害毒を一掃することが、現在、農村のプロレタリア文化大革命を発展させるうえでの重大な戦闘任務である。

 中国は五億余の農民を擁する大国である。農民問題を正しく解決することができるかどうかは、わが国の民主主義革命の成否を左右する鍵であったし、また、わが国の社会主義革命の成否を左右する鍵でもある。全国的な勝利ののち、中国の農民を社会主義にむかってみちびいていくか、それとも資本主義にむかってみちびいていくかが、プロレタリア階級独裁の運命を決定し、社会主義制度の運命を決定してきた。

 まさに、このようなもっとも重要な問題をめぐって、解放後十数年らい、一貫して二つの道、二つの路線の真っ向から対決するはげしい闘争が存在してきたのである。

 すでに全国解放の前夜、われわれの偉大な指導者毛主席は、「重大な問題は農民の教育である」、「農業の社会化なしには、全面的な、強固な社会主義はありえない」と指摘した。

 われわれの偉大な舵手毛主席は、農村の社会主義革命のためにマルクス・レーニン主義の路線を定めた。これは農村での資本主義的搾取を消滅して、農業の集団化を実現させる路線であり、農業戦線での社会主義革命を徹底的にやりとげ、農民をみちびいて社会主義のひろびろとした大道をあゆませる路線である。

 ところで、資本主義の道をあゆむ党内最大の実権派、中国のフルシチョフは、十数年らい、農業問題でどのようなことをやってきたのだろうか。

 農業の社会主義的改造が基本的に完成されるまえは、かれは必死になって富農経済を保護し、発展させて、農業の社会主義的集団化に反対してきた。農業の社会主義的改造が基本的に完成されてからは、かればさかんに資本主義復活の活動をおこない、社会主義的集団経済を瓦解させ、気違いのように農村の社会主義革命を破壊し、広範な貧農・下層中農に反対してきた。かれは正真正銘の反革命修正主義路線をおしすすめてきたのであり、これは農村で資本主義の復活を実現させようと夢みる路線、つまり、事実上、地主分子、富農分子、反革命分子、悪質分子、右派分子を復活させる路線なのである。

 毛主席のプロレタリア革命路線によって、中国のフルシチョフのこの反革命修正主義路線を系統的に徹底的に批判することは、社会主義の道を堅持し、プロレタリア階級独裁をうちかため、修正主義の根をとりのぞくうえで、ひじょうに重大な、現実的意義をもっている。

中国のフルシチョフは富農経済の熱狂的な鼓吹者である

 中華人民共和国の成立は、わが国の民主主義革命が基本的に終わり、社会主義革命が始まったことを示すものであった。

 一九四九年三月、毛主席は中国共産党第七期中央委員会第二回総会での報告のなかで、「中国革命が全国で勝利をおさめ、土地問題が解決されたのち」、国内の基本的な矛盾は「労働者階級とブルジョア階級との矛盾」である、と指摘した。

 毛主席はまた、「国民経済の生産総額の九○パーセントをしめる分散した個人経営の農業経済と手工業経済は、慎重に、一歩々々、しかも積極的に、近代化と集団化の方向へ発展するようみちびくことができるし、また、みちびかなけばならない。なるがままにまかせる観点はまちがっている」と指摘した。

 毛主席のこのマルクス・レーニン主義の連続革命の思想、すなわち、とどまることなくブルジョア民主主義革命の段階からプロレタリア社会主義革命の段階へと移行する思想にもとずいて、土地改革以後、鉄は熱いうちにきたえよといわれているように、時をうつさず互助・協同化連動を発展させて、農業における社会主義的生産関係を一歩々々うちたて、社会主義の道をあゆむように農民をみちびき、農村における資本主義に制限をくわえ、それを消滅するべきである。

 中国のフルシチョフは、毛主席のこのプロレタリア革命路線に真正面から反対し、地主分子、富農分子、反革命分子、悪質分子、右派分子の利益を代表して、すぐさまとびだしてき、熱狂的に資本主義を宣伝し、やっきになって社会主義に反対した。

 第七期中央委員会第二回総会の閉会後まだ一ヵ月あまりしかたたないのに、中国のフルシチョフは天津にかけつけて、恥しらずにも資本家をもちあげ、悪名高い「搾取有功」論をうちだした。

 全国解放の直後、この中国のフルシチョフは、こんどは富農経済の発展を大いに鼓吹した。一九五○年一月、かれは大裏切り者安子文にあたえた黒い「指示」のなかで、デタラメにも「現在、搾取は人を救うものであり、搾取を許さないのは教条主義である。いまは、搾取しなければならず、搾取を歓迎しなければならない」などといった。

 かれは、毛主席が第七期中央委員会第二回総会での撮告のなかで提起した、農業経済と手工業経済を「なるがままにまかせ」てはならないという論点にたいして、さかんに反論し、「作男の雇用や単独経営はなるがままにまかせるべきだ」、「いくらかの富農があらわれてくるのもわるくはない」といった。がれはまた人を雇って田畑をたがやすのに「制限をくわえるべきではない」、それは「合法的」であり、…貧乏人のためにもなる」と宣伝した。

 かれはさらに、「馬三匹、鋤一ちょう、車一台をもつ農家を数年のちには八○パーセントにまで発展させるべきだ」と気違いのようにわめきたてた。

 かれは同年六月におこなった演説のなかでも、「富農経済を温存する政策」は、「一種の長期的政策である」とのべた。

 われわれは、吸血鬼の口をついて出てくる、こうしたわめき声のなかから、農村の資本主義勢力が社会主義をのみこんでしまおうとする、あの搾取階級としての食欲さと狂暴ぶりをみてとることができる。これこそ、徹底したブルジョア階級の人食い哲学である。

 なにが「搾取は人を救う」だ。なにが「作男の雇用は合法的」だ。それが「救う」のは、ブルジョア階級の人であり、それが「合法」というのは、資本主義の法である。資本主義の道をあゆむ党内最大の実権派は搾取制度をこのように熱狂的にほめたたえ、極悪非道の賃金奴隷制を「極楽浄土」のように描きだしているが、かれの五臓六腑につまっていろものがどのような黒いしろものであるかは、ひじょうに明らかではないか。

 なにが「馬三匹、鋤一ちょう、車一台の農家を発展させる」だ。すこしでも常識のある人なら、広大な農村で、馬三匹、鋤一ちょう、車一台をもっている農家が中農などではなく、富農であることをだれでも知っている。馬三匹、鋤一ちょう、車一台の農家を発展させるというのは、富農経済を発展させ、資本主義に農村の陣地を占領させて、広範な貧農・下層中震をふたたび抑圧と搾取の悲惨な境遇におとしいれ、労農同盟を破壊し、プロレタリア階級独裁を破壊するということなのである。

 なにが「制限をくわえるべきではない」だ。この資本主義の道をあゆむ最大の実権派が富農経済を熱狂的に賛美するのは、社会主義の道をあゆむ広範な貧農・下層中農の積極性に「制限」をくわえ、それをしめ殺して、資本主義勢力に道をきりひらくためである。かれのいう「制限をくわえるべきでない」ものは、資本主義的搾取だけである。これこそが、かれのいわゆる「自由」の階級的内容なのである。

 中国のフルシチョフは大衆をあざむくために、なんと黒白を転倒させて、「馬三匹をもった農家が七○パーセントになってはじめて、将来、集団農場をつくるのに都合がよい」などといった。

 かれは、腹の底から憎しみをこめて、「単独経営に反対するものをみな集団主義者だなどと考えてはならない」と貧農を中傷した。

 これは貧農にたいする大きな侮辱であり、また社会主義的農業集団化にたいする極度の歪曲である。毛主席は、広範な貧農・下層中農には、「きわめて大きな社会主義的積極性」があると指摘している。かれらは過去に地主や富農から残酷な搾取をうげており、搾取制度にたいして深いうらみ、大きな憎しみをいだいている。土地改革後、かれらの生活は以前にくらべてある程度向上したか、あるいは大いに向上したとはいえ、多くのものの経済的地位はなおひじょうに苦しい(貧農)、あるいはまだ裕福ではない(下層中農)。このことは、かれらが単独経営にだんこ反対し、資本主義的搾取制度にだんこ反対して、社会主義的集団化の道をあゆむことを積極的に要求するよう決定づけている。かれらは、党が農村で依拠する勢力であり、農村の社会主義革命の主力部隊である。貧農に打撃をあたえることは、革命に打撃をあたえることであり、社会主義に反対することである。富農に依拠して「集団農場」などをつくっても、それはひとかけらの社会主義も生みたすことができず、百パーセントの資本主義を生みだすだけである。

 「馬三匹の農家が七○パーセントになって」はじめて集団化ができるというデタラメな「理論」は、むきだしの資本主義的搾取を無花果の葉でおおうものにナさない。単独経営の農民の七○〜八○パーセントを富農にするなどというのは、まったくのペテンであり、もともと不可能なことである。しかも、だれもが知っているように、富農経済が農村を支配するときこそ、「七○パーセント」以上の農民が、地主分子、富農分子、反革命分子、悪質分子、右派分子の抑圧のもとでふたたび苦しい赤貧生活におちこむときである。これこそ、中国のフルシチョフが「貧乏人」にほどこす「恵み」なのである。

 中国のフルシチョフは、かれのこうした一連の反社会主義の理論を、「いま、新民主主義制度をうちかためるためにたたかおう」という社会主義革命を否定する綱領にまとめあげた。

 「新民主主義制度をうちかためる」とは、ブルジョア階級の利益を擁護することであり、都市と農村の資本主義を発展させるということである。つきつめていえば、解放された中国をふたたび半植民地・半封建のふるい道にひきもどすということなのである。

 この反動綱領は、毛主席にきびしく非難された。一九五三年六月、手主席はある演説のなかでこれに正面から反対して、このような提起の仕方は有害である、と指摘した。毛主席は深くほりさげてこう指摘している。過渡期には矛盾と闘争が充満している。われわれの現在の革命闘争は、過去の武装革命闘争にくらぺていっそう深刻でさえある。これは資本主義制度どすべての搾取制度を完全に葬ろうとする革命である。「新民主主義の社会秩序を確立する」という考え方は、実際の闘争状況にそぐわないものであり、社会主義事業の発展を妨げるものである

 毛主席のプロレタリア革命路線は、資本主義を発展させようとする中国のフルシチョフの路線の反動的本質を徹底的に暴露して、伸大な社会主義革命のためにはっきりと方向をさし示した。何億という農民が参加する偉大な社会主義革命がはじまった。いっそう鋭く、いっそう激烈な二つの道の闘争がはじまったのである。

中国のフルシチョフは農業協同化をしめ殺した資本主義の道をあゆむ最大の実権派である

 プロレタリア階級の革命党が農民を協同化の道をあゆむようにみちびくことは、マルクス・レーニン主義の基本的原理の一つであり、毛主席の一貫した思想である。一九四三年、毛主席は『組織せよ』という偉大な呼びかけを発し、つぎのように深くほりさげて指摘した。「農民大衆についていえば、かれらのあいだで何千年らいつづいてきたのは、一家族一世帯を一つの生産単位とする小私有経済であった。このような分散的な小生産こそ封建支配の経済的基礎であって、農民を永遠の貧困におとしいれてきたのである。このような状態を克服する唯一の方法は、しだいに集団化することであり、集団化を達成する唯一の道は、レーニンがいっているように、協同組合の道をへることである。

 全国解放後、土地改革の完成にともない、農業の互助・協同化運動は、毛主席のこの正しい路線にみちびかれて、新たな段階にひきあげられた。

 一九五一年、山西省などの広範な貧農・下層中農は、毛主席の教えにもとずき、互助組を一歩高めて試みに農業協同組合をつくることを要求した。これは偉大な革命行動である。ところが、中国のフルシチョフは毛主席にかくれて、ある報告書のうえに憎悪をこめてつぎのような指示を書いた。「土地改革後の農村では、経済の発展過程で、農民の自然発生的勢力や階級分化がすでにあらわれはじめている。党内ではすでにこのような自然発生的勢力や階級分化に恐れをいだき、しかもそれを阻止あるいは回避しようとする一部の同志があらわれている。かれらは、労働互助組や購買・販売協同組合の方法で、この趨勢を阻止あるいは回避する目的をとげようという幻想をいだいている。私的所有の基礎を一歩々々ゆるがし、弱め、最後には否定して、農業生産互助組織を農業生産協同程合に高め、それを新しい要素として、『農民の自然発生的要素にうち勝つ』べきだ、という意見をだしているものがいる。これは一種のあやまった、危険な、空想的な農業社会主義の思想である。」

 みてもらいたい。農業協同化をしめ殺そうとしたこの資本主義の道をあゆむ最大の実権派は、社会主義の道をあゆむ貧農・下層中農の積極性をどれほど僧んでいることかを。

 中国のフルシチョフのこの「指示」は、毛主席に反対し、毛沢東思想に反対し、広範な貧農・下層中農を極度に憎むかれの自供書である。かれは臆面もなく、農業協同化の社会主義路線を「幻想」だと中傷し、現実生活のなかで資本主義勢力をつきやぶって発展してきた社会主義の新生の事物を「危険」な「空想」だと中傷している。かれの反社会主義的なブルジョア階級の反革命的立場が、ここでこのうえなくはっきりとさらけだされている。われわれは、社会主義を憎んでいるかれの歯ぎしりの音をはっきりと聞きとることができるのである。

 われわれの偉大な指導者毛主席はこの指示をみて、極度の怒りをこめて、このあやまった議論に断固たる反撃をくわえた。毛主席は、プロレタリア階級独裁のもとで農業協同化をおしすすめることについてのマルクス・レーニン主義のきわめて完全な理論を創造的に発展させるとともに、農業生産の互助・協同化にかんする党中央の最初の決議をみずから作成して、農業協同化連動の前進を勝利のうちにみちびいた。これによって、中国のフルシチョフの陰謀は破産してしまったのである。

 一九五三年、国民経済が基本的に回復し、全国の土地改車が基本的に完成されたのち、毛主席は、わが党の過渡期における総路線と総任務をうちだした。毛主席はつぎのように指摘した。一部のものは民主主義革命が成功したのちも、相変わらずもとのところにとどまっている。かれらは革命の性質が転化したことがわからず、なおも、かれらの「新民主主義」をやりつづけ、社会主義的改造をやろうとはしない。これでは、右翼的な誤りを犯すことになる。農業についていえば、社会主義の道がわが国の農業の唯一の道である。互助・協同化運動を発展させて、農業生産力をたえず高めていくことが農村における党の活動の中心である。

 過渡期における総路線という光り輝く灯台に照らされて、広範な農民の社会主義的熱情はかつてなく高まり、半社会主義的性質をもつ初級農業協同組合が、雨後の竹の子のようにあらわれ、急速に発展していった。こうしたすばらしい情勢に直面して、資本主義の道をあゆむ党内最大の実権派とその一味はあわてふためき、いそいで命令をだし、「暴走反対」などとわめきたて、すでに協同組合に加入している農民を脅迫して、「協同組合を脱退させ、互助組へ復帰」させた。こうして、できあがったばかりの初級農業協同組合が、すっかりしめ殺されてしまったのである。

 一九五五年、毛主席の律大な呼びかけのもとに、農業協同化の高まりが全国にひろまった。ところが、中国のフルシチョフはまたも、毛主席が北京にいないときに乗じて、ふたたび「暴走反対」の犯罪活動をくわだてた。同年五月、かれは、もうひとりの資本主義の道をあゆむ党内最大の実権派と共謀して、「停止」「縮小」「整理」という反動的方針を制定し、また協同組合の大幅きりすての計画をみずから承認した。その結果、ニカ月あまりのあいだに、全国で二十万にのぼる協同組合がきりすてられてしまったのである。

 いまになっても、この中国のフルシチョフは頑としてその罪を認めようとしていない。しかし、動かせない証拠は山のようにあり、言いのがれようとしても言いのがれることはできない。中国のフルシチョフがどのように証弁をろうしても、それは、どこまでも頑固で、悪のかぎりをつくしたかれの反動的正体をいっそうはっきりと暴露するだけである。

 中国のフルシチョフは、農業協同化連動に反対する「理論」的根拠をさがしだすために、自分の大先輩ベルンシュタイン、カウツキー、フパーリンといった連中の修正主義のゴミためから、「生産力論」というボロ武器をひろいあげてきた。かれは、「工業が国有化されてはじめて、農民に大量の機械を供給できるようになるのであり、そののちに、土地の国有化や農業の集団化がはじめて可能になるのである」などと吹きまくった。

 かれのこうした「まず機械化し、それから協同化する」という「理論」は、われわれの農業の社会主義的改造連動のなかで、とっくに恥ずべき破産をとげてしまった。かれは、生産力のなかでもっとも主要な、もっとも活動的な要素である人民大衆の偉大な革命的段判を否定した。かれの「理論」には、生産力にたいする生産関係と上部構造の体大な促進作用などが、すべて投げすてられてしまった。かれのこのような「理論」によれば、生産力の発達していない国のプロレタリア階級と貧農・下層中震は、民主主義革命の勝利をおさめたのち、時をうつさず民主主義革命を社会主義革命に転化させる資格もなければ、そうすべきでもなく、まず資本主義の発展を許さなければならない。つまり、機械がなければ、資本家や富農から搾取されるのも当然だ、というわけなのである。

 もしもほんとう」かれのこのような「理論」にしたがって事がはこばれたならば、わが国の社会主義的農業協同化は葬りさられ、また社会主義的工実化も葬りさられたにちがいない。

 もしもほんとうにかれのこのような「理論」にしたがって事がはこばれたならば、社会主義革命の事業はとっくに葬りさられ、われわれのプロレタリア階級独裁の国家もとっくにブルジョア階級独裁の国家に変わっていたのではないだろうか。

 「まず機械化し、それから協同化する」というのは、中国のフルシチョフが農業の社会主義的改造に反対し、社会主義革命に反対するための口実にすぎないことは明らかである。その犯罪的なねらいは、わが国の農村に資本主義を発展させ、地主分子、富農分子、反革命分子、悪質分子、右振分子を復活させて、広範な貧農・下層中農を地主や営農のために牛馬のように働かせることにあった。

 農業協同化運動が資本主義の道をあゆむ党内最大の実権派によってしめ殺されようとしていたとき、われわれの停大な指導者毛主席は、『農業協同化の問題について』という有名な親告をおこない、つづいて『中国農村における社会主義の高まり』という本のために、みずからまえがきと評語を書いた。毛主席は、これらの天才的、画期的な偉大な文献のなかで、農業にたいする社会主義的改造の問題を科学的、系統的に、完全に解決し、マルクス・レーニン主義をこのうえなく豊かにし、発展させて、理論と実践の面から中国のフルシチョフとその一味の気違いじみた進攻を徹底的に粉砕した。

 毛主席は広範な農民の社会主義的積極性を高く評価し、最大の熱情をこめて、つぎのようにたえた。「現在全国の農村では、社会主義の要素が日々刻々増加しており、広範な農民大衆は協同組合を組織することを要求し、大衆のなかからはたくさんの聡明で、能力があり、公正で、積極的な指導的人物があらわれている。これはひじょうによろこばしい状況である。

 毛主席は、歴史の流れをはばもうとする中国のフルシチョフらの日和見主義をきびしく非難して、つぎのようにずばりと指摘した。かれらは完全に、「ブルジョア階級、富農、あるいは資本主義の自然発生的傾向をもつ富裕中農の立場に立って、比較的少数の人間のために考えているのである。

 毛主席は、農業集団化と社会主義的工業化との弁証法的関係を深くほりさげて究明し、中国のフルシチョフの「まず機械化し、それから協同化する」というデタラメな「理論」に批判をくわえた。毛主席はつぎのように指摘した。「わが国の条件のもとでは、資本主義国では農業を資本主義化させるが)、ます協同化してからでなければ、大型機械をつかうことはできない。」「われわれは、工業と農業、社会主義的工業化と農業の社会主義的改造という二つの事がらをけっしてきりはなしたり、たがいに孤立させたりして見てはならないし、けっして一方だけに力をいれて、他方を軽くあつかってはならない。

 毛主席のこの英明な論断は、つぎのような普遍的意義をもつ重要な問題に解決をあたえたものである。すなわち工業が発達していない国では、プロレタリア階級が民主主義革命を指導して勝利をかちとったのち、時をうつさず民主主義革命を社会主義革命に転化させ、強力なプロレタリア階級独裁に依拠して、生産手段所有制の社会主義的改造を実行し、社会生産力の飛躍出発展を促さなければならないし、またそうすることができること、工業がなお大量な農業機械を供給できない状況のもとでは、広範な貧農・下層中農の社会主義的積極性をひきだして、まず農業の社会主義的集団化を実行し、農業生産を発展させ、それによって社会主義由工業化と農業機械化のためにひろびろとした道をきりひらくことができるし、またそうしなければならないことである。

 日和見主義の邪気がはらい落とされ、社会主義の正気がもりあがってきた。毛主席の輝かしい理論にみちびかれて、何千万戸という農民大乗が行動にたちあがり、何億という農民の偉大な社会主義革命の怒声が中国のフルシチョフらひとにぎりの化物どもの修正主義路線をまたたくまに押したおし、押し流してしまった。かれらの右翼日和見主義の正体は、大波に洗われてすっかり明らかになった。農業協同化という偉大な大衆運動は空前の早さと激しさで発展していった。一九五五年の下半期からわずか一年あまりのあいだに、全国の農業協同化がくりあげて実現され、農業の社会主義的改造が基本的に完成された。二つの道の闘争のなかで、毛主席のプロレタリア革命路線がきわめて偉大な勝利をおさめたのである。

中国のフルシチョフは「三自一包」の黒い風の大元締めである

 生産手段所有制の社会主義的改造が基本由に完成されてのち、わが国の社会生産力はひじょうに大きな発展をとげた。一九五八年、毛主席がみずから制定した党の社会主義建設の給路線の輝かしい光に照らされて、国民経済には活気あふれる大躍進の局面があらわれ、わが国の広大な農村には人民公社というまったく新しい社会組織形形態があらわれた。人民公社化の実現によって、農業集団化は新しい段階に躍進し、農村における資本主義勢力の滅亡をはやめた。

 階級散は失敗にこりないで、農村における社会主義の新しい勝利を腹の底から増み、夢にも資本主義の復活を忘れなかった。

 わが国の国民経済がフルシチョフ裏切り者集団の破壊と三年連続の自然災害によって一時的な困難にぶつかり、帝国主義、現代修正主義、各国反動派が反中国の大合間唱をまきおこしたとき、中国のフルシチョフをかしらとする党内最大の資本主義の道をあゆむひとにぎりの実権派は、いまこそ「天下をくつがえす」ときだと考えて、大小さまざまの手下どもを指揮し、政治、経済、思想、文化などの客戦線で社会主義に向かって全面的な気違いじみた攻撃をかけてきた。

 資本主義の道を歩む党内最大の実権派は人民公社をさかんに攻撃して、「農民はこの数年間、集団経済から利益をうけなかった」などといった。かれの扇動のもとで、わが国の農村には、「三自一包」(自由市場、自留地、自負盈虧〔損益に自ら責任を負うこと〕、包産到戸〔農業生産の任務を一戸ごとに請負わせること〕)の黒い風がまきおこった。これは、人民公社を瓦解させ、資本主義の復活を実現しようとして打った、かれの大芝居であった。

 かれは「資本主義の氾濫を恐れろ必要はない」とか、「自由市場はやはりやっていくべきだ」とか、「工業では十分に後退しなければならず、農業でも包産到戸や単独経営をふくむところまで、十分に後退しなければならない」とか、公然とわめきたてた。

 この点については、もうひとりの資本主義の道をあゆむ党内最大の実権派の言っているはうが、もっと具体的である。かれはこういった。「増産ができさえすれば、単独経営でもかまわない。白描であろうと黒猫であろうと、鼠さえとれればよい猫だ。」

 このふたりの資本主義の道をあゆむ党内最大の実権派はまた、自分たちの腹心や手先を各地に派遣して、「包産到戸」の「経験」なるものを「調査」させ、「砲弾」をかきあつめて、われわれの偉大な教師毛主席のプロレタリア革命路線を攻撃しようとたくらんだ。

「増産」に名をかりて、実際には、社会主義的集団経済を瓦解させ、単独経営を復活し、資本主義を農村で自由に氾濫させる――これこそ、かれらがうちだした「三自一包」の反動的本質である。

 当時のことをふりかえってみると、「三自一包」をおしすすめるために、中国のフルシチョフは「指示」をだしたり、「報告」をおこなったりして、なんとわがもの顔にふるまっていたことか。ところがいまになって、この「修養」に徹した「大人物」は、三年にわたる困難な時期に、人民公社を「攻撃したことはなかった」などと、あつかましくも逃げをはっているのである。

 証拠が出そろっているのに、まだ言いのがれようとする。なんと鉄面皮なことだろうか。

 中国のフルシチョフが鼓吹した「三自一包」は、農村における資本主義勢力の必要にこたえて、裕福な農民の資本主義への自然発生的傾向を助長し、また投機分子や新しく生まれでたブルジョア分子のための青信号となった。中国のフルシチョフの黒い指示にしたがって、強引に「包産到戸」をおしすすめた少数の地方では、「責任田」とか、「田畑を一戸ごとに割当てる」とか、「収穫高責任制」とかいった資本主義復活のさまざまな手口がいっせいにあらわれて、集団経済に重大な影響をあたえ、それをひどく弱体化させた。

 「三回一包」の黒い風がまきおこっていた期間、中国のフルシチョフの保護のもとにあったひとにぎりの反革命修正主義分子は、絶望のなかにとうとう資本主義復活の妙計をまたもさがしあてたと思いこんで、みな有頂天になった。かれらはしきりにうなずきながら、「まったく、山はきわまり、川はつきて、道がなくなったかと思うと、柳しげり、花さくかなたに、また村があらわれる、とはこのことだ」といった。

 これらすべては、中国のフルシチョフの極力鼓吹する「三自一包」が都市と農村の資本主義勢力をかきあつめて、農村の社会主義の陣地に気違いじみた攻撃をかける一陣の黒い風であったことを、あますところなく物語っている。これは、人民公社の集団経済を破壊し、社会主義の土台をほりくずし、赤色の中国を黒色の中国に変えようとすろものであった。これは、かれらが党をのっとり、政府をのっとる準備としてすすめた資本主義の大復活活動であった。

 類は友をよぶ。資本主義の道をあゆむ党内最大の実権派が鼓吹したこの一連のことは、フルシチョフやその後継者ブレジネフ、コスイギンの手合いがソ連の農村でおこなったこととまったく瓜二つである。

 ソ修裏切り者集団の頭目連は「生産物自由販売の原則」をさかんにおしすすめ、市場価格への「行政的規制」を禁止する命令をだした。かれらは「利潤の高低を、集団農場と国営農場の経営活動にたいする客観的評価の基礎にすべきである」と宣言した。かれらはたびたび、「自留地」にたいする制限を緩和して、共有地を勝手に分配するのを黙認した。かれらは田畑の各小組、各戸への割当てをさかんにおこない、国有の土地を公然と「法的に」各心組へ固定的に割当てて、長期にわたって耕作させた。しかも、一世帯に二、三人分以上の労働力さえあれば、一つの心組をつくることが許されたのである。

 まさに、このような反革命修正主義路線の支配のもとで、ソ連の農村では、私有経済が氾濫し、社会主義経済が完全に瓦解し、両極分化が目ましに散化し、富んだものはますます富み、貧しいものはますます貧しくなって、資本主義がすでに全面的に復活しているのである。同志のみなさん、考えていただきたい。もし中国のフルシチョフの陰謀を実現させたなら、わが国の農村にはどのような光景があらわれたことであろうか。

社会主義教育運動をめぐっての大闘争

 一九六二年の秋、中国のフルシチミフに代表される資本主義勢力が社会主義にたいして気違いじみた攻撃をくわえていた重大なときに、毛主席はみずから主宰して、偉大な歴史的意義をもつ中国共産党第八期中央委員会第十回総会をひらいた。毛主席は、中国のフルシチョフの右翼日和見主義路線をするどく批判し、中国のフルシチョフがまきおこした資本主義復活の黒い風をくいとめた。

 この会議で、毛主席は全党、全国人民にたいして、「絶対に階級闘争を忘れてはならない」という偉大な呼びかけをおこない、「社会主義教育をおこなわなければならない」という偉大な任務を提起して、ブルジョア階級にたいするプロレタリア階級の全面的反撃の進軍ラッパを吹き鳴らした。それは耳をつんざく雷鳴のように、あらゆる化物をふるえあがらせた。

 毛主席の指示にもとずいてくりひろげられた農村の社会主義教育運動は、政治・思想戦線での革命であり、農村の社会主義革命が新しい歴史的条件のもとで深化、発展したものである。この偉大な革命的大衆運動をめぐって、毛主席のプロレタリア革命路線と中国のフルシチョフのブルジ三ア反動路線とはまたもはげしい闘争をくりひろげた。

 毛主席に代表されるプロレタリア革命路線は、二つの偉大なマルクス・レーニン主義の文献のなかに集中的にあらわれている。それは、すなわち毛主席がみずから主宰して制定した『中国共産党中央委員会の、当面の農村活動におけるいくつかの問題についての決定』(すなわち『十ヵ案』)と『農村の社会主義教育運動のなかでいま提起されているいくつかの問題』(つまり『二十三ヵ案』)である。

 毛主席のこの路線にしたがえば、「階級闘争というこのカナメをつかみ、社会主義と資本主義の二つの道の闘争というこのカナメをつかんで」「社会主義と資本主義の矛盾」を解決しなければならないのである。

 毛主席のこの路線にしたがえば、「労働者階級、貧農・下層中農、革命的幹部、革命的知識人およびその他の革命的な人びとに依拠し、九五パーセント以上の大衆を団結させ、九五バーセント以上の幹部を団結させることに注意をはらって」「いまわれわれに気違いじみた攻撃をかけている資本主義勢力、封建勢力と、真っ向から対決する先鋭な問争をおこなわ」なければならないのである。

 毛主席のこの路線にしたがえば、「今回の連動の重点は、資本主義の道をあゆむ党内の実権派を粛正することにある。」「資本主義の道をあゆむ実権派には、表に出ているものもいれば、裏にいるものもいる。」これらの実権派を支持しているのは、「上部では、人民公社、区、県、地方、ひいては省や中央の部門で仕事をしている、社会主義に反対する一部のものである。

 このマルクス・レーニン主義の路線は、中国のフルシチョフをかしらとする党内最大の資本主義の道をあゆむひとにぎりの実権派の急所をつき、かれらの資本主義復活の甘い夢を破滅させた。かれらは形勢不利とみて、反革命の二面的な手口をもちい、社会主義教育連動のスローガンをかすめとって、形は「左」だが実際は右のブルジョア反動路線をうちだした。

 そのとき、まっさきにとびだしたのは、ほかでもなく、資本主義の道をあゆむもうひとりの党内最大の実権派であった。この男は、一貫して中国のブルジョアとグルになって悪事をはたらき、農村の社会主義革命に反対してきた。農業協同組合を大幅にきりすてたときもかれは加わっており、「三自一包」を鼓吹したときもかれは加わっており、今回もかれは加わっていた。偉大な社会主義教育運動の『十カ条』が公布されて四カ月もたたないのに、かれは大急ぎで『後の十ヵ条』(草案)をデッチあげて、『十ヵ条』と直接対抗させた。

 この『後の十ヵ条』(草案)は、かんじんなものをぬきとるという反革命の手口をもちいて、二つの階級、二つの道の闘争という根本的内容をぬきさり、毛主席が『十ヵ条』のなかで明確に規定した社会主義教育運動の路線、方針、政策をすっかりすてさったものであった。それは、「具体的な政策の限界」をはっきりと画さなければならないという看板をかかげて、あらゆる方法で、農村の資本主義勢力を免罪し、広範な大衆の手足をしばりつけ、党内におけるブルジョア階級の代理人を極力かばっている。またそれは、「社会主義教育」の名目で、闘争の矛先を貧農・下層中農にむけている。資本主義の道をあゆむもうひとりの党内最大の実権派がこの大毒草をもちだしたのは、ブルジョア反動路線で毛主席がみずから点じた社会主義教育運動の革命の烈火を消しとめようとたくらんだからであった。これは、社会主義に反対し、資本主義を復活させようとすろかれの極悪な犯罪行為の一つである。

 つづいて、中国のフルシチョフは、その妻王XXを「蹲点」させ、悪臭プンプンたる「桃園の経験」をつくらせて、恥しらずにも、それを全国いたるところ吹きあるき、自己宣伝につとめた。しかも、かれはこの「経験」にもとずいて、『後の十ヵ条』(草案)を手直して、『修正草案』をつくりあげた。これは形は「左」だが実際は右のブルジョア反動路線の代表作であり、毛主席のブワレタリア革命路線に反対する反動的綱領であった。

 中国のフルシチョフが、この形は「左」だが実際は右のブルジョア反動路線をうちだしたのは、社会主義教育運動の指導権をのっとり、この偉大な革命運動をわき道にそらせようという陰謀をたくらんでいたからである。これは、中国のフルシチョフが貧農・下層中農に残酷な弾圧をくわえ、プロレタリア階級の手から権力を奪おうとした大陰謀であった。かれにあやつられていたある地方では、一時期、この形は「左」だが実際は右の路線の害毒をうけて、少なからぬ貧農・下層中農が「反革命分子」に仕立てあげられ、権力を奪われた。毛主席のプロレタリア革命路線にみちびかれた社会主義教育運動の偉大な成果は、このために重大な損害をこうむったのである。

 中国のフルシチョフは、社会主義と資本主義の矛盾というこのもっとも根本的な問題を極力回避して、社会主義教育運動の性質は、「四清と四不清の矛盾」だとか、「党内外の矛盾の交差、あるいは敵味方の矛盾と人民内部の矛盾の交差」だなどとさかんにまくしたてた。かれがこうした「目かくしの手」をもてあそんだのは、第一には、革命的人民にブルジョア階級にたいするプロレタリア階級の階級闘争を忘れさせ、プロレタリア階級独裁を忘れさせようとしたためであり、第二には、矛先を広範な貧農・下層中震と、広範なよい幹部と比較的よい幹部にむけて、党内の資本主義の道をあゆむひとにぎりの実権派が暴露されないようかばうためであった。これは、きわめて悪辣な陰謀である。

 中国のフルシチョフは、広範な革命的大衆と革命的脚部がほんとうに立ちあがり、毛主席のプロレタリア革命路線と党の方針、政策をつかんで、かれの手下どもをあばきだすようになるのを極度におそれた。そのため、かれは国民党の「訓政」という手段をもちだして、大衆を押さえつけ、革命的幹部に打撃をあたえ、運動をひっそりと活気のないものにして、階級闘争のフクをしっかりととざし、社会主義教育運動をおざなりにすませようとしたのである。

 中国のフルシチョフとその一味が二つの道の闘争を抹殺したのも、大衆を押えつけたのも、革命的幹部に打撃をあたえたのも、結局は、資本主義の道をあゆむ党内の実権派をまもり、かれら自身をまもるために、水をかきまわしてにごらせ、階級戦線を混乱させ、闘争目標をそらし、多勢のものに打撃をあたえようとしたからにほかならない。

 中国のフルシチョフの、この形は「左」だが実際は右のブルジョア反動路線は、社会主義教育運動を資本主義復活の軌道にのせる路線であり、プロレタリア階級独裁を瓦解させ、プロレタリア階級独裁をブルジョア階級独裁に変える路線であった。

 この路線はとびだしたとたん、広範な革命的大衆、広範な革命的幹部から排斥され、反対された。毛主席がみずから制定した『二十三ヵ条』というこの偉大な歴史的意義をもつ文献の公布によって、このブルジョア反動路線は破産を宣告された。毛主席のプロレタリア革命路線にみちびかれて、社会主義教育運動は偉大な成果をおさめた。農村の資本主義勢力は重大な打撃をうけた。人民公社はいちだんと強固になり、農村における社会主義の陣地はいちだんと強化された。これにつづくプロレタリア文化大革命は、農村の社会主義革命連動をさらに、まったく新しい段階へとひきあげたのである。

「私心とたたかい、修正主義を批判する」をカナメとして、農村における二つの道の闘争を最後まておしすすめよう

 わが国五億の農民は、偉大な舵手毛主席のあとにしっかりとしたがって、暗礁や浅瀬をさけ、邪風や迷霧にうちかち、社会主義の航路にそって、十八年にわたる輝かしい戦闘の航程をたどってきた。

 この十八年らいの農村における二つの道、二つの路線の闘争の歴史は、われわれにきわめてゆたかな経験をもたらした。そのなかでもっとも重要なものはつぎの諸点である。

 第一、「社会主義社会はかなり長い歴史的段階である。社会主義というこの歴史的段階においては、なお階級、階級矛盾と階級闘争が存在し、社会主義と資本主義の二つの道の闘争が存在し、資本主義復活の危険性が存在している。」農村では、打倒された地主や富農はその滅亡に甘んじないでつねに復活をたくらんでいるために、社会になおブルジョア階級の影響と旧社会の習慣の力が存在しているために、また小生産者の資本主義への自然発生的傾向が存在しているために、階級闘争は一貫してひじょうに複雑で、ひじょうに鋭く、歴史の転換期にさしかかるたびに、つねにきわめて激烈なものとなった。農村における社会主義革命の問題をめぐる、毛主席のプロレタリア革命路線と中国のフルシチョフのブルジョア反動路線との闘争は、こうした闘争の党内における集中的な反映にほかならない。広範な貧農・下層中農と革命的幹部は、社会主義の道を堅持するには、党内における二つの路線の闘争を最後までおしすすめ、中国のフルシチョフのブルジョア反動路線を徹底的に批判して、その害毒を完全に一掃しなければならない。

 第二、革命の根本間題は権力の問題である。農村における二つの道、二つの路線の闘争は、とどのつまり、プロレタリア階級独裁の強化とプロレタリア階級独裁の転覆との闘争にほかならない。プワレタリア階級独裁の新しい歴史的条件のもとで、階級敵はプロレタリア階級独裁の転覆というかれらの犯罪的な目的をとげるために、つねに腐食・侵食、分化・瓦解、ひきずりだし、もぐりこみなどの硬軟両様の手口をつかって、党内に自分の代理人をさがし求めようとする。党内の資本主義の道をあゆむひとにぎりの実権派は、広範な貧農・下層中農のもっとも主要な、もっも危険な敵である。中国のフルシチョフはかれらの大黒幕である。かれが農村でブルジョア反動路線をかたくなにおしすすめたことは、中国で資本主義の復活を実現させ、プロレタリア階級独裁をブルジョア階級独裁に変えようとするかれの反革命陰謀のきわめて重要な構成部分であった。われわれがもし党内の資本主義の道をあゆむひとにぎりの実権派に権力をのっとることを許したならば、もとの道へひきかえして、過去の苦しみをもう一度なめることになるだろう。

 第三、農業協同化が実現されてからも、経済戦線での社会主義革命はまだ終わってはいない。社会主義的集団所有割の強化と社会主義的集団所有制の破壊との闘争は、依然としてきわだって重要な問題である。「三自一包」をさかんにおしすすめることは、階級敵が社会主義的集団所有制を腐食、比解させるために用いる重要な方式の一つである。プロレタリア階級と貧農・下層中農は、プロレタリア階級独裁の強大な力を用いて、社会主義的集田所有制を強化、発展させ、ともに豊かになる道をあゆまなければならない。

 第四、広範な貧農・下層中農は、われわれが社会主義を建設していくうえでの農村における社会的基礎であり、農村でプロレタリア階級独裁を実現していくうえで依拠する力である。中国のフルシチョフは、農村で資本主義の復活を実現するために、つねに地主分子、富農分子、反革命分子、悪質分子、右派分子に依拠して貧農・下層中農に打撃をあたえるというブルジョア階級の階級路線を固持してきた。われわれは、それとは正反対の行動をとらなければならず、社会主義の全歴史的位時期にわたって、貧農・下層中農に依拠し、中農と団結するプロレタリア階級の階級路線を堅持して、社会主義の道を堅持する人びとの手に権力をしっかりとにぎらせなければならない。

 第五、「重大な問題は農民の教育である。」党の農村における「政治工作の基本的任務は、農民大衆にたえず社会主義思想をそそぎこみ、資本主義への傾向を批判することである。」ところが、中国のフルシチョフは農民の社会主義的積極性に必死になって打撃をあたえ、物質による刺激をさかんにおこない、資本主義への自然発生的傾向を極力誘発し、利用して、資本主義の復活に奉仕しようとした。これは、農民にたいする思想上の指導権を争奪するきびしい闘争である。広範な農民大衆と革命的幹部は、かならずプロレタリア階級の政治を前面におしだし、毛沢東思想による統率を堅持し、中国のフルシチョフの修正主義を思いきり批判すると同時に、ブルジョア階級の「私」とも思いきりたたかい、修正主義の根を一歩々々とりのぞいていかなければならない。

 十八年らい、中国のフルシチョフは、ブルジョア階級の反動的立場をかたくなに固持し、広範な貧農・下層中農を敵にまわして、撹乱、失敗、ふたたび撹乱、ふたたび失敗の道をあゆんできたが、今回のプロレタリア文化大革命で、とうとう完全に滅亡してしまった。農村の社会主義革命に対抗するかれの例のブルジョア反動路線も、いま歴史のゴミためのなかに掃きすてられつつある。

 農村における二つの道、二つの路線の闘争は、かならず最後までおしすすめなければならない。広大な農村のプロレタリア文化大革命は、かならず毛主席のさし示した方向にしたがって、最後までおしすすめなければならない。

 毛沢東思想の偉大な赤旗を、祖国の農村に高々とぴるがえそう! 永遠にひるがえそう!


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