富士山麓の嵐――反米闘争をつづける忍草農民を訪ねて

1968・4・18新華社ルポ


 富士山麓忍草村の英雄的な農民は、米帝国主義に占領されている山林や土地を奪いかえし、富士を米帝国主義と日本軍国主義の中国・アジア侵略の基地とさせないため、長期にわたって闘争を堅持している。

▽反米の赤旗は永遠にひるがえる

 忍草は、山梨県のとある村である。今年三月、中国の記者が訪れたとき、富士山麓の山腹にある忍草にはまだ雪がちらついていた。ちょうどこの白銀におおわれた富士山の北麓忍草の西南五キロほどにある米軍演習場の中央に一本の大きな赤旗が、雪の舞う中をひるがえっていた。赤旗の下には、かやぶき小屋の中で数人の婦人が坐り込み闘争をつづけていた。雨の日も風の日も、昼も夜も農民たちは毎日交替でここにやってきて坐り込みを行ない、駐日米軍の土地占領に抗議している。そしてこの闘争は現在すでに二百四十日余りつづけられている。

 最初からこの闘争に参加している天野、渡辺という二人の婦人は、中国の記者にこの小屋の英雄的な歴史を語ってくれた。

 昨年秋のある晩、米軍がまもなく北富士で演習を行なうことを急に知らされた忍草の農民は、さっそくパトロールの警官や米兵の目をかすめて演習場に入り、着弾地の中心にこの小屋を建て、さらに土地を守るこの赤旗をたてた。翌日、演習場に常駐している米軍と日本「防衛施設庁」の召使いどもはこの赤旗を発見し、あわてて三十数人の武装警官を繰り出して小屋を包囲し、中にいた三人の婦人に小屋をとり除き演習場から出ていくようせまるとともに、「これにそむくものは法に従って処罰する」とおどしをかけた。だが、これら反動警官のえたのは、「われわれは、われわれが先祖代々この土地で働き、生活してきたことしか知らない」、「富士山は米国のものではなく、日本のものだ」という力強い回答であった。

 反動警官はあれこれ卑劣な手投を使って農民たちの闘争を押しつぶそうとしたが、失敗に終わった。

 忍草の農民は反動派の弾圧にいささかもひるむことなく、勇敢にねばり強く闘争をつづけていった。

 米軍の演習日が近ずき、しかも演習場内の農民を追い出すことも補えることもできなかったため、焦り怒ったアメ公は日本警察の無能をののしり、とうとうみずから陣頭にたち、一隊の米兵を実然小屋の前にふみこませ、旗ざおを切り倒し、さらにたいまつに火をつけて小屋を焼きはらおうとした。英雄的な三人の婦人は、米兵に向かって断固たる闘争を繰りひろげた。婦人たちは「この強盗ども、忍草の農民はおまえらを絶対に許さんぞ!」と怒りをこめて非難した。このとき、村の農民も大急ぎでかけつけた。形勢不利とみたアメ公は、あわててたいまつを捨て、ジーブに飛び乗って逃走した。忍草農民の不滅の赤旗は再ぴ富士山麓にへんぽんとひるがえった。

▽ゆるぎなき闘争の道を歩む

 忍草の農民は自分の切実な体験を通じて、ゆるぎない闘争の道へ踏みだした。第二次世界大戦後、米軍は機関銃と大砲によって北富士の一万八千ヘクタールに及ぶ広大な山林と土地を強奪した。北富士演習場の米軍は農民たちが数十年来みずからの手で育てた広い森林と堆肥用雑草を大砲でめちゃめちゃにした。酒に酔っぱらった米兵がジーブを乗りまわし、村をわがもの顔にのし歩き、若い婦人に乱暴し、罪のない村民を殴り殺した。米侵略軍の残虐な犯罪行為は、農民たちの極めて大きな憤りを招いた。

 一九五五年六月二十日、忍草の農民は反米闘争の高まりをまき起こした。長雨がしとしとと降るその日の夜明け近く、農民たちは笠をかぶり、みのをまとい、長い柄の草刈鎌を肩にかつぎ、五十八歳の農民渡辺正春さんを先頭に、銃をもった米兵の警備する演習場になだれ込んだ。米兵はうろたえ、米軍の頭目はすっかり驚き、その日の演習を中止せざるを得なくなり、ハリコのトラの本性をさらけ出した。

 「六・二○」闘争は、忍草農民の反米闘争に新たな一ページを切り開いた。これ以後忍草の農民は毎年六月二十日をかれらの記念日に決めた。毎年この日には老農民たちが闘争の経験を語り、父や兄が切り開いたゆるぎない闘争の道を歩むよう若い世代に教育している。

▽闘争の中で鍛えられ、成長する

 「富士を中国侵略の基地にするな」、「富士をベトナム侵略に利用させるな」、これは忍草農民の集会場にかかげられた二本ののぼりに書いてあるたたかいの誓いのことばであり、忍草の農民が闘争の中でたえず自覚を高め、自分たちの闘争が土地を守るためだけのものでなく、米帝国主義のアジア侵略に反対する闘争でもあることを深く認識するようになったことを示している。

 一九六五年十月初め、米帝国主義がベトナム侵略戦争を拡大したまさにそのとき、駐日米軍当局は核弾頭を装備できる「リトルジョン」ミサイルの試射を東富士から北富士に向けて行なうことを決定した。

 忍草の農民は悪らつ極まりない米強盗に対して勇敢な闘争を繰りひろげた。米軍が実験用弾頭を装備した最初のミサイルを発射すると、憤激した数百人の農民が勇敢に演習場に突入し、米兵はあわてて引き揚げざるをえなかった。

 一九六七年七月には、米帝国主義に育成された日本の「自衛隊」が北富士で演習を行なおうとした。日本軍国主義が復活し、侵略の古い道を歩もうとしていることを知った忍草の農民は、「自衛隊」の演習を阻止するたたかいを組んだ。かれらは毎晩、演習場に入り、夜が明けるといたるところに野火をつけ、敵をかきみだした。かれらは反動軍隊・警察の陰謀ペテンを粉砕し、闘争を一ヵ月余りにわたって堅持し、そのため、「自衛隊」はついに大量の演習部隊を撤退せざるをえなくなった。

 忍草の農民は、米帝国主義が日中両国人民の共同の敵であることを闘争の中で深く理解した。忍草農民闘争の指導者の一人、「母の会」会長渡辺喜美江さんは中国の記者に、「中国人民は偉大な指導者毛主席の指導のもと、『愚公、山を移す』の精神で頭上にのしかかっていた敵をくつがえし、中国革命の勝利をおさめた。今日われわれ忍草の農民も、毛主席の教えに従い、『愚公、山を移す』精神でいささかも動揺することなく闘争を堅持すれば、最後にはかならず米帝国主義を追い出し、われわれの土地を取り戻すことができるのだ」と語った。


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