日本人民の反米の怒りの潮はつぎつぎと高まっている――米原子力空母の佐世保寄港反対闘争

1967・10・13人民日報新華社記者報道


 ここ十日間、佐世保を中心とする日本各地の人民は、米原子力空母「エンタープライズ」をはじめとする原子力艦隊の佐世保寄港に反対して、激烈な反米愛国闘争を繰りひろげた。この闘争は輝かしい勝利をおさめ、日本の革命的左派を中核とする日本人民の反米愛国闘争が勝利の道に沿って前進していることを示した。

▽ハリコのトラ米日反動派を暴露する

 毛主席は「すべての反動派はハリコのトラである。反動派はみたところ、恐ろしそうでも、実際には、なにもたいしたカはもっていない。ながい目でみれば、ほんとうに強大なカを持っているのは、反動派ではなくて、人民である」とわれわれに教えている。

 佐藤反動売国政府は、一方では日本民族の利益を売り渡して、米原子力空母を佐世保に寄港させながらも、他方では、「エンタープライズ」寄港に反対する日本人民の闘争を非常に恐れていた。佐藤政府は「エンタープライズ」の寄港に先だち、全国二十七都道府県から五千八百人の武装警官と二千人余りにのぼる私服を動員し、さらに二百八十台の放水車、装甲車および各種警察車を繰り出し、人口わずか二十五万人の佐世保に投入した。同時に、佐藤政府はかつて日本軍国主義者が戦時中に使ったファッショ的法律と同じようなものを公然と行使し、全国各地でいわゆる「事前捜査」を気ちがいのように行なった。警察当局の発表によると、一月十日から二十一日までの間に、全国で約五百人の愛国的学生と労働者が逮捕された。

 佐藤政府はとくに佐世保市民が全国各地の人民と連合することを恐れ、とりわけ、東京、大阪、京都などの愛国的学生が佐世保の闘争に参加するのを恐れた。

 一月十五日、佐藤政府は多数の武装警官を繰り出し、佐世保に向かおうとした東京の愛国的学生百三十一人を不当逮捕した。

 福岡では、宮本修正主義集団の協力をえた反動的な警官が、九州大学の学生寮に泊まろうとしていた東京、大阪、京都の学生を必死になって妨害し、さらに連日にわたって福岡駅を封鎖し、学生たちが佐世保に向かうのを妨害した。

 佐世保駅にはさらに多数の武装警宮と私服が網の目のように配置された。列車が到着するたびに、かれらはあわててかけまわり、旅客をじろじろ見わたしては、闘争に参加する愛国的学生をさがしまわった。

 だが、反米愛国の怒りの潮は、これら反動警官や私服によって阻止されるものではない。一月十七日早朝、東京、京都、大阪の青年学生千人余りは、長路を突破し、敵の野蛮な弾圧を一つまた一つと突き破り、封鎖線をつぎつぎと突破して、ついに闘争の前線佐世保にやってきた。

 愛国的な青年学生たちは、多数の警官を配置した駅の改礼口を避け、米軍専用の引き込み線に浴って、反米スローガンを憤りをこめて高らかに叫びながら米軍基地に向かって進んだ。米軍基地に近い平瀬橋で、青年学生たちはかれらの倍もの頭数をそろえた武装警宮の弾圧を受けた。だが、勇敢な青年学生は高圧放水や催涙ガスの中をひるまず前進し、反動的な警察と断固たる闘争を行なった。突然、一人の青年が英雄的な南ベトナム解放民族戦線の旗をかかげ、「突っこめ!」と声高く叫び、多数の学生がこれにつづいて橋に向かって突進した。こうして、すさまじい反米愛国闘争の幕がきって落とされた。

 日本人民のこうした闘争に肝をつぶしたワシントンの軍部の頭目どもは、佐世保に向かって航行中の「エンタープライズ」に速度をおとすよう命令し、当初の計画より一日おくらせて、十九日に入港させた。

 その後、米政府はその狼狽ぶりをおおい隠すため、「硫黄島海域がシケのため、エンタープライズの佐世保到着がおくれる」などとでたらめな発表を行なった。だが、日本の気象台はその日の気象通報で、「太平洋は穏やかである」とのべていた。米原子力空母が恐れたのが海上のシケではなくて日本人民の反米愛国の嵐であったことは、非常にはっきりしている。

 十九日午前、「エンタープライズ」は佐世保湾に入った。艦上の米軍将校と水兵は取材にきた日本の記者に、「佐世保に上陸しても、われわれの身の安全は保障されるだろうか」と心配そうに尋ねた。

 事実、かれらを待ち受けていたのは怒りに燃えた佐世保であり、戦闘的な佐世保であった。日本の愛国的人民は反動警察の弾圧をけって、何日かつづけざまに抗議の集会やデモを行なった。米水兵らは怒りに燃えた大衆の阻止を受けた。これに驚いた米軍基地当局は、やむなく「エンタープライズ」搭乗員の外出禁止令を出した。

 一月二十一日午後の闘争の高まりの中で、八十人余りの勇敢な愛国的学生は佐世保川を渡って米軍基地のヘイを乗り越え、基地に真紅の赤旗をうち立てた。基地内の警官と米軍憲兵がこれを見つけたのは、それから十分以上も過ぎてからで、その間、赤旗はへんぽんとひるがえっていた。

 人民大衆は熱烈な拍手を送り、米日反動派はあわてふためいた。日本のブルジョア新聞「東京新聞」はこの事件を「戦後繰りひろげられた米軍基地反対闘争は少なくないが、警察の厳重な警戒を突破して基地に侵入したことは、きわめてまれなことである。警察当局も、これが非常に大きな打撃であることを認めている」と論評した。「エンターブライズ」の佐世保停泊中に警備に当った一人の反動警官の頭目はあわてふためきながら、米軍当局に許しを乞い、「学生が『ゲリラ戦術』をとったので基地にはいられてしまった。非常に遺憾である」と平身低頭した。

▽反米愛国統一戦線の拡大

 毛主席は、「この数年来、米帝国主義の侵略と抑圧、支配に反対する日本の各階層人民の愛国の統一戦線はたえず拡大している。これは日本人民の反米愛国聞争が勝利するもっともたしかな保証である」とわれわれに教えている。

 「エンタープライズ」寄港反対闘争の中で革命的左派を中核とする日本人民の反米愛国統一戦線はその強大な威力を示した。

 日本の真のマルクス・レーニン主義者と広範な革命的大衆は、佐世保での勢い盛んな闘争に直接加わったほか、さらに東京、大阪、京都、神戸、山口などで抗議行動を展開した。

 佐世保闘争には、各地の愛国的学生のほか、西日本の長崎、福岡などから二万人余りの労働者が参加した。福岡県の日中友好協会(正統)の会員も十八日とニ十一日、二度にわたって佐世保に行き、現地の闘争に参加した。

 十八日午後、愛国的学生が佐世保橋で米軍基地の警備についていた反動警官と真向うから対決するたたかいを進めていたとき、多数の武装警官が愛国的学生の背後にこっそり迂回し包囲しようとした。この時、福岡県の革命的労働者と日中友好協会(正統)会員は、戦闘の赤旗を高くかかげ、愛国的学生の隊列の後について、襲いかかろうとした警官をくぎづけにし、敵をけんせいした。この隊列には婦人や老人がかなりいたが、かれらはまったく恐れをみせなかった。かれらの活動は愛国的学生たちを心から感動させ、さらに佐世保市民の称賛をあびた。

 佐世保の市民もつぎつぎと街頭に出て、各地の愛国的労働者と学生の闘争を支援した。二十一日、二万人余りの市民が闘争の現場に集まった。市民の中には、警官に石を投げつけ、「反動警官かえれ」のスローガンを高らかに叫ぶ人もいた。東京、福岡など各地の人びとは、闘争で負傷したり逮補されたりした愛国者のためにカンパをした。

 日本の広範な革命的人民のこうした反米愛国闘争の行動ときわだった対照をなしたのは一握りの宮本修正主義集団がこの闘争で裏切り行為をしたことである。真の反米かそれともニセの反米か、これは革命派とこれら裏切り者とを区別する重要な点である。

 宮本一味は、口先きではさかんに「反米」をとなえているが、佐世保での十八日と二十一日の大規模な闘争に際してはこっそり逃げ出した。こうした裏切り者どもは勇敢な愛国的学生を「破壊分子」「挑発者」とよび、そのうえ反動的な警察とぐるになって愛国的学生を弾圧した。二十一日、日共修正主義分子は闘争の現場でヘルメットと棍棒で武装した暴徒を指図して、愛国的学生を襲撃させようとした。だが、この裏切り行為を見ていた佐世保市民は憤りにもえて抗議し、かれらの手から棍棒を奪い取った。

 佐世保のある店員は、「日共修正主義分子の佐世保での行動は、かれらの反対しているのが米原子力空母でもなければ、米帝国主義でもなく、愛国的学生と革命的人民であることを物語っている」とのべた。

 八幡製鉄のある労働者は、「日共修正主義分子は日本革命の裏切り者であり、米帝国主義に反対する闘争を最後までやりぬくためには、日共修正主義分子を打倒しなければならない」とのベている。

 米原子力空母の寄港に反対する日本人民の今度の闘争は、革命的人民の志気を大いに高め、米日反動派と宮本修正主義集団の威風を地にたたき落とした。この闘争は、日本の革命的左派を中核とする反米愛国闘争がより大きく発展するであろうことを示している。まさに偉大な指導者毛主席が指摘しているように、「日本民族は偉大な民族である。米帝国主義が長期にわたって頭上に君臨するのを日本民族は絶対に許すはずがない」、「日本人民はかならず米帝国主義を自国の領土から追い出すことができ、独立・民主・平和・中立を求める日本人民の願いはかならず実現するにちがいない」。


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