宮本集団の裏切り

1967・8・6人民日報評議員論文


 最近、日共宮本修正主義集団はブルジョア新聞の記者に談話を発表し、中国駐在の日共代表砂間一良および北京駐在の「赤旗」特派員紺野純一を呼び戻すことを発表するとともに、恥知らずにも、中国側が「さまざまな手段に訴えて」砂間と紺野に対する「圧力を強め」、かれらに「迫害」を加えているとデマをとばしている。これは、かれらが米帝、ソ修、佐藤反動政府と緊密に呼応して、計画的に引き起こした新たな反中国事件である。

 宮本修正主義集団と下心を持った一部のものが砂間一良の中国駐在間題をめぐって、反中国を騒ぎ立てるにちがいないということは、われわれが早くから予想していたところである。しかし、かれらの反中国の醜い正体をすっかりさらけ出させ、この間題をめぐる反中国の口実をかれらから奪い取り、それによって、日本人民に宮本集団の反革命修正主義の正体をはっきりと見きわめてさせるために、われわれは砂間を追放する措置をとらなかったのである。そして、砂間と紺野が中国において反中国活動を行なっていたにもかかわらず、われわれは依然として、かれらに中国の客人としての然るべき待遇を与えていたのである。

 砂間の中国駐在問題をめぐって、下心をもった、一部のものが「左」の姿でたちあらわれ、砂間を追放しなかったことについてわが党を攻撃したことをわれわれは知っている。かれらはわれわれを挑発して、宮本集団のために反中国のもとでをかせごうとたくらんだのである。われわれはかれらの下心を見破ったため、相手にしなかった。そこでわれわれは宮本集団になすがままにさせておき、一体かれらがこの問題でどのような腹黒いことをやるか見届けようとした。

 はたして、宮本集団はいま、砂間と紺野を呼び戻すことを反中国の切礼として持ち出したのである。そして、またもあらゆる反中国の英雄どもと共同行動をとり、米帝、ソ修、日本反動派のおほめにあずかろうとしている。

 日修指導集団が、この反中国事件を引き起こしたのはなにも偶然のことではない。かれらは長いあいだ、米帝、ソ修、各国反動派の反中国大合唱のあわれな伴奏者の役をつとめてきた。日修の新聞、雑誌は反中国の記事をつぎからつぎへとのせてきた。宮本、野坂は身をのり出して、反中国の演説を大いにぶっている。かれらは中国共産党と中国人民、中国人民の偉大な指導者毛主席、偉大な毛沢東思想、中国のプロレタリア文化大革命をあくどく中傷し、攻撃している。

 帝国主義に反対するにはかならず修正主義に反対しなければならない。中国に反対すれば、かならず米帝に投降することになる。これは現代の国際政治活動のなかで無数の事実によって実証された、くつがえすことのできない真理である。米帝国主義に反対しようとするものは、米帝国主義に奉仕するソ修指導集団に反対しないわけにはゆかない。毛沢東思想の偉大な赤旗を高くかかげ、断固として世界革命を支持している、社会主義中国に反対しようとするものは、かならず米帝国主義とその共犯者のソ連修正主義に投降することになる。宮本集団のここ数年来の変化はまたもこの真理を実証したのである。

 宮本集団は、口を開けば米帝国主義反対を唱えている。ではなぜきみたちはソ連修正主義とぐるになって、国際的にも日本国内においても、革命的人民の反米闘争を破壊しているのか、なぜきみたちはやっきになって、米帝の第一番の共犯者ソ修指導集団を反米勢力にまつり上げているのか。ずばりと言えばきみたちは米帝国主義を恐れ、ソ連修正主義を恐れ、戦争を恐れ、革命を恐れているのである。きみたちの反米はニセものである。ソ修の米帝に対する投降をおおいかくし、それによって米帝に対する自分たちの投降までおおいかくそうとするのが真のねらいである。

 宮本集団は、口を開けば反米、ベトナム支援の「統一行動」をさけぶ。ではなぜきみたちは、断固として米帝国主義に反対し全力をかたむけてベトナム人民の抗米救国戦争を支持している社会主義中国に、気ちがいじみた攻撃を加えなけれぱならないのか。米帝も中国に反対し、ソ修も中国に反対し、佐藤政府も中国に反対し、インド、インドネシア、ビルマなど各国の反動派も中国に反対している。一体きみたちの反中国とこれらの反中国とにどういうちがいがあるのか。なんのちがいもない。きみたちとかれらは同じ穴のムジナにすぎない。きみたちがまくしたてている「統一行動」とは、国隆的な妖怪変化が一切合切、連合して反中国、反共、反人民、反革命を行なう「統一行動」なのである。

 宮本集団は口を開けば、「自主独立」を唱え、「事大主義」反対を叫ぶ。ではなぜきみたちはソ修指導集団を公然とかつぎだし、その太鼓もちになっているのか。きみたちが実行している路線は、なぜ、ソ修が推し進めている「平和移行」の議会の道とそっくりなのか。きみたちが中国共産党を攻撃し、中傷するときに使うでたらめな論調は、なぜ、ソ連修正主義のそれとそっくり同じなのか。これはどういう「自主独立」なのか、きみたちこそ本物の事大主義者なのだ。きみたちが「事」えているのは、ソ連修正主義の「大」である。きみたちの本部は、ソ修の日本における出店にすぎないのである。

 宮本集団は口を開けば、中国の「大国主義」に反対し、中国共産党は自己の路線を人に押しつけるなどと言っている。冗談ではない。きみたちがどんなしろものなのか、われわれがまだ知らないとでもいうのか。われわれがマルクス・レーニン主義を修正主義者仲間のきみたちに押しつけるなどということが、どうして考えられるのか。事実きみたちは、百方手をつくしてわれわれを、きみたちの修正主義観点に無理矢理賛成させようとし、なん回となく、きみたちと一緒にソ修との「統一行動」なるものをわれわれにとらせようとしたのだ。われわれは、マルクス・レーニン主義の原用的な立場を堅持して、きみたちのこうした一連の修正主義のしろものに反対しているのである。これが「人に押しつける」ことなのだろうか。これが「大国主義」なのだろうか。自分の修正主義を人に押しつけてその目的を達しなかったものだけが、中国共産党のこのマルクス・レーニン主義の立場を、「人に押しつけようとする」「大国主義」だなどと中傷するのである。

 宮本集団は口を開けば、日本帝国主義の中国侵略に反対する日本共産党の「伝統」を「継承し、発展させ」なければならないと言う。日本共産党はたしかに日本帝国主義の中国侵略に反対した栄えある伝統をもっている。しかし、日本帝国主義の反中国をたすける伝統はもとから持っていなかったのである。現在、きみたちは共産党の旗印を振りかざして佐藤政府の反中国の行列に加わっている。これこそ新しい一つの「創造」なのである。きみたちは日本共産党の国際主義の革命的伝統にそむいている。きみたちが継承しているのは日本軍国主義の反中国の伝統である。

 宮本集団の気ちがいじみた反中国は、日本の広範な人民の志と願いにまったくそむくものである。甘んじて米帝、ソ修、佐藤政府の反中国の手先になり、日本人民の革命事業をまったく裏切ったかれらは、つまり、現代の労働運動の新しい裏切りものの行列のなかにころがり込んでしまったのである。

 現在、真にマルクス・レーニン主義、毛沢東思想を信ずる日本の革命勢力は、すでに宮本集団に大々的に造反しはじめている。かれらの力は急速に発展し、強大になりつつある。これらの勢力に日本民族の大きな希望がかけられている。

 われわれの偉大な指導者毛主席は、「中国人民は、日本人民がかならす米帝国主義者を自国の領土から追い出すことができ、独立・民主・平和・中立をもとめる日本人民の願いがかならす実現するに違いない、とかたく信じている」とのべている。

 中日両国人民の友好的な偉大な歴史の流れと中日両国のマルクス・レーニン主義者の革命的な戦闘的友宜は、いかなる勢力によってもうち破られるものではない。中日両国人民は、帝国主義に反対し、現代修正主義に反対し、各国反動派に反対する偉大な闘争のなかで、いっそうかたく団結して、勝利のうちに前進するであろう。


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