「善隣会館事件」の北京放送報道

(ANSによるもの)


 ▽新華社通信が東京から伝えるところによれば、「日本共産党」修正主義分子は、日本の警察の協力のもとに最近連続して暴徒を組織し、東京の華僑青年会館、善隣学生会館になだれこみ、日本に住む華僑の青年と日中友好を守る日本の友人を殴打するという重大な流血事件を作り出した。この反中国の事件は、完全に計画的、組織的に行なわれたものであり、日本の修正主義分子の反革命の本性があからさまに暴露された事件である。

 ▽善隣学生会館はもともと中国の財産である。しかし、中国と日本との間の国交がまだ回復されていないために、一時理事会を作ってその管理に当たっているもので、日本の著名人、中島健蔵氏、穂積七郎氏らがその理事になっている。この理事会の規定にもとづいて会館の三階と四階を華僑の青年の宿舎にあて、一階と二階を真の日中友好と文化交流を促進するための活動の場所とすることになっており、一九六四年から日中友好協会がここで事務をとっていた。去年の秋、日中友好運動に本当につくしている日本の友人は、日中友好協会(正統)本部を作った。しかし、一握りの日本の修正主義分子は、相変わらずもとの日中友好協会の事務所にいすわり、そこを反中国の拠点としていた。彼らは中国人民の最も敬愛する偉大な指導者毛主席をあくどく誹謗し、中国のプロレタリア文化大革命と紅衛兵を攻撃した。こうした状況にもとづいて、愛国的な華僑がこのニセの日中友好協会に会館からほかへ移るよう要求した。これは道理にかなった正しい要求である。しかし、日本の修正主義分子は、華僑の正当な要求を受け入れないばかりか、反対に、会館の中でますますひどい挑発をしかけてきた。

 ▽二月二十八日、ニセの「日中友好協会」の暴徒は重大な流血事件を作り出した。この日の深夜十一時、彼らは華僑の学生が自分たちの宿舎にはり出した大字報を不法にも破りとったのである。これをとがめた華僑の青年彭忠道さんを殴りつけ、頭部に傷をおわせた。また、その他の華僑の青年が事件に対する抗議をニセの日中友好協会に提出すると、日本の修正主義分子は六、七十人の暴徒を繰りだして会館におし入り、これらの青年を殴打し、また「チャンコロをぶち殺せ」といった反中国のスローガンをヒステリックに叫んだ。

 ▽日本の修正主義分子のこうした気ちがいじみた反中国の暴力行為は、愛国的な華僑と日本人民にこの上ない憤りをまき起こした。三月一日午後六時、華僑の青年、日中友好協会(正統)本部、それに各友好団体、友好貿易商社、ジャーナリズムの代表、およぴ労働者、市民らの二百人余りが善隣学生会館で集会を開き、日本共産党修正主義分子が計画的に作り出したこの重大な反中国の事件に強く抗議した。

 ▽そしてその日の夜、会館に住む華僑の学生が「偉大なカジ取り毛主席」などの革命歌を歌い、隊伍を組んでニセの日中友好協会に抗議文を手渡しに行った。その時、ニセの「日中友好協会」の人びとは門を閉じて抗議文を受けとることを拒絶する一方、日本共産党中央にこのことを知らせた。夜の八時半になると、日本の修正主義分子の宣伝力ーが会館の近くにやってきた。これにつづいて多くの暴徒がぞくぞくとかけつけ、夜中の十二時には会館を包囲する暴徒の数は、四百人余りに達した。彼らは皆白い腕章をつけ、反中国のスローガンを叫んでいた。これと同時に、佐藤政府も多数の警官をくり出し、会館をとり囲み、暴徒のために「加勢」した。

 ▽二日の朝から深夜にかけて、日本の修正主義分子は、たえず暴徒を組織して会館におし入り、華僑の青年を狂暴に殴打した。朝の七時には、白い腕章をつけた二十人の暴徒が会館になだれこみ、宿直に当っていた四人の華僑の青年に気違いのように襲いかかると、殴る、けるの暴行を働き、華橋の青年王俊英さんと王政明さんに重傷を負わせた。このあと暴徒は、ニセの「日中友好協会」の事務室にかくれこんだ。殴打された華僑の青年がニセの「日中友好協会」に厳重に抗議すると、あらかじめその事務所にかくれていた四十人余りの暴徒がまたもとびだしてきて華僑の青年を野蛮にも殴りつけた。

 ▽二日の午後一時半から二時半にかけて、日本共産党修正主義分子は、ふたたびヘルメットをかぶり、鉄棒やこん棒を手にした暴徒をふた手にわけて会館におし入らせ、会館内の華僑青年や華僑青年の応援にかけつけた日本の人びとを殴打した。また午後四時にも、日共修正主義分子はニセの「日中友好協会」事務所にひそんでいたヘルメットをかぶり、こん棒を手にした暴徒数十人を指図して、気ちがいのように華僑青年を襲わせた。二日のこうした驚くべき事件で、日共修正主義分子の指揮する暴徒は、華僑青年と日本の人びと数十人を負傷させた。これら負傷者のうち、多くの人は、頭蓋骨が陥没するほどの傷を負わされた。このうち華僑の青年三人と日本の友人四人の傷は、特にひどく、華僑青年の劉道昌さんは脳震とうをおこし、腹部にも重傷を負って意識不明となった。また中華書店に働く華僑青年任政光さんは殴打により、口から血を吐き、全身に傷を負って意識不明となった。日本の友人近野省三さんも鉄製の凶器で殴られ、頭蓋骨骨折の重傷を負い、やはり意識不明となった。

 ▽しかし、毛沢東思想に育まれた華僑青年と日本人民はあなどれるものでもなければ、おどかされるものでもない。こうしたファッショ暴力行為に直面しても、華僑青年と日本人民は、恐れを知らぬ精神を発揮し、日共修正主義分子に対し、勇敢でねばり強く、暴力に抵抗し、自由のための闘争を進めた。

 ▽この人たちは、会館の廊下でスクラムを組み、胸を張り、「偉大なかじ取り毛主席」などの革命歌を歌い、また真紅の毛主席語録を手に持って、胸を張り、「決意を固め、犠牲を恐れず、あらゆる困難を克服して勝利を闘いとるようにしなければならない」という毛主席の言葉と、「全世界人民は団結して、米侵略者とそのすべての手先を打ち破ろう」という毛主席の言葉を声をそろえて朗読した。また少しの恐れも見せず闘志に溢れて、「ニセの『日中友好協会』は会館から引きあげろ」というスローガンを声高らかに叫んだ。殴られ、傷をうけた数十人の華僑青年と日本の友人は、闘いの場を離れず、自衛の闘いを堅持し、革命家としての英雄的な気概を示した。

 ▽こんどの反中国の流血事件は、完全に日共修正主義分子が組織的、計面的に進めたものである。日本共産党の多くの指導的幹部が陣頭に立って指揮をとり、策動して、公然と暴徒や日本の警察と達絡をとっていた。一日深夜、日共国会議員である松本善明は、華僑青年を包囲している暴徒に向かって「これは長期戦だ。いつでもたたかえる準備をしておくことが必要だ」といっていた。二日になって、暴徒が大がかりな暴行を働いたとき、日共中央幹部会員候補の内野竹千代と高原晋一、国会議員の岩間正男、松本善明、日共本部員橋本広彦、法規対策部長青柳盛雄、それに日共東京都議会議員団長梅津四郎らが相ついで会館の付近に姿をあらわした。二日午後四時、廖承志事務所東京駐在連絡事務所の首席代表孫平化氏が、善隣学生会館に赴き、日共の暴徒に殴られ負傷した華橋の青年と日本の友人を見舞ったとき、梅津四郎は気ちがいじみた様子で日本の警察署長と日本のブルジョア新聞の記者に対し、「孫平化が来たが、何ということはない、そのまま殴ったらよい。孫平化をやっつけたところでなんでもない。ここは日本の領土だ……」などということまでいった。これこそ日共修正主義分子の反中国のみにくい本性を赤ららに暴露したものである。

 ▽今度の反中国流血事件で、佐藤政府の警察当局は日本の修正主義と非常に緊密に協力しあっていた。彼らは、日共の指導幹部が会館に出入りするのを保護したし、暴徒が華僑の青年に攻撃をかけるのを公然と助け、また日共修正主義が罪をのがれるのを助けるためあらゆる手を打った。二日朝暴徒が会館におし入って暴力行為を働いたとき、一部の日本の警察官は、事件の真相を「調査」するなどと称して会館に入りこみ、暴徒に殴られ負傷した王俊英さんを救急車で富坂警察署に送りこみ、王俊英さんに警察当局の質問に従って殴打された経過を話させ、王俊英さんをだましていわゆる「調書」に判をおさせようとした。彼らは、これによって暴徒をかばおうとしたのである。しかし王俊英さんは、「調書」に判をおすことを拒絶したので、彼らのこの陰謀は実現できなかった。

 ▽日共修正主義分子が日本の反動派と結託して反中国の流血事件を引き起こした犯罪行為は、日本の人民に反面の教育材料を提供した。東京の中国語研修学校の校長浅川謙次氏は、「日共修正主義分子はすでに全く行きづまってしまったために、彼らはファッショ的暴力行為によって滅亡の運命からのがれようとはかったのだ」とのべている。

(「赤旗」1967年3月19日)

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