偉大な旗手、恐れを知らぬ戦士
――江青同志の革命的文芸活動の主要行動記録


暮色蒼茫看勁松   暮色蒼茫として勁松を看る
乱雲飛渡仍従容   乱雲飛び渡り なお従容
天生一個仙人洞   天生一個の仙人洞
無限風光在険峰   無限の風光 険峰にあり

 数十年来、われわれの敬愛する江青同志は、終始一貫して中国のフルシチョフ及びその文芸界における代理人ときわめて困難な闘争をすすめてきた。一貫して毛主席のプロレタリア階級の文芸革命路線を守り、堅持し、逆流にさからい、妖風に立ちむかい、悪浪と戦ったことは一人のプロレタリア階級の革命家としての誇りと気力と腹がまえを充分に示している。史上空前のプロレタリア文化大革命において江青同志はまたしてもその先頭に立ち、劉少奇、ケ小平、陶鋳の黒い司令部や反革命野心家、陰謀家、右派分裂反党小グループの楊成武、余立金、傅崇碧を打ち砕く闘争の中で、反革命二面派の関鋒、王力、戚本禹を暴露する闘争の中で、不朽の歴史的功績をうちたてた。

 江青同志はたんに文芸戦線のみならず、政治の舞台でもプロレタリア階級の恥ずかしくない輝ける旗手であり、恐れを知らぬ戦士である。

 死を誓ってプロレタリア文化大革命の勇敢な旗手、江青同志を守れ。

(「江青同志論文芸」)編者しるす

 早くは三十年代、江青同志は断固として毛主席の革命路線の側に、文化革命の旗手魯迅を代表とする革命文芸陣営の側に立ち、あれらの文壇の妖怪、陳腐な者ども、漢奸の狆に対し、王明を代表とする投降主義路線に対し、周揚、王実味のやからの三十年代の反革命文芸の黒い糸に対して不撓不屈の闘争を行なった。

 抗日戦争の時期、延安で江青同志は毛主席の指示により、京劇(当時は "平劇 "といった)革命に重大な歴史的意義をもつ最初の試みを行なった。林彪同志の直接指揮した平型関の大戦を題材とした革命的現代京劇「平型関」などを演出したことがあった。党内のブルジョア階級の代理人は、江青同志のこの創挙をきわめて恨み、胸中に不満を抱いていた。一九五六年になって、反革命修正主義分子田漢はこれを「誤った路線であり、否定せねばならない」と罵りを加えた。

 一九四九年、全国は解放され、中華人民共和国が成立した。わが国は社会主義革命の段階に入った。劉少奇を代表とする党内の資本主義の道を歩む実権派は、各方面から「新民主主義の秩序を強化せよ」と極力宜伝し、中国を資本主義の方向へ推しやろうと企てた。

 劉少奇は天津で「封建主義を宣伝しても恐しくはない」、「 "四郎、母をたずねる "(四郎探母)は上演してもよい」と云った。また「新間、書籍、演劇、映画に対する審査の基準をゆるめねばならない」と吹きまくり、封建主義、ブルジョア階級の文芸のために社会主義の文壇を開放し、氾濫させた。

 江青同志は劉少奇のやからとするどい闘争をくりひろげた。彼女は「遊竜戯鳳」「捨玉金蜀」などの悪い劇の上演を禁止し、さらに適宜論文を書いて梅蘭芳の京劇革命に反対する誤った主張を批判した。

 一九五○年三月

 反動的映画「清宮秘史」が北京、上海などの各地で上映され、新聞紙上で大いにもちあげられた。毛主席は「清宮秘史は売国主義の映画であり、批判しなければならない」と厳粛に指摘した。これに対して劉少奇は「この映画は愛国主義的なものだ」といった。

 江青同志は毛主席の革命路線を堅持し、数度にわたって「清宮秘史」を批判しなければならないと提案した。陸定一、胡喬木、周楊などは、「劉少奇がこの映画は、愛国主義のものであると認めた」ということを盾にとって、毛主席の指示に懸命に低抗した。

 江青同志は真理を堅持し、大衆討議にかけ、言葉きびしく、こうした反動的で、でたらめな論法に反論し、断固として「清宮秘史」を批判しなければならないとした。

 七月十一日

 映画指導委員会が成立し、江青同志は委員となった。この委員会の仕事の中で江青同志は陸定一、胡喬木、周揚などと断固とした闘争をおこない、毛主席の革命的文芸路線を守った。

 十二月

 ニセの "中国映画製作所 "では、夏衍、干伶などの指導のもと、未完成の反動映画「武訓伝」の撮影を完成し、周揚の審査を経て上映を決定した。封建主義、ブルジョア階級の代表的人物が続々登場してこれをもち上げた。翌年四月、単に北京、天津、上海の三市だけの新聞に掲載された賛辞は全部で四−五○編にもなった。

 この時期、映画「栄誉は誰れのものか」(栄誉属干誰)が完成した。

 この映画はソ連式の車両の入れ替えをやっている鉄道局長に栄誉があるよう宣揚し、中国共産党と毛主席の指導のもとで偉大な創造を行なっている中国人民を否定した。

 毛主席はこの映画を批判した。江青同志もまさか栄誉がこの種の人々のものではありますまいと語った。

 一九五一年二月

 毛主席は適切に「武訓伝」の反動性を指摘した。江青同志は「武訓伝」はブルジョア階級の改良主義的な反動映画であり、批判しなければならない、と周揚に告げた。周揚は「改良主義が少しあるのがどうしてそんなに悪いのか」と鼻息を荒くしてわめいた。

 一九五一年五月二十日

 毛主席は自ら「人民日報」のために社説をかき、「映画『武訓伝』についての討論を重視すべきである」を発表した。毛主席は「武訓伝」の反動性を厳粛に指摘し、かつ、文芸界であのように熱狂的に「武訓伝」をもちあげる反革命の頭目をきびしく叱責し、「文化界の思想混乱はこの程度にまで達したのだ」と語った。これに対して胡喬木らのやからは依然としてさまざまな低抗を行なった。

 七月二十三日〜二十八日

 「人民日報」に「武訓の歴史調査記」という文章が連載された。これは江青同志が毛主席の指示によって自ら専門調査団を組織し、山東堂邑(山東省邑県)一帯で周揚が派遺した鐘店斐らと断固たる闘いを行ない大量に、広範に、綿密な調査を進めた結果であった。

 この毛主席自ら筆をとって修正を加えた「調査記」は、動かせない事実にもとづいて、武訓というこの大地主、大債権者、流民の頭目の反動的な凶悪な実体を暴露し、今回の大論争の結論となった。

 七月二十八日

 江青同志は毛主席の文芸路線にしたがって、映画指導委員会に映画工作関係者は長期にわたって労働者・農民・兵士の中に深く入るべきだと提案した。

 彼女は「劇作者が現在深く生活の中に入る方法には間題がある。少しばかり生活を観察しただけで、すぐ戻ってきて書いている。これでは血の通った作品は書けない」と語った。

 江青同志はまた、当時の映画製作のよくない傾向を批判し、「栄誉は誰のものか」は歪曲があり、「人民の戦士」は改めなければならない、それは悲観と失望の気持を表現しているからと指摘した。

 彼女はまた「大きいものばかりやってはいけない、大きいもの、小さいものの両方に配慮すべきである」と語った。江青同志は映画批評について重要な意見を発表した。彼女は「批評では境界線をはっきりと引かねばならない。なにが革命的で、なにが反革命的であるかを区別しなければならない」と指摘した。彼女は「准海戦役」のような重要作品が力を持つようになることを希望した。

 九月一日

 上海私営映画製作所が大量の有害な作品を出したことや周揚、夏宿らの人たちの階級的投降主義に対し、江青同志はするどく次のように指摘した。

 これらの製作所の作品は普通の商品ではなく、千万人の思想に対して作用を及ぼす映画である。だから私営の会社に決してこのようなことを続けさせてはいけない。映画の製作は必ず党の直接の指導の下におき、断固として毛主席の文芸の方向――労働者・農民・兵士に奉仕する――を貫徹しなければならない」

 九月

 党中央宣伝部のある会議の席上、江青同志は周揚らがブルジョア階級の反動的立場を堅持し、「武訓伝」批判を拒んでいることに対して鋭い批判を行ない、周揚が大地主の出身で、思想は右傾していると指摘した。周揚は江青同志が断固として毛主席の革命路線を貫徹し、実行していることを極度に憎み、流言飛語をばらまき、江青同志がいると "仕事がやりにくい "などといった。

 一九五二年

 武訓問題専門調査団が北京に帰り、江青同志は「調査した林料によって、直ちに京劇 "宋景詩 "を改額せよ」と指示した。しかしこの脚本はできあがるやいなや周扮らによって苑殺されてしまった。

 十月

 江青同志の配慮と指導のもと、上海映画製作所は毛主席の偉大な戦略思想を表現したすぐれた軍事物語映画「南征北戦」を完成した。江青同志は一再ならず "遼瀋戦役 " "准海戦役 "のような重大なテーマの創作を組織するよう提案した。しかし、みな周揚、陳荒煤らの低抗にあい、かれらによって "大きいばかりで、役立たず "と罵られた。

 一九五四年九月

 毛主席は自ら、命平伯の「紅楼夢研究」を代表とするブルジョア階級の唯心論批判を行なった。九月中旬、江青同志は毛主常の指示を携えて、自ら「人民目報」編集都に赴き、毛主席が、「 "紅楼夢簡論 "及びその他について」という論文を極めて重視していることを説明し、「人民日報」に転載するよう求めた。周揚、郡拓一味はこの転載を拒み、公然と毛主席の指示に対抗し、ブルジョア階級反動派の "権威 "を保護した。

 一九六二年

 江青同志は毛主席の指示にもとづき、自ら親しく劇場に赴ぎ、大量の精散な調査研究をおこない、毛沢東思想で一千三百余の京劇の劇自を審査した。そうして「当面の劇目は混乱しており、毒草が叢生している――ときびしく指摘し、上演禁止の劇目を提案した。

 七月六日

 江青同志は京劇「海瑞、官を免ぜらる」をみて、この劇には重大な政治的誤りが存在すると指摘し、この劇の上演禁止を堅持した。

 九月

 毛主席は党の八期十中全会で "決して階級闘争を忘れるな "という偉大な呼びかけを行なった。会議の期間中、江青同志は斉燕銘に対し、舞台での妖怪変化とあやしげな演劇の間題をもち出し、文化部が注意するよう提案した。その後、中央宜伝部と文化部の四人の正、副部長との談話の中で、舞台、銀幕で帝王将相、才子佳人、妖怪変化が大いに氾濫している問題について指摘したが、かれらはみなきかなかった。

 一九六三年三月十七日

 江青同志の再三の催促により、中央宣伝部は「鬼戯の上演停止に関する指示」を発した。

 五月六日

 上海の「文匯報」は、江青同志と柯慶施同志が組織して書いた大毒草「李恵慧娘」と「鬼があっても害はないの論」を批判する論文を発表した。

 八月

 ブルジョア階級の反動的学術 "権威 "羅爾綱、翦伯賛らは長期にわたって太平天国の裏切り者李秀成を英雄と美化してきた。江青同志は終始毛主席の革命路線の側に立ち、革命派を支持し、こうした反動的謬論にきびしい批判を行なった。江青同志はこれに関する材料を毛主席に紹介し、毛主席はこれを見たのち、直ちに「白い紙に黒い字、鉄の証拠は山のようにある。晩節に不恵なら訓とするに足らず」と批判し、大いに革命派の志気を鼓舞し、学術の陣地にいきいきとした局面を作りだした。

 江青同志の再三の催促で、全国で香港映画の上映を停止した。

 江青同志の直接の指導のもと、上海の文芸界の革命的同志は、ドビュッシーと "鬼を扱った劇 "に対する批判を展開した。

 秋

 江青同志は精魂こめて衍劇「蘆蕩火種」をえらび、北京京劇一団に推薦した。それとともにみんなに毛主席の「実践論」と「矛盾論」などの輝ける著作を学習するよう指示した。劇団がこの劇を立派に演じることを助けるため、江青同志はまた上海人民還劇団を北京に招いて演出させ、京劇団と交流学習させた。

 十一月

 江青同志は精魂こめて、自ら十二種の「紅灯記」の脚本を研究したのち、そのうちの最もよいのをえらび、自ら中国京劇院にわたし、京劇に改編させた。このさい、労働者階級の英雄的形象、季玉和をきわだたせるようはっきりと要求した。彼女は「李玉和は労働者階級の代表であり、革命の先覚者の代表であり、共産党員である。かれは偉大な人物であり、ブロレタリア階級の英雄である。重点を季玉和におき、李玉和の偉大な形象をきわだたせるべきである」と述べた。

 彼女は「演出とは戦闘であり、われわれの次代の青年に対し、プロレタリア階級が革命の成果を手にするのは極めて容易でないことを教育しなければならない」「世界の被圧追人民の同志を鼓舞しなければならない」とはげました。

 十二月

 江青同志はバレエ劇団の中に深く入り、自らバレエの改革を指導した。江青同志は、「バレエは外国で数百年やられてきた。いヨーロッパのバレエはみな退廃し、没落に向っている。バレエ革命の赤旗はわれわれが担がねばならない」と語った。

 江青同志は劇団の同志たちに、眼を世界に向け、少数の人に奉仕してはいけない。全中国人民に奉仕し、アジア、アフリカ、ラテン・アメリカの革命的人民に奉仕しなければならない。雄大な壮志をもち、われわれは必ず自分の道を歩めることを信じなければならないとはげました。

 江青同志は、北京、上海の二つのバレエ団に「紅色娘子軍」と「白毛女」を練習するよう提案した。

 同月

 江青同志は北京京劇一団の中に深く入り、そこに留まって、自ら京劇の改革工作を指導した。また、滬劇「蘆蕩火種」を京劇に改編することを提案した。

 江青同志は一つの劇団をモデル・ケースにしようとしたが、京劇革命の最大の妨害者劉少奇の支持のもと、彰真は再三難くせをつけ障害を設け、俳優を供給せず、劇場を提供せず、江青同志に圧力を加えた。甚だしくは職権を利用し、 "粗製濫造 "という名目で「蘆蕩火種」の上演停止を強行し、江青同志を威圧しようとした。同時に、百八十あまりの劇団をさがしてきて、 "政治任務 "とか "経済任務 "とかいって劇団に上演を要求した。

 江青同志は断固としてかれらに「単にいくらかの金銭のためにということではいけない」と反撃した。

 彼女は「だれもやったことのないことをやらねばならない。荊の道を切り開く人になるのだ」と語った。また、自らサインした毛主席の著作をみんなに贈り、同志たちを教育した。彼女は、「あなたがたはわたしがここで劇をやっていると思うだろうか、わたしはここで封建主義、資本主義、修正主義と闘っているのです」と」語った。

 一九六四年一月三日

 劉少奇、ケ小平は文芸工作座談会を招集した。その席上、劉少奇、ケ小平、彰真、周揚の一味は現代劇を"ロバでも馬でもない "などとほしいままに攻撃し、古典と現代物の "二本足で歩く "ことを提案した。これは現代劇をしめ出そうとするものであり、その上、われわれが古いものに "粗暴 "な態度をとっていると罵った。康生、江青同志はこの席上、劉少奇らと其っ向からするどい闘争を行なった。

 江青同志は「たとえロパでも馬でもないものでも許すべきだ」「新しい劇目はまだ半分もないのにもうある人は "一本足で歩く "などとわめいている」と述べた。また「資本主義はわれわれのものに対し、もっと粗暴に扱っている」と述ベ、さらに短刀直入に「十四年もたっているのに、まだ昔の感情でやっている。これは立場の問題だ」と指摘した。

 三月

 江青同志は自ら上海京劇院の「知恵をめぐらして威虎山を奪取する」のリハーサルを指導した。

 同月

 江青同志は上海で准劇「港の朝」(のちに「海港」と改名)を見て、この劇は港の労働者の国際主義の精神を表現していると認めた。そこで自ら港へ行き調査研究ののち、上海京劇院にこの劇を京劇に改めるよう提案した。

 彼女は「国際主義のすぐれた感情を強め、港湾労働者の英雄的形象をうち立てねばならない」と指示した。改編のさい、劉少奇は黒い指示を出し、英雄的形象を排斤し、 "中間人物 "を強調し、いわゆる "後継者の養成 "に名をかりて資本主義復活に奉仕する人物を描かねばならないとした。

 江青同志はこの陰謀をあばきだした。一九六五年の春、彼女は「こんなに中間人物が登場する劇に改められたのなら、もう一度改編しなければならない」と指摘した。

 江青同志は自ら主宰して、グループを調整し、脚色、音楽関係者を充実し、劇関係グループの革命的同志に対し、「困難があればわれわれが支持する。しかし、ただ一つ、方海珍、高志揚の二人の英雄だけは立派に作りだしてくれるよう望みます」と語った。

 六月五日〜七月三十一日

 毛主席の親身の配慮と周恩来、康生、江青らの同志の指導のもと、全国京劇現代劇コンクールが北京で開催された。今回の演出は京劇というこの最も頑固な保塁を攻め破り、京劇芸術の新生を告げた。京劇革命の影響のもと、文芸客戦線の革命も相前後して開始された。

 われわれの偉大な指導者毛沢東は「紅灯記」(六月十一日)「知恵をめぐらして威虎山を奪取する」(七月十七日)「蘆蕩火種」(七月二十三日)「白虎連隊を寄襲」(八月十日)などのすぐれた劇を観賞した。

 七月

 江青同志はコンクールに出演した関係者に対し、「京劇革命を語る」という重要な報告を行なった。江青同志はこの報告の中で、毛沢東思想で京劇革命の偉大な意義を明らかにし、毛主席の京副草命の絡ギ方針を明らかにした。この談話はマルクス・レーニン主義、毛沢東思想を運用して京劇革命の問題を解決した貴重な文書である。

 十月八日

 毛主席は江青同志が精魂こめて青成した革命バレエ劇「紅色娘子軍」を観賞したのち、「方向は正しく、革命は成功している。芸術的にもすぐれている」と指摘した。

 十月中旬

 江青同志は陸定一、局揚らに「林家鋪子」「不夜城」「逆風千星」「紅日」「革命家庭」「球迷」「両家人」「兵臨城下」「聶耳」ら一連の映画は、反動的で、反革命、ブルジョア階級、修正主義思想があり、低級趣味であるのでみな批判すべぎだと指摘した。陸定一、周揚らは劉少寄の意をうけて、「不夜城」と「林家舗子」の二編の批判だけを許した。

 一九六五年一月

 江青同志は中央楽団に赴き、楽団の革命的同志に「自分の道を歩まねばならない、決して外国人のあとを歩んではならない」と呼びかけ、京劇「沙家浜」を交響楽に改めることを提案した。

 江青同志は上海市委員会での幾つかの映画上映間題に関する請訓報告の席で「悪い映画の上映をさしとめてはいけない。悪い映画をそのまま上映し、批判に供しなさい」と指示した。

 一月二十二日

 江青同志は旧文化部が撮影工作座談会を招集するよう提案し、その席上「プロレタリア階級の政治に奉仕し、社会主義革命と社会主義建設のために奉仕し、労働者,農民・兵士のために奉仕しなければならない」と指示した。

また同時に、監督の唯我独尊、すなわち "監督中心制 "の打破を提案した。

 江青同志はまた、旧文化部が抽象派を提唱しているのを批判し、「周揚、あなたが文化を所轄しているのだから、やはり責任がある」と語った。

 二月中旬

 北京京劇一団の「虞湯火種」は旧北京市委員会との間争を経て、毛主席の「武装間争をきわだたせ、 "沙家浜 "と改称せよ」との指示により、重要な改定を行ない、再度公演した。

 二月二十二日

 江青同志は一通の手紙の中で、映画工作について次のような重要な指示を行なった。

 「当面のこうした資本主義、修正主義の管理方式を徹底的に解決するために、わたしは真面目に映画製作所を詳細に分析、調査することを提案する。監督中心制を廃し、党の民主集中制を実行せよ。すべての創作関係者はみな討論に参加し、その後よいもの、正しい意見を集中して監督がこれを実行せよ。適当でない、正しくない意見は、はっきりさせたり批評してよい」

 この指示は旧文化部によって押えつげられ、七月になってはじめて映画局に〃研究〃するためとして伝えられた。

 四月

 江青同志は上海で、再び革命的現代京劇「知恵をめぐらして威虎山を奪取する」に加筆し、向上させる仕事を指導した。彼女は創作、演出関係者に「すぺての芸術はブルジョア階級のために奉仕するのではなく、プロレタリア階級のために奉仕するのである」と指摘した。

 また「京劇は元来、帝王将相を演じ、封建主義、ブルジョア階級に奉仕するものである。もとの姿のままでプロレタリア階級に奉仕してはいけない。改造しなければならない。革命的な人、荊の道を切り開く人が必要である」と述べた。

 九月末

 江青同志が自ら指導した交響楽「沙家浜」が公演された。

 十一月十日

 「文匯報」が桃文元同志の論文「一新編歴史劇 "海瑞、官を免ぜらる "を評す」を発表し、党内の最大の一握りの資本主義の道を歩む実権派に対する攻撃の火ぶたを切った。この論文は毛主席の支持のもと、江青同志が張春橋、姚文元の同志を組織して、七、八力月の反覆修正を経て完成させたものである。

 一九六六年二月二日〜二十日

 林彪同志は江青同志に委託して、上潅で都隊の文芸工作座談会を招集した。毛主席は三回にわたり座談会の記録要綱に加筆した。中共中央は一九六六年四月十目通知を出して "この座談会は毛沢東思想の偉大な赤旗を高く掲げた座談会であった "とし、また座談会の記録要綱は "当面の文芸線戦における階級間争の多くの根本間題について、正確な分析を行ない、正確な方針、政策を提出した、きわめて立派な、きわめて重要な文書である "と指摘した。

 五月八日

 「解放軍報」は江青同志(高炬と署名した)の論文「反党反社会主義の黒い糸を攻撃しよう」を発表した。

 五月十六日

 毛主席は自ら中共中央の五二六「通知」を制定し、彰真反革命修正主義集回に解散を宣告し、プロレタリア文化大革命の進軍ラッパを吹きならし、その矛先を、党内の最大の一握りの資本主義の道を歩む実権派に向けた。

 「通知」は劉少奇、彰真の支配する「文化革命五人小組」の取り消しと、新たに中央文化革命小組を中央政治局常務委員会の下に設けることを宣言した。

 この小組は陳伯達同志が組長、康生同志が顧問となり、江青同志は第一副組長に任命された。

 江青同志に学べ!

 江青同志に敬礼!

(中国共産党内部文書「江青同志論文芸」所収)

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