4.福田正義という男――中国侵略共犯者の前歴かくす


干渉者にもいえない顔

 時は昨年の九月二十日夜、ところは北京の迎賓館。福田正義は日本の反党盲従集団の代表団長として周恩来らと会見、「日本の真の革命政党の代表」「不屈の革命戦士」などともちあげられ、「わが生涯の最良の日」とばかり得意満面でした。

 福田正義。一九一一年(明治四十四年)一月一日、山口県下関市の商人の家の生まれ、六十一歳。一九六六年九月、日本共産党山口県委員会常任委員だったかれは、中国の干渉者たちのさし図にしたがって公然と反党活動を開始し、祖国の人民と党を売った最悪の裏切り者として日本共産党を追放されました。その後、党転覆の策動をつづけ、一九六九年には「日本共産党(左派)」などという荒唐無けいで許すことのできない看板をかかげ、その「中央委員会議長」の座におさまっています。ここには、外国に魂を売って、五十年の日本の革命的伝統を裏切り、その転覆をはかる反党分子の醜い顔があります。

 そしてこの顔は、中国の干渉者にもいえないもう一つの福田の顔と深いところでつながっています。

「大亜細亜主義」を賛美

 ここに『後藤新平』という一冊の本があります。「満州日日新聞東京支社出版部」、昭和十八年発行、B6判三百八十九ぺ−ジのこの本の著者が福田正義です。

 後藤新平といえば、「満州」の植民地支配にらつ腕をふるった初代「南満州鉄道」総裁。福田は若いころ山口県でプロレタリア文化運動に関係していましたが、やがて逃亡するように「満州」に渡り、御用新聞「満州日日新聞」(のち「満州日報」と改称)の記者になりました。そしてみずから後藤新平を礼賛する伝記を書き、日本帝国主義の中国侵略戦争、中国東北地方の植民地支配に積極的に協力しました。

 福田はこの伝記の目的を、「彼(後藤新平)が熱情をこめて主張した大亜細亜主義」「日本の大陸雄飛の先覚としての後藤新平」を描きあげることだとのべています(「まえがき」)。ことばのとおり、その内容も、「王道の旗をもって覇術を行なう」という後藤の主張を「高邁にして毅然たる精神」ともちあげ、日本帝国主義の侵略政策の推進者後藤を徹頭徹尾賛美したものです。しかも福田は、「後藤新平は、いまも、満州に生きている」「彼を正当に評価し、讃えるものは、彼の『屍を乗り越えて』すすまねばならぬのである」と、後藤につづいて残虐な侵略拡大の道へすすむことを国民にもとめていました。これは福田が最悪の転向者であり、中国人民への凶暴な支配と侵略の積極的な共犯者であることをしめしています。

 福田は、かつて党に提出した文書のなかでも「敵に屈服したことはなかった」と侵略協力の前歴をかくしつづけ、ごく親しいものにもこの「満州時代」については口をとざして語りませんでした。そしていま、かつて中国侵略のお先棒をかついだ福田は、 "不屈の革命戦士 "として中国側に売りこみながら、その黒い前歴があればこそ、一転して盲従とへつらいにつきすすんでいったのです。

 党の戦列に属しながら、ついに福田は、中国侵略戦争に一貫して反対し、日中両国人民の連帯のために不屈にたたかった日本共産党の誇りをともにすることができませんでした。そして福田のこの二つの顔は、党にたいしてもおもてむきの忠実と裏切りのニつの顔をつかいわけさせることとなりました。そうした "本領 "がいちばん発揮されたのが、一九六五年から六六年の時期に、中国の干渉者に賭けてわが党にたいする裏切り行為を公然化させつつあったときです。

「王道の旗」から「盲従の旗」へ

 当時、すでに対外追随の教条主義、極左日和見主義の芽をふきださせていた福田らは、一九六四年の第九回党大会でこの点を全党から批判されました。これにたいして福田は、対中盲従の誤りを認め、「自己批判」をしてみせました。

 たとえぱ、六五年二月十六日、福田は、「国際共産主義運動の中の意見の相違が表面化するにしたがい、……次第に私自身、わが党がこの問題で中国共産党のような方法で闘争すぺきだと考えるようになった。このことはわが党の路線に反しており、他国の党の路線をうけ入れるという現代教条主義の誤りである」と誠実そうに反省してみせました。

 しかし、これが全党をだまし、その同志的批判をそらす口先だけのものであったことは、わずか一年後にかれが公然と反党策動に走った事実がしめしています。

 かつては中国侵略の「王道の旗」に賭け、いまは「盲従の旗」に賭けて反党策動にあけくれる卑劣な野心家――それが二心者福田正義の一つの素顔にほかなりません。


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