2.「日本の延安」――「根拠地」での凋落ぶり


「根拠地」のつもりが……

 なんでも「中国流」の福田一派は、自分たちの本拠地である山口県を「日本の延安」と自称してきました。

 延安といえば、中国共産党が一九三五年から抗日戦争の勝利まで中央指導部をおき、中国革命の「聖地」といわれるところ。福田一派は山口県を「延安」になぞらえて「中国」に自分たちを売りこむと同時に、ここを根拠地にして日本共産党に反対する勢力を拡大しようと夢想したわけです。

 たしかに、福田一派が六年前に "旗上げ "したとき、各地に点在する対中盲従分子のなかで、山ロ県だけは盲従分子が一群をなしていました。とはいっても、その数はわずかに三百余。

 ところが、その後の実態は、本拠地であるはずの山口県でさえ福田一派は「拡大」どころか凋落するぱかりです。

  "旗上げ "翌年の一九六七年の地方選挙でさえ、「日本共産党は議会主義だ」などといいながら福田一派がたてた候補者の古谷荘一郎(下関市)、津田浩俊(山口市)ら現職市議をはじめ五人とも枕をならべて討ち死に。その後は候補者もたてることができません。

 さいきんまで福田一派の「長周新聞」をとっていて「下関には共産党が二派あると思っていた」という人までが、いまでは「古荘君(古谷荘一郎=反党分子、元下関市議)らはほんの少人数。さいきんではあんな連中を本気で相手にする人はいませんよ」(下関市役所職員、四十三歳)というほど。

「最高幹部」も分裂、半減

 「日本の延安」の指導部にみたてた "最高幹部 "も半減しています。

 一九六六年の反党 "旗上げ "宣言に名前を連ねた恥ずべき "最高幹部 "は、つぎの十二人でした。福田正義、隅岡隆春、穴迫隆之、大林清美、津田浩俊、古谷荘一郎、弘中朗夫、田中廉三、板倉澄子、安村哲次、諸井条次、原田長司。このうち、いまでも、福田一派にとどまっているのは、福田、隅岡、穴迫、古谷、弘中、板倉のわずか六人。半数は、分裂あるいは「脱藩」していきました。

 「福田・原田一派」ともいわれ、福田とならんでかれらの "大黒柱 "とされた原田も、反党活動のすすめ方をめぐって福田らと対立、一九六八年にけんか別れし、大林とともに、別個の反党集団をつくりました。田中も昨春福田一派に "造反 "して原田一派に走りました。もっとも、大林は原田一派からも手を引き、いまは家業(農業)に専念。安村も原田一派に身をよせていましたが、いまは「戦意」を喪失しています。

 諸井(元劇団「はぐるま座」主宰)は、自作の演劇「野火」が一九六七年の中国公演のさい改作されたのを不満とし、いらい書斎にこもり福田一派から手を引いています。さらに昨年秋、津田がニクソン訪中の評価をめぐる対立から、福田一派から処分されたことは前回のべました。

 いまかれらの勢力は "旗上げ "当時の三分の一、百数十人になっています。毛沢東らのいう「一が分かれて二になる」を地で行くものといえるでしょう。

退廃の姿――「脱藩」の諸相

 山口市を中心とする中部地区を例に引くと、当初、福田一派について反党活動に走り、日本共産党から除名された人数は七十二人(「はぐるま座」は除く)。このうち、いまも福田一派につながっているとみられるのは半分以下の三十四人、三十八人が「脱藩」しています。

 たとえば――。

 「蒸発組」
 小倉壮平。蒸発。福田一派の盲従青年組織「共青」の書記長。六七年末、突然活動をやめ、妻にも知らせず大阪方面へ逃亡。

 藤井善典。蒸発。日本共産党山本利平県議に暴力を振るうなどかつては狂信的暴力分子の一人。宇部市で福田一派の組織専従者として活動中、昨年はじめドロン。親しいものに「確信がなくなった」とグチをこぽしていました。

 蒸発組にはほかに酒井良江、三戸良子らもいます。

 「転身組」
 下瀬真輔。職制コースへ "転身 "。元山口地区労青婦部長。当局の肩たたきにあって、半年たらずで当局ペッタリに、六八年二月、広島ヘ "栄転 "。

 国安治雄。同じ盲従分子の経営する職場をクビになり、他家へ婿入り。西山公子。さいきん福田一派のものに内緒で転職。

 大林基広、松下俊一、光谷英次、石田典子、山本芳則、井上凡夫、安田博など。

 「変身組」
 高井昭美。弁護士。福田一派から分裂して原田一派へ移ったのち、そこからも離れて、いまはトロツキスト・シンパ。トロツキスト暴力集団の弁護を買ってでています。

 ここには、祖国と党を売ったものたちの、救いがたい退廃の姿がよくあらわれています。

 「日本の延安」――それは盲従分子の「本拠地」どころか、盲従路線の "墓場 "になろうとしているのです。


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