プロレタリアートの革命的むほん精神万歳

清華大学附属中学の大字報


 革命はむほんである。むほんは毛沢東思想の魂である。われわれが主張する、「運用」に思いきって力を入れなければならないということは、ほかでもなく、主に「むほん」に力を入れるということである。大胆に考え、大胆にものを言い、大胆に行動し、大胆に突進し、大胆に革命をおこなうということは、一言でいえば、大胆にむほんを起こすということである。このことは、プロレタリアートの革命家のもっとも基本的な、もっとも尊い資質であり、プロレタリアートの党性の基本的原則である。むほんを起こさないということは、百パーセントの修正主義である。

 修正主義は学校を十七年間ものあいだ支配してきた。こんにちわれわれがむほんを起こさないとすれば、一体いつまで待つというのか。

 大胆にも、われわれのむほんに反対する一部の連中は、いま突然気まずくなり、くどくどしくつぶやいたり、ことばをにごしたりしている。そして、あまりにも一方的だ、あまりにも無茶だ、あまりにも乱暴だ、あまりにもいき過ぎだ、などといっている。

 こういう言い方は、一から十まで全部間違っている。反対しようとするなら、反対するがよい。なにも恥ずかしがることはないではないか。

 われわれは、むほんを起こす以上、お前たちのお世話にはならない。われわれは、むせかえるような火薬のにおいを立てようと思っている。爆破筒と手投げ弾をいっしょにぷちこんで、命をかけて大格闘をやろうとしているのだ。「人情」だ、「全面的配慮」だなどというものは、ひきさがっておれ。

 お前たちは、われわれが、あまりにも一方的だといっているだろう。では、お前たちが必要な全面的配慮とはどのようなものか。それは、どうやら「二つのものが一つになる」ということであり、折衷主義であるらしい。

 お前たちは、われわれが、あまりにも無茶だといっているだろう。そうだ、われわれは「無茶」でなければならないのだ、毛主席は詩の中で「当年の万戸の侯を糞土とせり」といっている。

 われわれは、清華大学附属中学の反動派をうち倒すだけでなく、全世界の反動派もうち倒さなければならないのだ。革命家は世界の変革を自らの使命と考えている。「無茶」をやらなければ、どうしてこの使命がはたせるのか。

 お前たちは、われわれが、あまりにも乱暴だといっているだろう。そうだ、われわれは乱暴でなくてはならないのだ。修正主義に執着し、大いに温情主義でのぞむなどということが、どうしてできるのか。敵にたいする温情は、革命にたいする残忍である。

 お前たちは、われわれが、あまりにもゆき過ぎだといっているだろう。率直にいって、お前たちのいわゆるゆき過ぎでないというのは、改良主義であり、「平和移行」である。それは白昼夢だ。われわれは、お前たちを地上にたたきつけ、さらに踏みにじってやる。

 また一部のものは、革命を死ぬほど恐れ、むほんを死ぬほど恐れている。基準をいささかも踏みはずさず、二つ返辞でいうことをきき、カタツムリのように修正主義のからの中にちぢこまっているお前たちは、いったんむほんの声をきくやいなや、神経過敏症になってしまう。さいきん、糾弾の声が無情にも、毎日お前たちの耳に送りこまれ、お前たちはふるえおののいている。お前たちは、これでもやりきれないと思わないのか。どのように生きのびられるというのか。

 革命家は孫悟空である。その金の如意棒の威力は恐るべきものだ。その神通力は実に広大無辺で、その魔力は全能である。ほかでもなくそれは、かれらが百戦百勝の、偉大な毛沢東思想をもっているからである。

 われわれは、この大きな棒をふりまわし、神通力を発揮し、魔法を使って、旧世界を根本からひっくりかえし、これをばらばらにし、こなごなにうち砕くのだ。

 それは激しければ激しいほど結構だ。われわれは、現在、修正主義の巣くっている清華大学附属中学に向かって、このような大むほんをおこし、最後までたたかうものである。われわれは、プロレタリアートの大騒動をひきおこし、大いにあばれてプロレタリアートの新世界をつくり出すのだ。

 プロレタリアートの革命的むほん精神万歳!

清華大学附属中学紅衛兵

一九六六年六月二十四日


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