養豚にも唯物弁証法

黒竜江省甘南県太平生産大隊 尹永徳


 わたしは生産隊の飼育係をしている。一昨年の八月、生産隊では集団の養豚業を発展させることになり、貧農、下層中農からわたしは飼育係におされた。養豚というのは非常に責任が重い。うまくいかなかったら貧農・下層中農に申しわけないし、集団の事業をそこなうことになる。そう思ったので、「だめです。わたしは経験がないし、豚飼いはとてもやれません」と言った。けれども、自分の考えをさらけ出してみると、何だか間違っているような気がした。毛主席のかがやかしい『老三篇』を鏡にして照らしあわせてみると、わたしのこうした考え方は、「何をするにも、まず自分のためを考える」といっている通りではないか。これはブルジョア階級の「私心」のあらわれだ。貧農・下層中農がわたしを飼育係にえらんだのは、わたしを信頼してくれたのだ。それなのにあれこれと考えて尻込みした。こんなことで心から、人民に奉仕するとどうして言えよう! 生産大隊の共産党支部書記、呂和同志も辛棒づよくさとしてくれた。呂和同志はこう言った。「養豚の経験は、養豚の実践から生まれるものだ。実践こそ最良の学習で、養豚をやってみないで、養豚の方法をどこでおぼえるつもり かね。」毛主席はこう教えている。「人間の正しい思想はどこからくるのか。天からふってくるのか。そうではない。もともと自分の頭のなかにあるのか。そうではない。人聞の正しい思想は、社会的実践のなかからのみくるのであり、社会の生産闘争、階級闘争、科学実験というこの三つの実践のなかからのみくるのである」。毛主席の哲学思想によって教えられ、わたしは武装することができて、養豚の信念は固まった。

 はじめわたしは、豚飼いという仕事は、毎日水を何ばいか運び、豚の飼料を煮たうえで、飼料桶に入れて食べさせるけでいいんだと思っていた。矛盾が、つぎからつぎに出てくるとは思ってもみなかった。われわれが飼っている豚は大小あわせて百七十匹あまり、毎日同じように食べさせているのに、どうしてふとったのや痩せたのがいるのか。「だれでも、事物を認識しようとすれば、その事物と接触すること、つまりその事物の環境のなかで生活すること(実践すること)よりほかには、解決の方法がない」と毛主席は指摘している。わたしは毎日豚に食べさせるさい、こまかく観察、分析して原因をいろいろと考えた。そこで、何十匹もいる豚に食べさせるには、いっしょくたにしてあたえてはいけない。具体的に分析をくわえ、それぞれ区別しなければならないことに気がついた。すぐにかみつく豚もいればおとなしいのもいる。ほかのを押しのけて食べる豚は、腹がはちきれるほどに食べ、よくふとっている。いつも押しのけられる豚は腹がべたんこで、ふとれる筈がなかった。なかでもひどく気の弱い豚が一匹いて、ほかの豚がわっと飼料桶にとびついて食べはじめると、隅のほうへ身を かわして、あっちで一口、こっちで一口とろくに食べず、ほかのが腹いっぱいに食べてしまってから、のこりものにありつく。こうした状況にもとづいて、わたしはすぐにかみつく豚とおとなしい豚を別々にして、飼料もいくつかの桶に分けて食べさせることにした。とくに気の弱い豚は、一匹だけ別にして食べさせた。しばらくすると、一匹のこらずふとってきた。この実践のなかから、わたしは豚によって飼料桶をきめ、それに応して飼料の量をきめるという経験をえた。

 古い矛盾を解決したかと思うと、また新しい矛盾が生まれた。皮膚病にかかった豚が何匹かいて、白い毛が黄色になり、しじゅうかゆがって壁に体をこすりつけているのに気がついた。獣医にたずねると、豚が皮膚病になったのは、豚小屋が湿っているからだという。豚小屋が湿らないようにするには、小まめに掃除をし、藁を度々とりかえるようにすれぱ良いと思った。そこでわたしは、一日に一度掃除をし、三日に一度はしき藁を取りかえ、藁を日に干したうえで消毒のために石灰をふりかけることにした。ところが、翌朝になると、豚小屋はやはり湿っている。なぜだろう。毛主席は「どのような過程を研究するにも、それが二つ以上の矛盾の存在する複雑な過程であるならば、全力をあげてその主要な矛盾をみいださなければならない」と教えている。この場合の主要な矛盾は何か。わたしは頭をひねった。主要な矛盾はやはり豚自身にあった。豚が小屋のなかで小便をしなければ、湿ることはないのだ。どうすれば小屋のなかで小便をさせずにすむだろうか。わたしは毎晩、豚を小屋から追い出して小便をさせてみた。冬に暖い布団のなかから起き出して、豚を小屋から出すのは辛い。だが 、これをやらなければ豚の皮膚病は治らないし、そんなことでは社会主義革命と社会主義建設につくすことはできない。

 夜になって豚を追いたてるのはなみたいていなことではない。こっちのを追いたてると、あっちのがねむってしまう。ぜんぶを追いたてるには、ひどく時間をくう。どうすれば良いか。考えてみると、豚というものは、たたかれたことは覚えていないが、食べることなら覚えている。そこで、トウモロコシを少しばかり小屋の外にまいて鞭をバシッとならすと、豚はすぐに出て来てトウモロコシを食ぺ、小便もした。こうして日を重ねるうちに、トウモロコシをまかなくても、その時間になって鞭をならすと、豚は小屋を出て小便をするようになった。小便でねぐらをぬらす問題を解決すると、皮膚病はめっきりへった。

 皮膚病の問題は解決できたが、こんどは冬に子豚が死ぬという問題にぶつかった。豚飼いをはしめたばかりで、わたしは子豚をとりあげた経験がなかった。ある目、子を生みそうなのがいたが、干し草を少し入れてやっただけで、放っておいた。翌朝行ってみると、十匹の子豚が生まれていたが、そのうち五匹は死んでいた。これには強いショックをうけた。貧農・下層中農は集団の財産をわたしにまかせているのに、わたしは張思徳同志のように誠心誠意人民に奉仕しなかった。ペチューン同志のように仕事にたいして極度の責任感をもたなかった。われわれが豚を飼うのは、それを国に売りわたすためである。一匹でもよけいに育てることは、社会主義革命と社会主義建設のためにそれだけ貢献できることであり、帝国主義、修正主義、反動派を徹底的に打倒し、全人類を解放するために、すこしでも貢献することなのだ。自分の受け持っている仕事にたいしてこんなにいい加減なやり方をしたのでは、党にたいし、貧農・下層中農にたいして申しわけがない。

 毛主席はこう教えている。「人びとが仕事に成功しようとおもうなら、つまり予想した結果をえようとするなち、自分の思想を客観的外界の法則性に合致させなければならない。合致させなければ、実践において失敗するにちがいない。失敗したあとで、失敗から教訓をくみとり、自分の思想を外界の法則性に合致するようにあらためると、失敗を成功に変えることができる。『失敗は成功のもと』とか、『いちどつますけば、それだけ利口になる』とかいわれるのは、この道理をいっているのである」。そこでわたしたち養豚をやっている者数人で毛沢東思想学習班をつくり、失敗のなかから、経験・教訓をみちびき出した。子豚が死んだおもな原因は、わたしたちが仕事にたいして極度の責任感をもたなかったためだと思った。また、寒さがきびしくて、生まれたばかりの子豚の毛は濡れていて、これが凍ると四肢が動かなくなる。寒いと体をちぢめるし、ちぢめるとまた寒さがこたえ、ついには足が動かせず、目もあけられなくなって死んでしまう。これが子豚の死んだ客観的原因である。だが、これはわれわれが主観的な努力を払いさえすれば克服できるものである。子豚の死亡があまりにも 多かったこの最初の教訓を総括して、つぎのときには、わたしはそばについていて、生まれた子豚をすぐさま麻袋や毛皮につつんだり、ふところに人れたりして室内にはこび、オンドルのうえで毛をすっかり乾かしてから母豚のところへつれていった。その後十四回子豚が生れたが、この方法で一匹も死なせずにすんだ。このことをつうじてわたしは、毛主席の哲学思想で武装し、人間のもつ主観的能動性を十分に発揮すれば、不利な条件を有利な条件に、悪いことを良いことに変えられることを深く認識した。

 この問題を解決したうえで、わたしはまた考えた。毛主席はこう教えている。「生産闘争と科学実験の分野でも、人類はたえず発展するものであるし、自然界もたえず発展するものであって、おなじ水準にとどまっているようなことは永遠にありえない」。子豚は冬に生まれるとどうしても死亡率が高くなる。冬をさけて春と秋に生まれるようにはできないか。豚は一年に二回子を生むのが普通だ。子をはらんでから生みおとすまで百十五日かかり、この日数は一日か二日かのちがいはあっても、ほとんどかわりない。この計算にしたがって豚を計画道り生ませようとすると、旧暦の七、八、九月には交配をさせず、厳寒期もさければ、春と秋に生ますことができる。こうして冬をさけ、子豚が一匹のこらず育つようにした。

 養豚という仕事も、ほかの仕事と同じように矛盾がたくさんある。一つを解決すれば、すぐにほかのが出てくる。うちの生産隊に新しく買い入れたぶちの牝豚が子を生んだ。わたしはいつものように、取りあげた子豚の毛をオンドルでかわかして、翌日乳をのませにつれていった。ところが思いがけぬことに、子豚が乳首にしゃぶりついたとたんに、母豚がぱっとたちあがって前へすすんだからたまらない。一匹の子豚はふみつけられて腸がとび出してしまった。「生まれたての子豚のことだし、こんなに腸がとび出るほどふんづけられたんでは、とても生きのびられるもんじゃない。一思いに捨てたほうがいいぜ」とすすめる者もいた。だがわたしは考えた。張思徳やベチューンは完全に徹底的に人民に奉仕した。いまここで子豚を捨てたら、完全に徹底的に人民に奉仕するといえるだろうか。一つが分かれて二つになるという観点にたって分析すれば、子豚がふまれて腸がとび出だというのは、死ぬ可能性もあるが、生きる可能性もあるのだ。一定の条件をつくってやれば、生のほうへ転化させることができる。わたしは子豚を家へつれて帰り、お湯で傷口を洗ってから腸を腹のなかに押しこんで 、傷口を縫ってやった。そのうえで家にあった化膿どめを傷口にふりかけ、寒くないように綿と布を体にまいた。それから妻の乳をしぼってもらってのませてみた。こうして注意ふかく介抱してやったところ、子豚は元気に青った。

 ところが、この子豚が十キロあまりになったある日、急に元気がなくなって乳をやっても飲まない。さわってみると燃えるようにあつい。子豚を家に抱いて帰り、「娘がのんでいるテトラサイクリンはまだ家にあるかね」と妻にたずねた。妻はわたしにたてついて、「うちの娘は体が弱いんだから、あの薬は娘のために買ったんですよ」といって、どうしても出そうとしない。わたしもかっとなって、「早く持ってこい!」とどなった。だが思いなおして考えてみると、毛主席は「人を従わせようとすれば、説得するよりほかはなく、おさえつけて従わせてはならない。おさえつけて従わせようとすれば、結局、おさえつけても従わせられないのが常である」と教えている。そこでわたしは妻に言ってきかせた。「ここはよく考えねばならんところだ。偉大な指導者毛主席がおられなかったら、おれたち貧農・下層中農がいまのような仕合わせな暮らしができるものかね。おれたちは学習のときにはいつでも、毛主席の著作を読み、毛主席の教えにしたがい、毛主席の指示どおりに仕事をし、毛主席のりっぱな戦士になろう、と言うじゃないか。ところが、いざ個人の利益にかかわる問題にぶつかって みると、ブルジョア階級の『私心』が頭をもたげる。これは、二つの路線、二つの思想のたたかいというもんだよ」とことをわけて話してみると妻もわかってくれた。そこでテトラサイクリンをのませると、子豚の病気はたちまちよくなった。この子豚は命拾いをしてすっかり元気になり、今では目方も五十キロをこえている。

 わたしは、豚飼いの実践をつうじて、つぎのことを認識した。すべての事物の発展過程には、はじめから終わりまで矛盾の運動が存在する。矛盾を解決するには、かならず身をもって実践しなければならない。毛主席の教えにあるように「実践、認識、再実践、再認識」することではじめて、事物の発展法則を一歩一歩はっきりとつかみ、革命運動をたえず前進させることができるのである。

(「人民日報」1970年6月1日)

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